リチャード・S・シェイヴァー 宮本神酒男訳 

声にさいなまれて 

 

「おい、ジョー・ラダッツ! その手押し車、こっちに持って来てくれ!」

 私は溶接機の先から顔を上げ、周囲をくまなく見まわしたが、だれもいなかったので、目をしばたたかせるだけで、途方に暮れた。耳の中の声は、どこからも聞こえてくるはずがなかった。このデトロイトの自動車工場の仲間の労働者のだれも私の近くにはいなかった。

「何てこった……」私はそうつぶやきながら、あきれたかのように肩をすくめて、それから仕事に戻った。

 しかし溶接機のスイッチを入れた瞬間、声が戻ってきた。

「くそ、このリベット、フィットしやがらねえ。高さ9の32径ってわかっちゃいたんだよ」

 声はパタリとやんだ。神経を集中して私は声を聞き逃すまいとしたが、それ以降はまったく聞こえなかった。

 正午の笛が鳴り、私も仕事の手をとめた。だがすぐにランチへ行こうという気にはなれなかった。まわりに人がいないのに声がすることについて私はずっと考え続けていた。なんという奇妙なことだろう! 

「それにしてもジョー・ラダッツとはだれだろう」私はつぶやいた。私はコーヒーを飲み干し、ポットをランチ・ケースのなかに戻した。それから私は立ち上がり、ズボンをはき、監督室の狭苦しい部屋に入った。

「クロッキー、ちょっと頼みを聞いてくれるかな」と私はたずねた。

「お安い御用だけどね」と彼は不平がましく言った。「ケツを休ませることができるんならな」

「ええ、もちろん。この作業工程にジョー・ラダッツという人がいるかどうかを知りたいだけなんです。その働いている場所も、できれば」

クロッキーは高いスツールに腰かけたままくるりと回転し、壁に貼られた作業者名簿の上に指を這わせ、その下のカード置きをまさぐった。

「ラダッツねえ、ラダッツ。あ、そうそう、いたよ、思い出した、ジョー・ラダッツ、この作業工程にね。セクション20だ。ここを降りて、このビルの一番端っこだ。あいつはリベット係だ」

「ありがとう、コッキー」と私は礼を言って自分の作業場に戻った。顔をしかめたままの私の頭の中は、いま聞いた情報が、ふらふらになった回転花火のように、くるくる回っていた。

(溶接のイメージ) 

「セクション20か」とブロンズの溶接機の桿(ロッド)が束ねられた収納棚によろめきそうになりながら、私はつぶやいた。「あんなところにいるやつがしゃべっているのを、どうやって聞いたのだろうか」

 私は音響について考え、唇笛を鳴らした。

「それだ、おそらく。それなら聞こえたっておかしくない」

 首都の議事堂のなかに古い上院議院の部屋があって、そこのあるスポットにいると、30メートル離れたところからささやいても声が聞こえたという。そこ以外の場所では聞こえなかったのだ。音響っていうのは面白いものだ。建物の建て方によって、聞こえるはずのないところで音を聞くことができるのだから。洞窟にもそういう例があるという。30メートル離れて聞こえないのに、1キロ離れて声が聞こえるとうのはどういうことなのだろうか。

 謎を解き明かしながら私は仕事場に戻り、ついニヤリと笑った。「小さなことだが、こうしたことが人を自分がバカだと思わせるのだ」と私は声に出して叫んだ。

 私は自分の持ち場のベンチに戻ると、どっかりと坐り、午後の作業開始の笛が鳴るのを待った。それが鳴る響く頃には、私はジョー・ラダッツのことも音響のこともすっかり忘れていた。

 2時、声はまた戻ってきた。今度はジョー・ラダッツの声ではなかった。それは新しい声だった。がさつで、しゃがれた声。そして彼(声の主)は筋が通った話をすることができず、理解できたのは二語だけだった。それらはいつも私が口にする言葉ではなかった。そして直後にまた私は声を聞いた。工場の中を上下する男たちの声。一時間後、私は二つのことを学んだ。すべての声は私が働いている工場の片側から聞こえていた。その端から聞こえたかと思うと、反対の端から聞こえた。溶接銃を置くと、それらはもう聞こえなかった。ともかくこの二つのことは関連していた。

