(4)

 彼らの前には三途の川が流れていた。シビュレーはよろめきながらそちらへと歩いていった。アイネイアースはすぐ後ろにぴったりとくっついていた。彼の頭はまだくらくらしていた。下界に入ってから怪物どもがつぎつぎと現れたからである。恐ろしい顔のゴルゴンやハルピュイアにつきまとわれた。それらは病気や戦争、飢餓、疫病などが姿をあらわしたものである。恐怖におののいたアイネイアースは剣(つるぎ)に手をかけたが、シビュレーが押さえた。これらは幻影にすぎない、つまり新参者に対する亡霊たちのあいさつのようなものと彼女は言った。「無視するがよかろう。父上との時間は限りがあるからのう。さあ、急ぐのじゃ」

 渡し守のカロンは何人かの亡霊を舟にのせていた。ふたりの訪問者が近づくと、彼は頭を振り、追い払おうとした。「生きている者はこの先に行くことはできない」と彼は言った。「注意書きを読まなかったかね」

「こちらはアイネイアース。トロイの王子ですぞ」とシビュレー。「亡き父と面会するために来られた。一目でいいから会わせてやっておやり」彼女は黄金の枝を見せた。

 渡し守は口をぽかんと開けたままだった。そして彼らが舟に乗るのを許可した。

 舟を漕いで川を横切っていった。対岸に着くやいなや、亡霊たちは上陸し、冥府へ向かった。そこで報奨か処罰を受けるのだろうけど。

 ケルベロス(*三つの頭を持つ犬)はアイネイアースとシビュレーに向かって吠えたてた。しかしシビュレーが一片の食べ物を犬にやると、三つの頭がいっせいにかぶりついた。三つのうちの一つがそれを取ってがつがつと食った。そして番犬はすやすやと眠りはじめた。

「薬を入れたんじゃ」シビュレーはウィンクした。彼女はアイネイアースを冥府へ案内した。

 彼らは川と接する森の中を抜けていった。森は早世した無垢の魂が住む場所であるとシビュレーは言った。そのなかには子供もいた。実を結ぶ前に花びらがむしりとられたようなものだと彼女は付け加えた。また冤罪で処刑された人々もいると彼女は言った。

 シビュレーはギンバイカの森を指し示した。それは嘆きの森として知られているとアイネイアースに語った。落胆した恋人たちが、すなわち報われない愛の心痛から死んだ不幸な魂たちが森の小道をさまよっていた。死によってさえも嘆きから逃れられるわけではなかった。「この不運な魂たちの涙によって森は濡れておるのじゃ」とシビュレーは言った。

 突然アイネイアースは立ち止まり、前方をじっと見た。高貴な衣をまとった若い女が森の中を歩いていたのだ。

「ディードー!」彼は叫んだ。

 実際、女はディードーだった。名前を呼ばれてカルタゴの女王は一瞬立ち止まった。

「ディードー!」

 しかし彼女は彼を認識できないようだった。ディードーは頭を下げ、地面をじっと見た。

「なんてことだ」アイネイアースはとめどなく涙を流した。「火葬の薪が積まれていたけれど、やはりあなたの遺体だったのか。死に至らしめたのはやはり私だろうか。許してくれ、いとしき人よ。あなたのもとを離れたのは本意ではなかった。どうしようもなかったのだ。私はイタリアへ行かなければならなかった。それは神々が決めたこと。神々の意思に背くことができるだろうか。義務を怠ることができるだろうか。運命について神々と論じることができるだろうか。あなたの悲しみがどれだけ深いかはよくわかる。ああ、ディードーよ、わがいとしき人よ」

 彼がとうとうと述べたとき、ディードーは押し黙ったままで、無表情だった。彼の存在に気づくことすら拒み、ずっと地面を見下ろしたままだった。そして彼女はあちらを向き、歩き始めた。

