1古代羌族からチベット・ビルマ語族へ

 古代羌族、すなわち現在のチベット・ビルマ語族の祖先は、魂の移動経路に関してとても敏感な人々だった。彼らは羊を追ううちに、アジア中に拡散し、一部はヒマラヤを越え、インド洋にも達した。今も生を終えるとき、シャーマンの導きによって魂は祖先が旅してきた遥かなる道を遡り、原郷に戻る。そこは永遠の安寧が保障された極楽のごとき夢幻境である。

送魂路という観念はとても魅力的だ。われわれも死んだら輪廻転生するのではなく、魂は祖先が歩んできた道を遡り、海を越え、モンゴル草原をへて、アルタイ山脈から天界へ昇っていく、というのならどんなに素敵だろうか。天界には死んだおばあちゃんやおじいちゃんだけでなく、顔も名も知らない祖先たちがたくさん幸せに暮らしているだろう。そこではいさかいも恨みも妬みもないので、平安そのものである。

 こういった観念を生み出したチベット・ビルマ語族とはどんな民族群なのだろうか。

 チベット・ビルマ語族の祖先が古代羌族であることは、歴史的にも、言語学的にも、ほぼまちがいない。しかし彼らの故郷が(多くの学者が信じているように)モンゴルと青海・甘粛の間のあたりと断定していいのか、なぜはじき飛ばされるように拡散していったのか、時期はいつごろなのか、など問題点は多々あるのである。しかもチベット・ビルマ語族が拡散したのは一回きりの話ではなく、当然何度もあったはずであり、一度インド平原に達した彼らがヒマラヤ南麓にもどったというケース(ネパールのライ族の伝承)さえも想定されるのだ。

 考古学的見地から眺めてみよう。青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。

 青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などがつぎつぎと登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。

 チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。

 中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。史記に登場するテン(サンズイに眞)国や夜郎国などはその子孫によって建てられたのかもしれない。また言語学者の推定によれば、中国西北から南下したチベット・ビルマ語族からビルマ人、カレン族、ナガ族などに分離したのは、いまから2500年前と4500年前のあいだだという。つまり紀元前500年頃にはすでに現在の民族がほぼできあがっていたということになる。(賀聖達2003

 チベット・ビルマ語族がいつ頃ヒマラヤ南麓にやってきたか、定説もなければ有力な説もない。私は、第一陣はすくなくとも3000年前には達していたのではないかと考える。ヴェーダ聖典(紀元前1000年から前500年頃編纂)のなかにキラータという名が出てくるが、後世モンゴロイドを指すことばとなる。

 『ヤジュル・ヴェーダ』ではキラータは穴居人とされ、『アタルヴァ・ヴェーダ』ではキラータの少女が山岳地帯の端で薬草を掘る(摘む?)という記述がある。西チベットやヒマラヤ西北には数十の、あるいはそれ以上の洞窟遺跡群があり、ムスタンの洞窟から発見された動物の骨からそれが紀元前800年頃のものであることがわかったのだ。

 話を中国の古代に戻そう。羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。この羌人がそのまま漢代以降の羌族と同一とみなしていいかは議論の余地はあるが、中原から見て北方のモンゴル・トルコ系は狄と呼ばれ、西北の原チベット・ビルマ系は羌と呼ばれていたと考えるべきだろう。

 後漢書・西羌伝によれば、西羌(西方の羌族)の始祖は無弋愛剣(ぶよくあいけん)という奴婢であり、河湟地区に逃げてきたあと、農地を開墾した。無弋愛剣はチベット語のBu g-yog yab r-gyal(奴隷の子にして父なる王)に当てられた字だとすれば、西羌とチベット人はきわめて関係が深いということになる。

 後漢書・西羌伝はつづいて無弋愛剣の曾孫がずっと西方のほうへ移動したことを記述していて、チベット学者はこのことを軽視する傾向にあるが、チベット人起源に関する有力な情報であることにまちがいない。

 史記・西南夷列伝には巴蜀西南外蛮夷として、テン(サンズイに眞)、キョウ(工ヘンにオオザト)都、夜郎、スイ(山カンムリに雋)、昆明、シ(徒の右上を止)、筰都(さくと)、冉(ぜん)ボウ(馬ヘンに尨)、白馬などが挙げられているが、これらは古代羌族の後裔だろう。大半が現在のイ族に相当し、一部はチャン(羌)族やギャロン族と考えられる。白馬部落が現在の白馬族(白馬蔵族)に相当するかどうかは議論の分かれるところである。

さて無弋愛剣が定住した河湟地区は前述のように新石器時代にはすでに先進地域であり、送魂路の多くもこの地域を起源地とみなしていて、チベット・ビルマ語族のいわば原郷なのである。

この地区には数多くの羌族系の部落があったが、前漢・後漢の頃のその中でも最も強大だったのは、先零羌だった。先零は現在の西寧をあらわすシリンにあてられた漢音だろう。 後漢書・西南夷列伝はまた四川西北には、六つの夷部落、七つの羌部落、九つのテイ(低からニンベンを取る)部落があると記されている。夷は現在のイ族やナシ族、羌はチャン(羌)族やチベット系民族、テイは古代の巴人や現在のトゥチャ(土家)族などと結びつけられるかもしれない。

 近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。上述の青銅器時代の寺ワ文化(甘粛)は羌族からテイ族となった最初期の例である。しかし漢化しながらも民族性を維持したトゥチャ(土家)族やイ族などを除くと、テイ族は長い年月のあいだに漢族と融合し、漢族そのものになってしまった。

五胡十六国時代(304-439)はテイ族の全盛期だった。前秦、成漢、後凉という三つの国がテイ族の国だった。とりわけ華北を統一した前秦は、天下分け目の戦いである383年のヒ水(ヒはサンズイに肥)の戦いに破れなければ、中国統一も夢ではないほどの強大な力を誇っていた。この時代は小国が興亡し、乱立した混乱の時代だったが、漢族と周辺民族が融合した時代でもあった。

 そういったなかで大きな勢力を得たのは、北魏などを建て、隋や唐を建国した(もちろん有力な説にすぎないが)モンゴル系の鮮卑だった。中原に羌族系の国家は成立しなかった(周王朝や秦王朝が羌族系という説もある)が、そのぶん漢化度のすくない吐蕃が成ったのである。