 夜がやってくるまでに私はつきとめなければならなかった。声の男たちは近くにいるようだった。声と接触するためには、ビルの私の側のワイヤー網に接続された機械が関係していた。しかしスポット溶接機と物理的に接触しないかぎり、声は聞こえなかった。

 私は楽に呼吸できていたと思う。結局、説明がついたので、喜んでそれを受け入れることができた。ワイヤー網、そしてそれにつないだ機械は、声を取り上げ、電気回路を通じて伝送する、そして私の銃(溶接機)のなかから再生産する電話のような役目を果たしていた。その夜、私はこのことについて熟考し、貯蔵室の監督官に話した。

「ピート、この機械、修理部に送りたいんだけど。壊れてるみたいだ」

「いったいどうしたんだ?」

「過度に振動するんだ」と私は嘘をついた。声がどうしたこうしたと、真実をグダグダ話すより、そのほうがいいだろう。それに鼻を鳴らして蔑んだ目をして、私を狂人扱いする可能性だってある。新しい溶接銃はもらえるのだろうか。どうしてもほしいのだが。作業に集中しなければならないときにそれが電話の受話器のような働きをするとすれば、精神は持ちこたえられない。

 新しい溶接銃が来たが、何も変わらなかった。翌日私はまた声を聞いた。

 できることはひとつしかなかった。綿で耳栓をすることだ。

 しかしそれでも声は聞こえた! 

 いまはじめて私は少し恐くなってきた。彼らの声を聞いているのではなかった。私は彼らのことを考えていた。彼らは静かに、音をたてることもなく、私の心の中にいた。メンタルなテレパシーだ! 

 私のまわりにいる人たちは、遠くても近くても、何かをしゃべり、何かを考えていた。そして私は話された言葉のすべてを聞き、すべての秘密の思考を読むことができた。

 これらの人々の思考を私は受け取っていた。たとえば声はこんなふうにしゃべっていた。

「たしかにマイク、あんたは正しいよ」「もしこいつが正しいなら、こいつのシャツを食べてやる」「あんたはボスだ!あんたのやりかたにあわせてやっていくよ」「バカを言え! ラインまで下がって、おれがなんとかするから。親方であんたみたいなバカはじめてだ」

 親方に向かってこんな口の聞き方をする労働者なんていない。

 また私は人を赤面させられ考えや物事について声が話しているのを聞いた。私が顔を赤らめるなんてこと、めったにないのに。

 たとえばある男が女について考えている。もし男が女を愛していると彼女が考えるなら、だれかが彼女の目を覚まさせなければならない。その男を選んだのは間違いだ、そう私はこっそりと彼女に教えてあげるべきだ。でも待てよ、どうやったらそれが正しいことだと証明できるのだ?

 仕掛け爆弾みたいなものだ。でも罠はしまっておくべきなのだ。でなければ自ら仕掛けた罠を踏んでしまうだろう。だれかが考えていることを本人に悟られずに知ってしまうのがどんなに悪いことか、私は気づいていなかった。

「彼を棚の上に置け」と声は言った。

 私は溶接機を切って下に置き、坐って眉をひそめた。声、思考、あるは何でもいいが、何かが間違っている。彼を棚の上に置けだって? 自動車製造工場で人を棚の上に置くなんてことはできない。

 道具ならわかる。そう、物なら何でも。棚? いったいどんな棚だ? 

「一時間のうちに彼をズタズタに引き裂け」と恐ろしく満足気な調子で、声は言った。「きちんと、ゆっくりやれ。彼にはたんまりと苦しんでもらおう。彼に光線を当てよ。そうすればすぐには死ぬまい……」

 私の溶接機は落ちてセメントの床に当たってガタンと音を立てた。私は凍りついたかのように立ったままだった。頭上の髪の毛はぞっとして竦みあがった。私は何を聞いているのか?

