Introduction

 

はじまりはナシ族の村だった。雲南省北部の景勝地であり、ナシ族の聖地でもある白水台の膝下の村で老トンバ(ナシ族祭司)と談笑していたときのこと、ふと、以前から気になっていた、亡魂を冥界へと導くという指路経(送魂路)について尋ねてみた。すると老トンバは即座に、滔々と、地名を列挙しはじめたのである。亡魂がたどっていく送魂路の地名である。数十の地名はなにひとつ認識できないものだった。

 そして最後に挙げた最終地点らしき地名も舌を噛みそうなほど長く、なじみのないものだった。[註1] 

「それはどこにあるのですか」

「わしにもわからん。インドかどこかであろう」

 なんということか、継承者である本人にもわからないとなれば、いったいだれに聞けばわかるというのだろうか。その後、私はさまざまな資料のなかから、何通りもの送魂路を探し出し、また自ら山の奥深くに分け入り、各村に伝わる送魂路をトンバや長老から聞き出した。

 そして次第にわかってきたことは、村ごとに送魂路があり、それらをたどっていくとジュナルァラ山という山に達し、ときにはそれを越え、おそらく青海・甘粛の境あたりへ向かうということだった。この路線はまちがいなく、本来遊牧民だった、つまり古代羌族だった彼らの移動経路を反映していた。そしてまたチベットやインド方面へ抜けていく路線もあった。これは「祖先の来た道」というより、宗教的な「魂の道」といったほうがいいだろう。

 葬送儀礼においてトンバは地名をひとつずつ列挙し、祖先の来た道に沿って村から村へ、山を越え、川を渡り、亡魂を民族の起源地でもある永遠の理想郷へと送るのだ。この死後観念は、これから述べるように、チベット・ビルマ語族に共通するものと思われる。

 もちろん彼らの専売特許というわけではない。

 貴州西北のミャオ族にも類似の風習が見られる(席克定1990)し、ボルネオのブラワン族(Berawan)でも、霊魂はカヌーに乗って祖先の来た川を遡っていくのだ(Metcalf 1992)。楽園のような死者の国は、ギリシア神話のエリュシオン(Elysium)以来さまざまな民族がさまざまな彩りを添えて描いてきたが、キリスト教の天国にせよ西方浄土にせよ、ユートピアというのはさほど変わらないものである。ナシ族の送魂路が特徴的なのは、楽園は原郷にあり、そこへ回帰するまでの道のりが非常に細かく述べられている点なのである。

中国では、ナシ族の指路経とならんで、イ族の指路経がよく知られている。イ族の送魂路は期待されるように中国西北へ遡るのではなく、ほとんどの場合、雲南北部の昭通あたりで止ってしまうのだ。おそらく民族のアイデンティティが形成されたのは、共通の始祖トゥムから六つの部族に分かれたそんなに古くない時期(といっても紀元前だろう)だからと考えられる。

 ほかにも、リス族、ハニ族、ラフ族、ジンポー族、ドゥロン族、ヌー族、白族、プミ族など多くのチベット・ビルマ語族が送魂路をもっている。あとで詳しく述べるように、イ族のように短いものもあれば、ジンポー族やドゥロン族のようにモンゴルにまで遡る長いものもある。

 しかし意外なのは、現在のところ、チベット人に送魂路が見られないことだ。とはいえ仏教が圧倒的に優勢になる前に送魂路の観念がなかったとは言い切れない。また古代ボン教になかったかどうか、たしかめる必要があるだろう。

 私は中国内のチベット・ビルマ語族のほとんどが送魂路をもっていることから、当然他の地域、ミャンマー、ネパール、インドへとつづく広い意味でのヒマラヤ山系に沿ってこの信仰がのびているだろうと考えた。

 まず狙いを定めたのが、西チベットのカイラース山(ティセ)の入り口にあたるネパール西北のフムラ地方である。フムラのチベット系ニンバ族は、古代シャンシュン国となんらかの関係があるかもしれないと私たちはにらんでいたのである。送魂路の先が中国西北なのか、シャンシュンのあった西チベットなのか興味深かった。しかしチベット仏教ニンマ派の影響が強く、葬送儀礼も仏教様式で行なわれていた。

 あきらめかけていた私に光明を射したのは、シャーマンであるダミ(Dhami)とシャーマン・プリーストでるダングリ(Drangri)だった。彼らは儀礼のとき神を呼ぶ道、いわば迎神路を唱える。これが送魂路の代替だと思えたのだ。ダングリの迎神路はシリン、すなわち青海省西寧に達するものもあった。そしてダミの迎神路の出発点はなんとキュンルン、シャンシュン国の都だった。

 ついで私はインド・ネパール国境のやはりカイラース山南方のラン族(ネパール側ではビャンス族、旧称ボーティア)の地域を訪ねた。セイヤーモという葬送儀礼のときにうたわれる祭文をしらべるためである。外部に漏らしてはならぬといわれてきたセイヤーモが筆写されたという噂を聞きつけていたからだ。しかし国境上の街にたどりついてわかったのは、筆写した人物が数ヶ月前に他界していたことだった。

 それでもなんとか故人の子息を探し出し、ラン語とヒンディーで書かれた大学ノートをコピーし、一年半がかりで翻訳したのである。中身は、正しい葬送の仕方といくつかの神話、そして送魂路である。送魂路がたどりつく最終地は、チュンルン(キュンルン)グイパト、これまたシャンシュン国の都なのだった。

 インド西北キナウルでは、祭礼のときにうたわれる送魂歌を収集した。魂は一度北上し、グゲ・チャンタンに達し、そのあと南下して、聖なるキナー・カイラース山の頂上から冥界に入る。グゲは西チベットを中心とした王国。チャンタンはラダックを指す場合もあるが、シャンシュン国のことだとする説もあるのだ。