「行かないでくれ、お願いだ」彼は嘆願した。「どうか許してくれ」

 しかしディードーは森の中に消えていった。アイネイアースは膝の間に顔をうずめ、泣きじゃくった。

 シビュレーは残された時間が少ないことを彼に思い起こさせた。悲しみに暮れながらもアイネイアースは立ち上がった。そして旅を再開した。

 森から出てしばらく歩くと、道が二又に分かれていた。ひとつはタルタロスにつながる道であることを道標が示していた。もうひとつはエーリュシオンへつながる道だった。タルタロスの城砦は遠くに見えた。それは高い壁と溶岩の川に囲まれていた。すると内側からけたたましい騒音が流れてきた。鞭の音、椅子のきしむ音、叫び声やうめき声が聞こえたのである。性悪の連中が刑罰を受けているのだとシビュレーは言った。犯罪ひとつひとつに彼女は名前をつけた。

「あんたの父親はありがたいことにエーリュシオンにいるようじゃ。そこは祝福された者の家だ」

 彼らはそちらの方向へ歩いていき、冥府の入口の前でとまった。黄金の枝はそこに置いた、ペルセポネーへの贈り物として。しばらく歩きつづけて。彼らはエーリュシオンに入った。

 牧場でアンキーセースが見つかった。アイネイアースは父親のもとへ駆け寄り、抱きしめたいと思った。しかし互いに触ることなくすり抜けてしまったのである。生きている者と亡霊とでは濃度が異なっていた。仕方なく抱擁するかわりに喜びの視線を交わすことにした。「ついにおまえはここに来たんだな」アンキーセースは言った。「来ると思ってたよ」

 彼は息子にエーリュシオンを見て回ってもらった。彼らは香ばしい草原や葉の茂っている森を歩いた。どこにも亡霊はいた。白い衣を着た亡霊たちがピクニックをし、ボールを投げ合い、詩をつくり、歌をうたい、ダンスを踊った。目の高い聴衆は竪琴を奏でるオルフェウスのまわりに集まった。だれもが眉の上に白いバンドを巻いていた。それは祝福された者のしるしだった。

 たくさんの亡霊たちが川沿いに整列した。アイネイアースは理由をたずねた。

「あれはレーテー河、忘却の川だ」とアンキーセースは言った。「もし転生する必要があるなら、その水を飲むがいい。記憶は消し去られるだろう」

 アンキーセースは息子をボッチェボール場へ連れていった。ゲームは行われていた。鎧を着ていたり、トーガを着ていたりする亡霊のグループが観戦しにやってきていた。

「おまえに訪問してほしかったのはこのためだ」アンキーセースは言った。「この男たちを見てほしかったのだ」

「彼らは私の先祖ですか?」

「いや、おまえの子孫だよ! おまえは高貴な家系を生み出すのだ。その家系は都市を建設する。偉大さを成し遂げ、世界に秩序をもたらす都市、ローマだ! 

「槍を持った人々が見えるだろう。都市の建設者、ロームルスだ。ほかに、あれはトゥッルス、初期のローマ王。また兜の上にプラムを載せているのがハンニバルを出し抜いた将軍ファビウス・マクシムス。神々の飲み物、ネクタルを飲んでいるのは改革者グラッキ兄弟かな。それにカトー、ポンペイ、スキピオ・アフリカヌス。飲食テーブルの傍らに立っているのはガリアの征服者ジュリウス・シーザー。ローマ帝国のもっとも輝かしい時代を統治した皇帝だ。

「彼らはおまえの家系の中でもきわだった英雄たちだ。そして彼らの国家の建国者としておまえは尊敬されるだろう。それがおまえの運命なのだ。

「さあ、息子よ、行くがいい。船をイタリアの浜辺に引き上げよ。そしてわれらの人々のために家を見つけよ。オリーブの枝をもたらせ。戦争のために鎧をまとえ。おまえのために神々は味方してくれるだろう」

「そのようにいたします、父上」アイネイアースは言った。「あなたの家系はかくもすぐれております」

 シビュレーは彼の肩をポンと叩いた。「わたしらの時間はこれで終わりじゃ」と彼女は言った。

 父と息子は抱擁しようとしたが、やはりすり抜けてしまった。そこでしかたなく最後の挨拶をして別れた。

「生者の国に戻るといたそう」シビュレーはそう言うと、笑いながら一言加えた。「戻る道が見つかればじゃが」

 

*注釈 
註1:アヴェルヌス湖は……(略) 
註2:シビュレーはどれだけ年を取っているか(略) 
註3:ウェルギリウスの黄金の枝(略) 
註4:アイネイアースの生涯の主なソース(略)   





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