 声は消え去った。自動車工場の忙しい機械やあわただしい人々の、ガチャガチャ、ガンガンと鳴り響く混沌の渦巻きが、私の周囲から忽然と消えて、静寂だけが残ったかのようだった。

 私は床の上に転がった溶接銃をじっと見つめた。私は震えていた。いったい何が起きているのか。その声はだれかの声ではなかった。この工場の労働者の考えていることでもなかった。狂人の考えというのならともかく。

 狂人? 

 私はそう考えて青ざめ、震えがとまらなくなった。たぶん私は頭がおかしくなってしまったのだ。たぶん声は実在していないのだ。ほかのだれの声も聞いてなどいないのだ。私の心は壊れてしまったにちがいない。だからぞっとするような幻覚に悩まされることになったのだ。

(溶接のイメージ) 

 いや、違う。ジョー・ラダッツは本当にいた。名前は正確に聞いていたし、彼は実際にここで働いている。それにほかにも確認できた男たちがたくさんこの工場で働いている。どうやってかわからないが私はその声を、実在するだれかの考えが言葉になったものを聞いたのだ。

 あるいはそれがもはや正常ではないということなのだろうか。狂人は、彼らの頭脳があまりにもうまく機能しすぎているために狂人になってしまったのだろうか。狂人は、頭脳が活発すぎるために狂人になってしまったのだろうか。科学が言うように、頭脳は9割だけ使い、残りは休ませ、高次の生物に進化しようとしているのだろうか。結局、ただたんに、これが狂気というものだろうか。

 声を聞く人間は精神病院に入れられてしまう。しかしおそらく実際、彼らは声を聞いているのだ。おそらく彼らは狂人なんかじゃないのだ。おそらく彼らは私とおなじなのだ。

 私はまた溶接銃を見た。不意に考えが浮かんだ。もし私が狂人なら、この溶接銃がなくても狂人だろう。いかなるときでも声が聞こえるだろう。おそらくずっと。溶接銃を手に取って見てみる。

 するとおぞましい苦悶の叫び声が私の頭脳を貫き、私は跳ね起きて、息をぜいぜいといわせた。そして私は叫びながら溶接銃を放り投げ、駆けだした。心の中には激しい痛みの叫びが響いていた。それはダンテの地獄篇で拷問を受けたかのような絶叫だった。

 どこかで、どうにかして、人間はゆっくりと苦しみながら死んでいく。そして私は彼が死んでいくのを聞いている! 

 私はもはや耐え切れなかった。駆け出したいところをなんとか抑えた。抑えながら歩き続けてクロッキーの監督室に達した。

「タイムカードをパンチしてください」私はあえぎながら言った。「仕事、やめたいんです。溶接に耐えきれなくなったんです」と私は弱音を吐いた。

 クロッキーは異物を目にしたかのように私をじっと見た。それからぶつぶつ何かを言いながら私のカードをパンチし、それを私に手渡した。

「オフィスに行けば支払い小切手をもらえるだろう」と彼はしわがれた声で言った。「残念だな、ディック」

 彼は依然として怪訝な表情を浮かべていた。「病気なんじゃないかね」

「いや、違います、違います」私はあわてて取り繕うように言った。「大丈夫です。溶接が好きになれないのでやめることにしたんです。それにしばらく休暇を取りたいと考えていたところだったので。働きすぎたんですね。だから私が病気に見えたんでしょう」

 最後はぶつぶつとつぶやきながら私は去って行った。振り返ることはなかった。どうして振り返る? ひとつだけはたしかだった。溶接銃はこれが見納めだった。私が狂人でなかったにしても、溶接銃は遅かれ早かれ私を狂人にしただろう。