ネパール、インドにおける一連の調査を終え、中国にもどってきた私は送魂路の絵巻物を「発見」した。四川西南から雲南北部にかけていくつかの民族が送魂絵巻を持っているが、ナシ族の神路図(ヘジピ)を除くと、中国内の研究者にすら無視されるか、あるいはほとんど知られていなかったのだ。神路図は20世紀の二十年代から四十年代にかけて麗江に滞在したジョセフ・ロックに研究され、またエリアーデの古典的名著「シャーマニズム」のなかにシャーマニズム的な例として挙げられ、存在が内外に知られてきた。

 しかし送魂路が具体的に絵巻に描かれるのはナムイ族の絵巻だけである。ナシ族やプミ族の絵巻はチベット仏教の影響を強く受けていて、亡魂は一度地獄の底に落ち、そこから天界へ向けて上昇していくというものである。トス族の絵巻はナムイ族の絵巻と似ているが、具体的な地名はほとんどなく、冥界への道案内といったおもむきのボン教絵巻である。送魂絵巻が誕生した背景には、中国での絵巻物の流行とトンバ経典という絵文字経典の存在があったと思われるが、送魂という観念がこの地域に広く行き渡っていたことを示すものでもある。

くわしくはのちほど述べたいが、こうして、ミャンマーではラワン族(ドゥロン族)、ジンポー族、ネパールではリンブー族、ライ族、マガール族、タカリ族、グルン族、ニンバ族、インドではラン族、キナウル人などにも送魂路があることがわかってくる。このように送魂路を調べることによって、いままで謎とされてきた民族の移動や形成があぶりだされるのである。

 それにしても輪廻転生というアジアに圧倒的に流布する死生観に囲まれながら、どうして「魂は祖先の来た道を遡って永遠の休息地へいたる」という死生観が生きながらえたのだろうか。思うに、彼らがもともとモンゴルと青海・甘粛のあいだにいた古代羌族といわれる遊牧民であり、数千年前、正確な状況はわからないが、ビリヤードの最初の一突きのように、なにかの要因によって一斉に南方から西南の方向へ向かって玉が飛び散ったからである。

 はじめに住んでいた地域や祖先は理想化され、聖地・聖人としてとらえられるようになる。民族移動そのものも聖化されるのである。民族移動は、ユングのいう集合的無意識、言い換えれば「人類が先祖代々積み重ねてきた無数の典型的体験」が「神話的な形態」をなしたもの、とも言えるのではなかろうか。祖先崇拝というひとことでは到底くくられるものではない。

 あるいは、ウィリアム・ジェームスのように、過去へと遡行していく幻視(ヴィジョン)を彼らは得たのかもしれない。祖先から自分へいたる道は連続していて、個というものはないのである。南米アンデスのシャーマンが「私は600歳だ。祖先はみな私のなかで生きているのだ」と語るとき、この死生観と近いのではないかと思う。(Espinoza 1995

 ハニ族には、いまわの際に最期の一息を受け継ぐという習俗がある。口移しで息子が息をもらうという例もあるのだ。こうして人は個人の生を終えても、一族のなかで永遠に生きていくのである。(白玉宝・王学慧 1998

 送魂路という死生観と輪廻転生が共存する場合もある。ラン族(ビャンス族)の信仰によれば、魂はキュンルン・グイパトという理想郷に送られるが、時がたつと、転生してこの世に生まれることがあるのだ。いっぽうでドゥロン(独竜)族の場合、魂は蝶の姿をとってこの世にもどってくるが、死んでしまえば、転生するでもなく、終わってしまう。それなのに送魂路もあり、とこしえの国に戻っていくという信仰も共存しているのだ。我々は生まれ変わりたいと願うこともあれば、生の苦しみをこのまま永遠に終止符を打ちたいと思うこともあるだろう。民族全体でも矛盾する信仰をあわせもつのだろうか。

 輪廻転生という観念は強力な伝染力をもっていた。日が落ちても翌朝は新しい日が昇るし、月は欠けても満ちていくし、冬が来て植物が枯れても春には芽が出るだろう。この世界にはたしかに永遠回帰を確信させるものがあるのだ。「ひとが使い古した衣服を捨て、新しい衣服を着るように、魂は使い古したからだを捨て、新しいからだに入る」(バガヴァッド・ギータ)という考え方はインド人のみならず、仏教やヒンドゥー教とともにアジア中に広がっていった。

 チベット・ビルマ語族に与えた輪廻転生の影響は大きかったものの、大半の民族は太古から信じてきた祖先のいる楽園へもどるという観念を保持していた。またインドとはちがう転生の観念をもつ民族もあった。ラフ族は老人が死ぬとき、あの世で赤ん坊が誕生し、あの世で老人が死ぬとき、この世で赤ん坊が誕生すると考える。冥界はこの世と対称的なパラレルワールドなのである。この考え方だと、死はちっとも悲しくないということになる。

 

[註1] この呉樹湾(ウスワ)村は厳密に言えば、ナシ族支系ルァカ人の村。もともとナシ族でない彼らがなぜナシ族のなかに混在しているのかよくわからず、謎めいた人びとだ。彼らの送魂路上、魂は長い旅路のあと、スブァナワ(モソ族の送魂路の最終地点)を経て、ジュナルァラ山に到着。さらに旅はつづき、最終地点はプラムコトゥ。ジュナルァラ山がカイラース山を指すのだとすれば、プラムコトゥがインドであっても不思議ではない。