23 ボン教の香りがほのかに漂う迎神路:ニンバ族

ネパール北西部フムラ地方はもっぱらカイラース・トレッキングのスタート地点として知られるが、いままで何度もチベット人の移住の波が押し寄せ、チベット文化の古層をほのかに漂わせた独自の文化を形成してきたのである。百数十年前、中央チベットのミンドリン寺からニンマ派僧がやってきて定住したのも、そうした移住の歴史のひとこまだった。その影響は思いのほか大きく、ニンマ派はフムラ全体で圧倒的な地位を占め、おそらくボン教の衰退につながった。

 フムラ地方のチベット人はニンバ族といわれる。カサ族やビャンス族(ラン族)などと混じることによって純粋とはいいがたいが、チベット人の一種なのである。我々は謎の多い古代シャンシュン国や古代ボン教について考えるとき、フムラにその手がかりがあるのではないかと考えた。

 聖なるカイラース山はシャンシュンの中心地であったし、カイラースとフムラの中間に位置するプランは、シャンシュンの四大城砦のひとつだった。ボン教のシャンバラともいうべきオルモルンリンは、カイラースにあったという説がある一方で、フムラこそオルモリン(オルモルンリン)にほかならないという異説もあるのだ。

 フムラで調査をすすめるうち、シャンシュン国滅亡のあと、難民が逃げてきた可能性が高いことがわかってきた。シャンシュン国は7世紀前半にヤルルン政権(吐蕃)がチベット全体を支配する前、かなりの長い間広い領土を支配していた。西はギルギット、北はホータン、南はムスタン、東はナムツォにまで及んでいたという。東に関しては、現在の四川省のギャモロンまでも含む大シャンシュン主義ともいうべき見方もある。

 シャンシュンは吐蕃の拡張とともに力を失い、7世紀、ソンツェンガンポ王の吐蕃との戦いに敗れ、属国的な地位にまで落ちぶれた。その後8世紀、ティソンデツェン王の吐蕃によって滅亡したと考えられる。

 私はシャンシュンやボン教についての手がかりを得ようと送魂路を探し始めたが、フムラのどこでも葬送儀礼はチベット仏教方式で行なわれていることがわかってきた。あきらめかけたとき、ヒントを与えてくれたのがダングリ(Drangri 祭司)のチェリン・チョンベル(Tsering Chhombel)とダミ(Dhami シャーマン)のマンガレ(Mangale)だった。

 村(バガウン村)に滞在中、家の女性が病気になり、ダミのマンガレが治療儀式をおこなった。その儀式の導入部で守護神ゴンボ・チャクドゥクを呼び出すとき、地名を列挙し、いわば神の道を現出したのである。その道をかりに迎神路と呼ぼう。

 

<キュンルン・カル(Khyunglung Khar)→ チャンタン(Changthang) → カンリ・コルスム、すなわちカイラース山(Kangri Korsoom) → チョゲ・ナワタワ(Chhoge Nawathawa)→ ナチェン・カンリ・コルスム、すなわち聖なるカイラース山(Nachen Kangri Korsoom) → カル・クンナル・グドク(Khar Kungar Gudok) → チョルトゥン・ンガリ(Chholtung Ngari)→ キュンルン・カル(Khyunglung Khar)→ ンガリ(Ngari)→ ニマ(Nima)→ バルカン・チュクラカン(Barkhang Chuklakhang)>

 

 カルは城砦の意味であり、キュンルン城はシャンシュン国の都である。ボン教徒のあいだでは、キュンルン・ングルカル、すなわちキュンルン白銀城という言い方をする。守護神がシャンシュンの都から来たというのは、どういうことなのだろうか。

 ダミのマンガレ自身の説明によると、守護神のゴンボ・チャクドゥクはゲルク派の神であるが、もともとはボン教の神だったという。表面上は調伏されて仏教の神になっているが、その表皮をぺろりと剥げば、ボン教の顔が見えてくるというわけだ。

 ダングリのチェリンの説明によれば、ニンバ族はドゥワ氏族とキュンバ氏族の二大氏族によって成り立っているが、キュンバ氏族の祖先は、キュンルンの最後の三家族だという。ということは、ニンバ族はシャンシュン人の末裔であり、ボン教の継承者ということになる。ちなみにこれらのキュンはボン教が好むガルーダを意味する。

 いっぽうダングリのチェリンはヒルサ(地方神)の旅程を述べてくれた。

 

<グン・レンバ・チュクスム、13層の天(Gung Remba Chuksoom) → ライ・テングリ・チュクスム、神の13層の天(Lai Tengri Chuksoom) → パル・ウツァン・ルプシ(Pahr Utsang Rupshi、ウツァンの中間) → ワッ・ダワン・カムスム、カム低地(Mat Dawang Khamsoom) → グン・トン・トンボ、空の高み(Gung Thon Thonbo) → カン・トン・トンボ、カイラースの高み(Kang Thon Thonbo) → ツォ・トン・トンボ、マナサロワル湖の高み(Tso Thon Thonbo) → チャン・ナムディ・カタン、チャンタン(Chyang Namdi Khatang) → グルラ山(Gurla) → クンガル・トッ・キ・ボクト、クンガル・トッ山頂(Kungar Tot Ki Boktho) → チャンジャ・カン・キ・ボクト、チャンジャ・カン山頂(Chyanja Kang Ki Boktho) → コジャル(Khojar)→ ナラ・ラモ、ナラ峠(Nara Lamo) → トゥムブ・キ・タクト・トンボ(Tumbu Ki Taktho Thonbo) → ヒリン・ラモ(Hiling Lamo) → サッリ・ラモ(Salli Lamo) → タムシ・ラモ(Tamsi

Lamo) → ジャジャン・ライ・ボクト(Jyajang Lai Bhoktho) → ヒャンシ・カル・キ・ボクト(Hyangsi Khar Ki Bhoktho) → ト・カルラ・ナイベ・シンギ・ドンジャン・チョ・ナムドル・チェンボ・キ・ポプ(Toh Kharla Naibe, Singi Dongjan, Cho Namdor Chhenbo Ki Phop

 

 この迎神路はやや混乱していて、中央チベット(ウとツァン)に降臨したあとカムに行くが、本来はカムに降臨していたのではないかと思う。ヒルサの道は何通りかあるのだが、そのうちのひとつはシリン(現在の青海省都西寧)が出発点だという。シリンは西羌の本拠地であり、まさにチベット・ビルマ語族の原郷といわれる地域なのである。

 シャカダワ(釈迦の誕生日)とおなじ陰暦415日、ラリン・ゴンパや山の中腹でおおがかりな歌舞の祭りが開かれる。このときニンバ族の男はル(ナーガ)を象徴する杖をもち、ガルーダを象徴する天空の舞いを演じるのである。ガルーダとナーガはボン教の好む組み合わせであり、ダングリ自身「これはボン教の舞いである」と説明する。

このようにボン教の伝播した道と、祖先が守護神とともに移動してきた道のふたつの道があることがわかる。宗教文化の原郷はシャンシュンのキュンルンであり、民族の原郷は青海ということになるのだろうか。