[63] ターチェンルー(康定)から道を南東へ向かうと、玉隆(Yid-lhung)に到達する。この地名はケサルの王妃のエピソードにちなんだものである。王妃はここを訪ねたことがあり、ここが人を満足させる地であることを発見した。(yid-lhun=yid-’ong? 1947年、p28) 

[64] この道をさらに進むと、カンゼ、あるいはホル・カンゼ(dKar-mjes)に着く。タフェル(1914年、U、179)は、現地の人の言葉を根拠に、そこがケサル王の故郷だとしている。

[65] この道の南東にタオフ(道孚)、あるいはタオ、ダウ(チベット語でrTa’u, lTa’u)がある。川の向こう側(ダウはニェチュ川がシェチュ川に注ぎ込む地点にあるが、その上流はザチュ川、すなわちヤーロン江である)には中国語で特日山と呼ばれる山がある。それはケサル王が古代タジクの王を破ったときの(タジクの)都とされる。(任、1945年、p25) 

 タジク(イラン)の位置をカム地区の中とする誤認は17世紀末まで残っていた。ミギュル・ドルジェ伝(224a)には、聖人(リンポチェ?)を迎えに行ったときのことを申し訳なさそうに記している。「チャムドに長くとどまることになったため、タジクに到着するのが遅れてしまい……」

[66] ターチェンルーから道孚へ向かうとき、西側にチャンドゥイ(lChags-mdud 現在のニャロン)に達する。通宵という村にコサ・キオンツォ(Ge-sar khyung-?)という聖山がある。ケサルはそこでトゥルク人から大きな鳥の卵を盗んだという。(任1945年、p25

[67] 北西に向かって進むと、デルゲに達する。以下のことは、またすこしあとで時間をかけて論じたい。

 レーリッヒ氏の資料によると、デルゲのリンツァン寺院(あるいはリンツァン出身の僧侶が住んだ寺)にはトトゥン(ケサルの父方の叔父)が水を飲んだ鉢、ポルカト・ツォギェ(Pho-ru kha-mtho)や、杖のギュグパ・ルリン(rGyug-pa Ru-ring)があった。

[68] クズロフ(1906年、reed 27)が引用する伝承によると、デルゲ地区はサライゴル人(Saraighol ホル人)地区を占領したことがあった。そのなかの北部の最大部族は遊牧民だった。リンのケサル(Ling Gesur)はまさにこの地区にやってきた。ケサルがここで何をしたのかわからないが、ケサルはまさにここで生活したのだと主張する人もいる。ケサルの33人の武将のうち13人(一説には17人)はデルゲに居住した。彼らはこの地区のサライゴル人とともに部族を形成したのだという。そして長い年月のあいだに「天のデルゲ」と「地のデルゲ」に分化した。

[69] デルゲ大寺の東南およそ30里にチャグラ(lCags-ra タイクマンはジャンラ宮、あるいはジャンラ僧院とする。中国語で襲亜シーヤ)がある。ここはケサル王の将軍(であり異母兄弟)のギャツァの住居と考えられる。(任1947年、p28

 デルゲに住む若いチベット人の役人によると、ジグチェ(バイラヴァ、大威徳)僧院からさほど遠くないチャグラのヌルチュ・トジョン(dNul-chu khro-rjong)の要塞が見えるという。そこには屋根がなく、小石で固めた壁だけが残っていた。インフォーマントはそれがコンクリートに比肩しうるものだったと述べている。その素材はkhro(ト、チョ)と呼ばれているが、文字通りには青銅という意味である。ほかの人の説では、このヌルチュ・トジョン要塞はもともと西寧にあったという。リンはかつてゴロク地方にあり、のちに南下してきたという証拠だとその人は考えている。

 『デルゲ王統史』(6b)によると、チャグラ地区はヌルダ(dNul-mda)、すなわちヌル川の谷と呼ばれた。当時すでにリンに従属していたデルゲ政権は、ここからはじまるのである。(5章)

[70] 東南へまた向かうと、メショ・ソグモ・ポダン(rMe shod Sog-mo pho-brang タイクマンはMesho Somo Podrangと表記)がある。そこにはかつてケサルの33人の将軍(戦士)が住んでいた。(任1945年、p25

 こことチャグラには、現在にいたるまで防御の固い要塞が残っている。(同上) おなじ作者(1947年、p26)によると、ソグモ・ポダンはリンに従属したモンゴル人の都であったかもしれないという。これは混乱しているのかもしれない。ソグポ(モンゴル人)はチベットに定住した遊牧民のことだろう。

[71] デルゲの南、ペユル(白玉)の北を流れるディチュ(金沙江)の支流にカルマパのカトク(Ka-thog)僧院がある。その西に河波(Ho-po)という村があるが、そこで鋳造される刀はカム地区では有名である。村の名は、ケサルが最初に移動したときの勇者の名から取ったという。(ティ・シア、1944年、p74) 河波村はデルゲに属する。

