中国西南少数民族地帯をゆく(3)     宮本神酒男

麗江心中
雲南の純愛死シンドローム


心中した死者の魂をなぐさめる儀礼で使われる木牌(左)とトンバ経典「ルバルザ」。首吊りのオンパレード!

 今から十余年前のこと、トンバの和志本(ホ・ツベン)らとともに、ナシ族の聖地である白水台から半時間ほど森の中を歩き、高い樹木の陰に隠れた、阿明(アミ)が修行したという洞窟(アミナカ)を訪ねたことがあります。阿明というのは白水台にトンバ教をもたらしたか、あるいは確立したとされる大トンバ、すなわち昔のナシ族トンバ教の大祭司です。不思議なことに、阿明は清朝中期の人とも、はるか古代の人とも言われていて、実在したのはまちがいないのですが、その像はぼやけています。(⇒「阿明」)
 アミナカ
からの帰り、われわれは白水台のほうへ向かって歩いていました。と、和志本が立ち止まり、その先の木立からぬっと突き出た大木を指して声をあげました。

「あの木の向こうだよ、わしらが見たのは。あそこでふたりが首を吊っておった。そのころ殉情(愛のために心中すること)は珍しくなかったんだよ」

山の上のどこかに楽園がある……

 一組の男女がそこで心中を遂げたのだというのです。正直、私はひどく驚きました。心中があったことそのものに驚いたのではなく、心中がさかんであった麗江でなく、金沙江(長江)を隔てたここ白地(白水台を含む地域のこと)で行われていたことを意外だと感じたのです。ナシ族の社会全体に心中の風習は浸透していたということです。

 澁澤龍彦は「情死の美学」という一文のなかで「情死(あるいは心中)は、日本に特有な習俗」と述べています。日本以外は欧米しか見ていなかった時代の典型といいましょうか、日本のすぐ近くに心中多発地帯があったことを澁澤は知りませんでした。しかも日本よりはるかに頻繁に心中事件が起こっていたのです。なぜこういう現象があったのかは、またあとで考察しましょう。

 和志本が見た心中遺体は、木立のあいまに美しい布でしつらえた「新婚部屋」のなかで枝に吊り下がっていたと思われます。足元には最後の晩餐のあとの食べ物や食器、口琴、鏡、櫛などが残っていたでしょう。そして渡辺淳一の『失楽園』のラストシーンのように「合体したまま」あの世へ行くということはなくても、最後の熱い愛の抱擁を交わしたことは、着衣の乱れからも想像できたかもしれません。

 心中したふたりの魂のためにトンバたちは祭風儀礼「ハラルク」を行ったはずです。儀礼のさいによむ経典「ルバルザ」のなかには、心中したふたりが行く死後の楽園「玉竜第三国」(ナシ語でツェニジャカブ)が美しく描かれています。当局はこれを一種の危険思想とみなし、祭風儀礼を禁止したほどでした。(⇒「ルバルザ」翻訳)

 ナシ学者の楊福泉によれば、白地には「心中の木」があったそうです。これは上に述べた木と同一と思われます。この木の下を通り過ぎると、しばしば若い男女の泣き声が聞こえてきたそうです。それである村人がこの忌まわしい木を切ろうとして斧で一撃を与えたところ、血が流れ出したのであきらめたそうです。

麗江から見た玉竜雪山

 ナシ族の地、とくに麗江では、長い間驚くほどたくさんの男女が心中を遂げてきました。ナシ族の人口は30数万人にすぎないのに、年間百人以上の人々が愛する人との死を選ぶという異常な現象がつづいてきたのです。この悪しき、というより悲しき風習がいつごろからはじまったのかははっきりしませんが、清朝初期の1723年、改土帰流が施行されてから社会が一変したといわれます。それまでは現地の首領をそのまま長官(土官)に任命していたのですが、中央から派遣した「流官」を長官とするようになりました。この中央統制を強める改革のことを改土帰流といいます。

 光緒年間(1875−1908)に編纂された『続雲南通志』にはすでに、麗江では未婚の男女が山に登って心中をする習俗があると記述されています。首吊りではなく、男女が手を縛って崖から飛び降りたのでした。骨は粉々になり、身は砕けるというむごたらしい死に方だった、と生々しく描写しています。そこまで記しているのだから、よほど筆者には印象深い現象だったのでしょう。

 改土帰流以降、封建制が定着しました。そうすると親の取り決めによる結婚が増え、自由恋愛が抑圧されるようになりました。愛する人との仲が裂かれ、結婚が押し付けられたとき、多くの若者は心中を選んだのです。望まない結婚と愛する人との心中のどちらかを選ばないといけないとき、トンバの描く死後の楽園「玉竜第三国」は決定に大きな影響を与えたでしょう。

 先に挙げた一文のなかで澁澤龍彦は「死んでしまえば、もう絶対に相手を裏切ることはできない。死は最高の保証であり、献身であります」と述べています。それでも死の恐怖に打ち勝って死を選ぶのは容易ではありません。「玉竜第三国」のような死後のユートピアがあってこそ、心中を実行することができるのでしょう。

 麗江ではしばしば集団心中が企てられました。1940年代、麗江の東隣にある龍山村では9組のカップルが同時に心中を遂げました。9組というのはあまりに多いですが、4組や5組というのはまれではありませんでした。世界中に狂信的な宗教団体による集団自殺はままありましたが、また最近ではネットを通じて集まった人々の集団練炭自殺などが報じられますが、集団心中というのはきわめて珍しいと思われます。

 ナシ族は原理主義的な宗教を持っているわけではなく、ほかの民族と比べても教育水準や文化程度はかなり高いのです。そんな人々のあいだになぜ心中、とくに集団心中が長い期間にわたって発生してきたのか、その原因は複雑で説明するのは容易ではありません。

 さて私は何も考えずに祭風、つまり風祭りということばを使ってきましたが、ナシ語のハラリク(祭風)のハは風、ラリは放蕩、クは放つという意味を持っています。風の魔物(風流鬼)によってたぶらかされた男女の魂を解放させる、ということなのです。ナシ族は風をたんなる自然現象とはみなしていなかったのですね。

 アミナカから白水台へ向かって林の中を歩いてもどるとき、風がびょうびょうと吹いてきました。それが胸を通り抜けていったあと、私はなにか寂しいような、哀しいようなせつない気分になってしまいました。風流鬼を感じ取っていたのかもしれません。

治癒祈願をこめて捧げられた病人の衣類

 数年後、ナシ族やモソ人(ナシ族支系)の地域の森を歩いていると、あたりに数十点もの古い衣類が掛けられている不気味な場所に行き当たりました。一瞬、だれかが心中したあとかと思ったのですが、一緒にいたダパ(モソ人祭司)によるとだれかが病気になったときに捧げられたものだというのです。とはいっても治癒祈願といった雰囲気は感じられず、むしろそこには陰気な死の臭いが漂っていました。
 愛する男女が心中を遂げた場所も、このような臭いが漂っていたにちがいありません。直後の現場となれば、遺体からは汚物が流れ、顔は青黒く変色して腫れ上がり、もっとはるかに凄惨なものだったはずです。しかしそうなることがわかっていても死を選び、永遠の愛を貫くことができたのは、トンバの祭風儀礼と「玉竜第三国」の力が大きく寄与したということです。


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