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私が雲南省中甸県のソンツェンリン寺(Srong btsan gling)でチャム(宗教仮面劇)を観たのは1994、95年両年のことだった。中甸県は現在の香格里拉(シャングリラ)県のことである。ラブホテルの名前のような(失礼、ヒルトン著『失われた地平線』に出てくる理想郷)県名に変わったのと軌を一にして観光都市に生まれ変わったが、当時は空港もなく、観光客もまばらだった。
チャムは、西はインド西北部から東は甘粛省まで、チベット文化圏全体に浸透し、下手をすると千を超える寺院で演じられているかもしれない。そのなかにあって、ソンツェンリン寺のチャムはオーソドックスで、特別目玉といえるような出し物はないかもしれないが、雰囲気のよさは出色だ。これほどほのぼのとしたチャムも珍しいのではないかと思った。
とはいってもそれは15年前のこと。グーグルや百度(Baidu)で検索すると、かなりの件数がヒットし、観光業の人々らしき書き込みも目立つ。相当数の中国人観光客が訪れ、雰囲気ががらりと変わっている可能性もある。
チャムはチベット暦の11月29日に開催される。2010年の11月29日は、新暦の2011年1月3日にあたる。ちなみにチベット暦では今回11月が2回ある。翌月の11月は閏月ということになる。
このチャムは格冬と呼ばれる。その意味は「集められた九種の煮た食物」なのだという。おそらくチベット語のグドゥ(dGu
'du)に漢字を当てたのだろう。冬なので冬という字を当てたのだろうか。
ソンツェンリン寺が建てられたのは、17世紀後半だ。当時チベットの「偉大なるダライラマ」ダライラマ5世は、モンゴルのグシ汗の兵力を借りてチベットの領域を拡大させていた。またニンマ派など他宗派の寺院の多くがダライラマを長とするゲルク派に改宗させられた。
占いにしたがってダライラマ5世はカム地方(四川西部や青海、雲南の一部)に13の寺院を建てる決心をする。そのひとつがソンツェンリン寺だった。このソンツェンは7世紀の文成公主を迎えたことでも知られる有名な吐蕃のソンツェン・ガムポ王のソンツェンとおなじ綴り。それから名前をとったのだろう。寺は1679年に竣工し、1681年に完成した。
しかしダライラマ5世は翌年1682年に崩御し(その死は15年間隠匿される)、詩人として民衆から愛される6世は非業の死を遂げ、7世の頃にはモンゴルとともにチベットは力を失っていく。モンゴルはフビライ汗の頃の大帝国の夢よもう一度、と目論んでいたのだが、パワーアップした清に屈してしまった。
当時、明が滅び、替わった清が周辺地域まで目配りできるほどの国力がなかったはざまの時期、モンゴルは久々に大国の野望を抱きつつあった。チベットも中央アジアにまで版図を広げた8−9世紀の吐蕃以来の大国の道を歩み始めていた。しかし強大な清朝の前に野望は朝露のごとく消えてしまう。
1724年、ソンツェンリン寺のある中甸(チベット名・ジェルタン rGyal
Thang)は雲南行省に編入される。チベット支配下の地域は清国の一部となったのだ。寺の名前も帰化寺という漢名がつけられた。
チベット族の女性
ソンツェンリン寺はしかしその後、漢化することなく、チベット文化圏の東南端に位置するチベット寺として重要な役目を担ってきた。雲南からすれば、ここはもっとも近いチベットなのだった。
じつはずっと気にかかっていたことがある。それはこの地方のチベット族が本当にチベット族と呼べるか、という問題だ。 寺の僧侶の大半は地元出身だろうが、彼らは厳密にいうと、純粋なチベット族とはいえないのだ。
周辺の他民族は彼らをグズとかグチョンなどと呼ぶ。もっと北の四川省のチベット族のなかにもグチョンと呼ばれる人々がいる。また雲南省南部のラフ族支系にもグチョンと呼ばれる人々がいる。チベット・ビルマ語族ではあるけれど、もともとチベット族ではなかったのだろう。
最初にチベット人がこの地域にやってきたのは、南詔国と吐蕃が戦った8世紀ごろのことだろう。チベット仏教のミッションがやってきたのは14世紀ごろのことだった。彼らはカルマ派の僧侶だった。ゲルク派がやってくる頃には、グズ(グチョン)人はチベット人化していたにちがいない。