4 李霖燦の送魂路

 ナシ学研究の先駆的な二大大家といえば、オーストリア生まれ米国籍の植物学者にして探険家のジョセフ・ロック(1884〜1962)と李霖燦(り・りんさん 1913〜1999)だろう。

 ジョセフ・ロックはとにかくスケールの大きい人物だったようだ。20世紀半ば、一時的ではあるが、エベレスト(海抜8848メートル)より高い山があると誤認されたことがあった。じつは計量ミスを犯してしまったのがジョセフ・ロックで、海抜6282メートルのアムネマチン峰をなんと海抜9041メートルとみなしてしまったのだ。私はロックのこの世紀の大ポカがなんとなく好きだが。

 一方でロックは20年代から1946年まで麗江に滞在し、文化人類学者顔負けといっていいほど徹底的に、ナシ族の文化やトンバ教について研究した。多くの研究者にとって、また私にとっても、いまなお彼の研究は第一級資料としても価値をもっている。ちなみに彼は太平洋戦争終結前に大量のトンバ経典を船便で送ったが、どうやら船が日本の艦船の砲撃によって沈められ、海の藻屑となってしまったらしい。なんとも申し訳ないことをしてしまったものである。文革の時代に多くのトンバ経典が失われてしまったことを考えれば、相当の痛手であったといえる。トンバ経典は紙に書かれるため、何百年も残ることはほとんどない。残っているなかでもっとも古いものでも明代後期、すなわち16世紀に書かれたものである。トンバ文字で書かれた経典は千年前に生まれたという主張があるが、だれもたしかなことは言えそうにもない。私が所蔵しているトンバ経典のなかには百年以上前に書かれたものがあるが、かなり擦り切れてしまっている。

 ジョセフ・ロックについてはまたどこかで述べるとしよう。もうひとりの大家、李霖燦は私にとって偉大な先達者である。送魂路を発見したのは彼なのだ。

李霖燦は河南省輝県のさほど裕福ではない家庭に五人兄弟の四男として生まれた。母親を早くに亡くし、儒学を愛する飲食店経営者の父親に男手ひとつで育てられた。河南師範学校で二年間学んだあと、浙江省杭州の西湖の畔にある国立杭州芸術専科学校に進み、絵画を専攻した。ここまでの彼の人生は凡庸とまでは言わないが、波風の立たない平穏なものだった。

しかし日中戦争が勃発し、人生が一変する。学校は北京の芸術学校と合併して国立芸術専科学校となり、一九三九年、難を逃れるために雲南省昆明に移った。この時期に彼は著名な作家にしてディレッタントである沈従文(シェン・ツォンウェン)と出会った。沈従文は、日中戦争中に北京大学などの有名大学が連合し、昆明に開設された西南連合大学で教鞭をとっていた。彼にすすめられ、李霖燦はナシ族の都というべき麗江をはじめて訪ねた。そして麗江の町を見下ろすようにそびえる玉龍雪山(海抜五五九六メートル)の美しさに圧倒されるとともに、ナシ族の文化にはじめて触れ、感銘を受けたのだった。

 その後李霖燦は中央博物院の学芸員となり、その一生をナシ族の文化およびトンバ教研究に捧げることになる。もっとも、中央博物院が属する故宮博物館そのものが台湾に移ってしまったため、彼は台湾へ移住して研究をつづけることになる。最後の肩書きは故宮博物館の副館長である。晩年は息子が住んでいるカナダで穏やかな日々を過ごした。彼の生涯は、一般の学者からみれば想像を絶するような激動と混乱のなかで翻弄されつづけたものだった。

 はじめて麗江にやってきたとき、李霖燦は大トンバの和士貴と会い、(西田龍雄の言葉を借りれば)「生きている象形文字」であるトンバ文字で記されたトンバ経典をたくさん目にすることができた。彼は厖大なトンバ経典のなかから送魂路が記された箇所を見つけ出した。そして一九四二年には、実際にその足で送魂路をたどってみることにした。当時出会ったばかりで、以後、台湾に渡るまで研究をともにすることになる魯甸(ろでん)村の若いトンバ和才は当惑して李霖燦に尋ねた。