 30分後、私は工場を出て路面電車に乗り、自宅に向かっていた。

「彼のホテルは徹底的にきれいだ」と声が言った。「彼はたくさんのものを掘りだした。彼はとても頭がいい」

 私、リチャード・シェイヴァーは気が触れようとしていた。いま、そのことがはっきりとわかる。私は自分自身の心の中でペチャペチャとしゃべっている狂人の戯言を聞いていた。今まで味わったことがない恐怖を感じながら路面電車の席に座った。ほかに何かあるだろうか。これがメンタルのテレパシーだとしても、そのような現象と私が聞いたことをどうやって結び付けられるだろうか。意味を成していなかった。狂人でさえ意味があることを言うものだが、この心の中の言葉――彼のホテルは徹底的にきれいだ――は、どんな意味を持つのだろうか。

「彼が家の地下室から掘っていけば洞窟に達するという意味だ」と声が説明した。

 自分の質問に、自分の心の中の声が答えた! 雷に打たれたかのように私は座席に深々と腰を下ろした。頭の中にはまだ理性が残っていた。私はあえぎながら質問を発した、今度は聞こえるように。隣の男がぽかんとして私を見つめた。

「それはどれだけ深いのだ?」それが私の発した質問だった。

「300フィート(90メートル)ほどだ」と声は言った。突然それは驚くべきことを説明していたのだ。それから声は消え去った。そして同時に首のあたりに、つまり脊椎に、鈍い衝撃を感じた。そしていまにも形を現しそうな目をくらます頭痛から、私はもうすこしで苦悶の叫びをあげるところだった。

「差し出がましいことを言うようですが」と隣の座席の男が話しかけてきた。「いますぐお家にお帰りになったほうがよろしいですよ。ご病気のように見えます」

 私は痛みをこらえた目で彼を見た。「ええ、そうですね」と私はあえぎながら言った。「そうしたほうがいいみたいです。体調がよくありません。ひどい頭痛がするのです」

 私はなんとか立ち上がり、よろめきながら後部のほうへ歩いていった。それから下車した。

 自分の部屋までの残りの道を、私はひどい頭痛と戦いながらなんとか歩いた。意識を失う前に私はかろうじてベッドを作ることができた。意識が遠のいていくのを感じながら、真実がかすかな光を放っているのがわかった。科学を超越した正当とは呼べない方法で目に見えない存在がわが頭痛を起こしているのだった。ホテルについて戯言をしゃべっていた声とおそらくおなじだろう。質問を浴びせることによって、私は声を心に呼び込んだのだ。私は声を聞いていることをあきらかにした。しかしそれは歓迎されるべき発見ではなかった。いま苦痛に満ちた暗黒に沈みこむことそのものがその証明となった。






<解説>
 リチャード・シェイヴァー自身が言うようにこれが真実の話だとすれば、おそろしい物語である。つまり、世にも珍しい初期段階の狂人の物語なのである。シェイヴァーにとって溶接機はとても重要な小道具であり、象徴だ。「声」ははじめ溶接機の音に混じって聞こえてくる。それは次第に溶接機から離れ、どこにいても頭の中で響くようになる。これはあきらかに幻聴だ。
 客観的に見れば彼は統合失調症の戸口に立っている。実際彼は9年近くもの間、3つの精神病院ですごすことになる。それでも彼は自分を精神病患者とはみなしていない。声の主が地底の洞窟に住む存在だとわかり、そのメッセージは未来の人類への警告だと信じるのだ。
 この『声にさいなまれて』は初めて声が現れたときのドキュメントである。


溶接(イメージ) 

 私自身、頭を強く打ったのか、一時的に「声」が聞こえる状態になったことがある。だからこの小説に描かれていることは他人事ではない。
 作者は隣の席の人に(あるいは仕事場の監督官に)「病気ではないですか」と言われて「大丈夫」と答えている。しかしこれなど、現実生活では、ブツブツとひとりごとを言っているはずだ。「ちょっとヤバイ」タイプなのである。もし作者自身がそのことに気づかないで書いているとしたら、とても悲しいことである。
 私も似た状況に陥ったときのことを思い出すと(意外と記憶は断片的だとしても残っている)涙をおさえきれなくなる。































































溶接機は溶接銃とも呼ばれる 
(写真はイメージ)