2 中国西南少数民族

 以前、雲南南部のシーサンパンナ(西双版納)の森のなかを歩いていたとき、偶然素朴な雰囲気をもった若夫婦に出会った。民族名を聞くと、夫は「ムッソーだ」と誇らしげに答えたのである。そのときタイ北部でもラフ族が自身をムッソーと呼んでいたことを私は思い出した。ひらめきのようなものが走って、ムッソーとは古代のモソ蛮のことだ、とハタと気づいた。

かつてモソ蛮は現在の四川西南あたりにいた民族群を指していた。二千年前、言語的に同グループに属するラフ族とナシ族のあいだに区別などなかったはずである。そのうちモソはおもにナシ族のことを指すようになり、最近は瀘沽湖周辺の母系社会や通い婚で知られるナシ族支系納日(ナズ)人の通称となった。

 チベット・ビルマ語族のなかでも彝語支に分類される民族、すなわちイ族、ナシ族、ハニ族、リス族、ラフ族、ジノー族は兄弟といってもいいほど近い関係にある。言語的には雲南のイ族とハニ族のほうが、雲南のイ族と四川のイ族より近いほどなのである。どの民族も二千年前、モソ蛮と呼ばれていてもおかしくないのだ。

そしてこれらのどの民族もこの二千年のあいだに北のほうから移動してきたという伝承をもっている。私がシーサンパンナで会ったアイニ(ハニ族支系)の長老は、長い(民族移動の)旅路の果てに大河を渡るとき、ペイモ(巫師)が文字を書いた牛皮を呑み込んでしまい、以来文字をなくしたままであるという伝説を、起きたばかりのできごとのように語ったし、ジノー族の人々は諸葛孔明とともに蜀からやってきたものの、置いてきぼりを食ったという情けない伝説を自慢げに話すのも聞いた。諸葛孔明の話はとうてい信じるに足りないが、二千年くらい前に南下がはじまっていたのはまちがいない。

 上述のように、古代のチベット・ビルマ語族は後漢書の書かれた時代、夷と羌とテイの三種類に分けられていた。夷の民族は、そのまま彝語支の民族と考えてさしつかえないだろう。当時すでにチベット・ビルマ語族として漠然とかもしれないが認識され、同時にもっと細かく分類されていたのは、驚くべきことだ。

羌の系統に属する現在の民族は、チャン族、プミ族のほか、民族として識別されていない(公式にはチベット族)が、四川西南のナムイ族、ルス族、スヒン族、タパ族、グチョン族、ミニャク族などが含まれる。ギャロン族も仲間に加えるべきだろう。

 残りのテイに関しては、テイ族を主張する白馬族以外、どの民族が後裔といえるだろうか。四川巴蜀人の血を引くと思われるトゥチャ族や、彝語・ビルマ語に近い言語を話すアチャン族、ツァイワ族(ジンポー族支系とされるが、別民族)なども含めるべきだろうか。さらにジンポー族やドゥロン族、ヌー族は……。

もしかすると、遊牧民族を羌族、低地に定着した羌族をテイ族、その中間を夷族とした可能性もある。そうすると、厳密に現在の民族をあてても、あまり意味はないだろう。