12 祖先の住む楽園

 ギリシアの詩人ホメロスによると、前述のエリュシオンは、地の果て、西の彼方に浮かぶ幸福の島だという。雨も雪も寒さもなく、いつもゼピュロス(西風の神)のさわやかな微風が吹いている。英雄たちは死ぬこともなく、(冥界の審判者)ラダマンテュスの支配のもと、しあわせに暮らしているという。英雄たちを祖先ととらえれば、エリュシオンこそ祖先の住む楽園の最初の例といえるだろう。

 東アジアでまず思い浮かぶ死後の楽園といえば、浄土だ。その代表的なものは弥勒の兜率天と阿弥陀の西方浄土だろう。インド仏教の宇宙論では、須弥山の上方に33の天上世界が重なっている。弥勒仏はそのひとつ兜率天で人間界へ下生する機会を待っている。弥勒をとくに奉じる仏教徒は死後、兜率天に生まれることを願うのだ。その世界は美しく、楽しいことばかりで、苦しみはないだろう。

 しかし圧倒的な支持を得たのは阿弥陀の西方浄土だった。阿弥陀仏にはふたつの性格、無量光(アミターバ)と無量寿(アミターユス)がある。経典では西方の極楽について、苦しみはなく、楽しみばかりなので、極楽と名づけると説明している。そこには金、銀、瑠璃など七種の宝石でできた蓮池があり、蓮池の中央には車輪ほどの大きさの蓮花が咲いている。つねに天上の楽器が演奏されていて、大地は黄金色で美しい。夜と昼、三度ずつ天上のマンダーラヴァの花が降る……(『阿弥陀経』からの抜粋)といったふうに、かぎりなく美しく、魅惑的なのである。

 チベット人にとっても西方浄土(チベット語でデワチェン、サンスクリットでスカーヴァティー)は心の中に大きな位置を占めている。いわゆる『チベット死者の書』(バルド・トゥドル)が示すように、ポワによってデワチェンへの転生を願うのだ。

チベット・ビルマ語族は、多くの場合魂が祖先の地へ帰されるのだが、そこが具体的に描写されることはあまりない。白族支系ナマ人のムロンディンという祖先の地はめずらしく詳しく描かれている。「そこはとても快適ですごしやすく、うつくしいところだ。水牛や牛が田を耕し、男女が金銀を好きなだけ掘ることができ、蜂蜜は天から降ってくる。鬱蒼とした豊かな森があり、無数の鳥が飛び回り、何をしなくても衣食住に困ることはない」。

 ハニ族の祖先の地では、生前と同様の暮らしをしている。おなじように村があり、家がある。おなじように種を播き、収穫し、食べるものには事欠かない。喜びばかりがあふれていて……と、いいことずくめなのだが、刺激があまりにも少ないような気がする。

リス族も霊魂は蘭坪県の森のなかに送られるが、祖先たちと生前とおなじような生活を送るという。男の魂は九回、女の魂は七回、生まれ変われば、天空の雲や霧となって昇天するのだという。森とはいっても、それは冥界へ通じる敷居のようなものとかんがえるべきだろう。

 別の地方のリス族の信仰では、『葬送歌』(ツォシワスンゴ)に導かれ、魂は太陽の出る地方へと送られる。山の中の寒々しい景色から、光のまぶしい天界に近いところへ出た喜びのようなものが感じられる。

ヌー族も死ぬと魂は福貢県に実在するイロフという洞窟に送られる。そこもまた冥界へ通じる敷居なのである。その先には、生前と変わらないが、楽しいことばかりの世界が待っているのだ。

 ドゥロン族の祖先の地アシモリも、現世の生活とまったく変わらないという。しかし私がナムサ(巫師)に聞いた天界は、花々が咲き乱れ、鳥や蝶が舞い、高くてきらびやかな建物が建っているそれはうつくしい世界だった。

 生きているナムサがいわば脱魂して訪ねる世界と、死後行く世界は異なるのだろうか。私はそれを語った紋面のシャーマン、クレンが極貧の底にあったこの世界を離れ、彼女が魂を飛翔させて垣間見ていた天界でしあわせに暮らしていることを願ってやまない。

ナシ族やラフ族の魂は、死後、北方の祖先の地へと送られる。そこもまた美しく、のどかで、争いのない平和な世界である。

 理想郷に関して無視できないのは、ナシ族の「玉竜第三国」だ。麗江が世界遺産に登録され、ナシ族の地域は美しい伝統文化が継承されているという面のみがクローズアップされる。しかしごく最近まで心中多発地帯であったという悲しい歴史があるのだ。

 なぜ心中が多かったかといえば、親が取り決める封建的な結婚制度のなかで自由恋愛を貫こうとした結果だといえる。そのとき、「玉竜第三国」というトンバのうたう理想郷が拍車をかけた感は否めない。

 民国元年(1912)にはトンバがハラリュク儀式を行なうことを禁じ、「ルバルサ」が詠まれないように圧力をかけたが、さほどの効果はなかった。かえって集団心中すらも増えていったのである。

 麗江を見下ろすように玉竜雪山が聳え立つ。その上に下から第一、第二、第三の国がある。第一国は蝿や蚊がとびかう薄気味悪いところ。第二国は青い草も木も森も泉もない殺風景なところ。そして第三国は樹木が青々と茂り、花が咲き乱れ、空は晴れ渡り、白い雲が浮かび、さわやかな風が吹く楽園なのだ。俗世の苦しみや嘆きはなく、はれやかな気持ちで、霧や雲を衣とし、泉の清水を飲んでさえいればいい。トンバだけでなく、民間歌手もうたっていたので、接する機会は多く、現世に絶望した男女がこの理想郷を選ぶのも、もっともなことである。