「これはわれわれナシ族の亡魂の道だ。あなたは死者の道を歩もうというのか」

「いや、そうではありません。魂が送られる道の逆は、ナシ族の祖先がやってきた道だと考えればいいのです」

 目からウロコが落ちるような思いを和才はしたにちがいない。送魂路をたどるのは不謹慎なことのように思えるけれど、実際は、祖先たちの歩んできた道をたどっていく意義深いことなのだ。李霖燦は送魂路を終点からたどる場合の路線を起祖路と呼んでいる。その道をたどっていけば、太古の昔、ナシ族の祖先がどこからやって来たかがわかるはずである。

 送魂路は実際に起きたことを反映していた。

 魯甸村の大トンバ和世俊が書き写したトンバ経典をもとに、李霖燦と和才は送魂路をたどった。出発点はバルチャ(魯甸村付近)、三番目が死者の木偶を捧げる洞窟、そのあと巨甸村(一三番目)を通って白水台下の村(五八番目)へとつづく。そのあとずっと北上してモソ人が多く住む永寧(七七番目)、それから瀘沽(ろこ)湖畔の大嘴(ダーズィ)村付近へ。大嘴村が送魂路上に含まれるかどうか確認できないが、含まれるとすれば七八番から八〇番あたりだろう。

 この大嘴村には、いまもナシ族が住んでいる。なぜモソ人(ナシ族支系)居住区にナシ族の村があるかといえば、明代末期に麗江の木天王、すなわちナシ王の木氏が派遣した屯田兵の末裔だからである。この地区はチベットとナシ国の領土紛争の最前線にあった。歴史的事実と送魂路が符合しているのだ。

 送魂路は麗江からふたたび永寧へ戻り、四川の木里を経て、無量河を渡り、最終的にはジュナララ山に達する。ジュナララ山はゴンガ嶺(四川省稲城県)という無名だが気高く美しい峰ではないかと李霖燦は考えた。私はこの山の麓にまでは達したことはないけれど、少し離れた森の中からこの雪に覆われた尖った山頂を目にして、しばらく立ち尽くし、見とれたことがあった。このジュナララ山(ゴンガ嶺)は、魯甸を第一とした場合、送魂路線上、じつに一〇二番目の地名だった。

 ナシ族の送魂路のルートは村の数ほどあるといえるのだが、大きく分けてふたつのバージョンがある。ひとつは短いルートで、終点はこのジュナララ山(ゴンガ嶺)。ただし李霖燦自身が言及しているように、ジュナララ山を西チベットの聖山、グルティセ(カイラース山)とみなす見方がある。この場合は短いルートとは言えなくなる。もうひとつは長いルートで、終点は青海湖(青海省)を経て、さらにその北方へとのびている。この長いバージョンのほうが夢を抱かせてくれる。しかし本当にこんなにも北のほうへつながっているのか、あやしむ向きも少なくない。懐疑派はいつだって立証されないかぎり認めようとしないものである。

 考えるにジュナルァラとは須弥山(スメール山)のことだろう。ナムイ族(四川省南西)や白馬族(四川省北部と甘粛省南部)も偉大なる山のことをイナとかユナと呼んでいた。ルァラはチベット語のリラブ(ri rab)すなわち須弥山ではないかと推定する。ジュナルァラは須弥山であるが、インド・チベットでは古来よりカイラース山が須弥山のモデルではないかと言われてきたのだ。

 送魂路線上の最後のジュナルァラ山へ至る前の四つの地名が注目される。どれもムから始まっているのだ。

 

ムシュア・クンズンバ(九八番目)→ ムル・トクプ(九九番目)→ ムル・チコル(一〇〇番目)→ ムル・シュジズ(一〇一番目)→ ジュナルァラ山(一〇二番目 送魂路の最終地点)

 

 李霖燦はムルを地名の木里(ムーリー)としている。木里から木里県や木里寺院といった名前が派生している。木里の木(ム)自体は天を意味している。しかしジュナルァラ山を天界にある山だと考えれば、これらムのつく地名は、すでに境界を越え、天界に入っているとも考えられる。

 こうして諸説紛々とするのは、地名の多くが正式名称と異なるだけでなく、ナシ族の現在の呼称とも異なるため、特定するのが困難になっているからだ。彼らの祖先が来た道を復元するには、推量に推量を重ねなければならなかった。

 とはいえ、送魂路がナシ族の過去を知るための大きな手がかりとなったのはまちがいない。ナシ族にかぎらず、送魂路を有するすべての民族の歴史をそれによって解き明かすことができるはずだ。記録がほとんど残っていないマイナーな人々の埋没した歴史に光が差されるのだ。