[72] そこからはるか西方にチャムドがある。すでに述べたようにケサルの異種本を編集したブラ・ノルブ(Bu-lha nor-bu)が重要な中心地とみなす地域である。ターチェンルーのインフォーマントによると、チャムドの北西、ジェクンドの南西に(タモリンKhra-mo Glingから100里)キュンポ・テンチェン(Khyung-po steng-chen)という場所がある。そこにはヤクの尾で作ったテントがある。それは何世紀ものあいだ、もとの姿を保っているという。

[73] ケサル詩人(barde)である(1885年生まれでなお健在のナンチェンの)リンチェン・ダルギェ(Rin-chen dar-rgyas)が言うには、チャムドのンガウェン・ゾン(Nga-wen-dzong)という崖には、ケサルの足跡やケサルが乗っていた馬の蹄跡が残っているとのこと。

[74] 『世界詳釈』(’dzam-gling rgyas-bshad)が指摘するには、バ(バタン)からそれほど遠くない東部にカブル・ネナン(Ka-’bur gNas-nang)という聖地がある。そこにはかつてカルマパの大きな寺があった。その寺は、現在は存在しないが、ケサル廟(mgon-khang)と称されるものや、その他驚くべきものが残っているという。(153b、ヴァシレフp44、ダスp25

[75] ふたたび南下すると、そこはマルカム(sMar-khams)、またの名ガルトク(sGar-thog)あるいはギャンカル(rGya-mkhar)でる。デゴダン(Desgodins 1885年、p152)はそこをケサルの都と考えている。(バコーも同調する。1913年、p13。また馬長寿p72

[76] 『世界詳釈』(150a-b)によると、チベット東部の南にケサル物語に関わる場所があるという。例によって、ヴァシレフ(p41)の翻訳は徹頭徹尾、間違っている。ダス(p23)の翻訳は一部を除くとよいようである。以下は作者が語った内容。

<コンポ地区から東へ行くと、大きな山を越え、ポウォ(sPo-boヨーロッパの地図ではPoyulPomi)に達する。そこはカム上部の南部に属する。この地区は疑いなくケサル物語中のリン国のアテロン(A-tha’i rong)だ。「マ(rMa)とアテロン(Sta’i rongと校正)は接合している。」そこは驚きに満ちた土地である。そこには第二のブッダと称されるウギェン・パドマサンバヴァの秘密の地、ペマコ・チェン(バコーはネペマコと呼ぶ)があると考えられている。>

 以上の一節はリンツォンの木刻本(U、72b。スタン1956年、p82)にも出てくるものである。

[77] ニンマ派におけるケサルとパドマサンバヴァの確固とした関係は、松藩の羌族が証明してくれた。これら5人のインフォーマントは自称メ人(rMe)である。彼らは四川塩税署から派遣されていたディードリクソン氏のために基礎語彙や文法の資料を提供していた。彼らは未知の文字によって書かれた3篇の文書を彼に渡したが(おそらく隠蔽するためにでたらめの文字を用いた)、ラマが使用する文字と言い張ったのである。羌族のあいだにラマ教(とくに旧派、すなわちニンマ派)が普及していることはよく知られていた。羌族の言語にはチベット人からの借詞が大量に入っていたが、発音や接頭辞も同様だった。文字もそうだったが、この3篇の文献にはラマ教の述語がふんだんに含まれていた。それらを翻訳するのは不可能であったが、ディードリクソン氏はその意味を記録した。いまもなお羌語の辞書は存在しないのである。しかし2つの似通った文献は明快で、理解することができた。それは以下のごとくである。

tso ke-s?ri B?t-m? amr-pa miri do les-sma sgo-spe, etc.

tso Kesar patma zamb la lesma skuspi, etc.

 われわれはこのなかにケサルやパドマサンバヴァを見つけることができるのだ。

[78] ふたたび南へ向かうと、ギャロン人の地域がある(彼らの宗教と言語にラマ教の影響を見て取れる)。そこで馬長寿はボン教の伝説を収集している。(1943年、p71)神々のリスト(実際は大師のリストだが)の19番目は、中国語で南巴傑仁(Nan-pa Kie-jen)である。彼は一万歳で、リン・ケサル王の呪術師だった。『ボン教王統史』(rGyal-rabs Bon)のp38にもボン教大師のリストがあり、ケサルの地のボン教徒としてナンパ・ツェリン(Nang-pa lce-ring)の名が見える。ジャロン(ギャロ)ンのインフォーマントがリン・ケサルの話にさしかかると、兵器の国でケサルが戦ったことにとくに詳しいことがわかる。

[79] レーリッヒによると、ゾルゲのアムドワ(アムド人)は自らをゾルゲ・リンファ(Dzorge Lingxua)と呼び、統治をケサルの故郷とみなしている。その地区の名称はゾルゲ・リンカル・トゥ(mJo-dge Gling-dkar stod)であり、リンツォン木刻本では一般的な用法である。チョネのタンギュルの目録のなかに、その名を見出すことができる。

「本日、ゾルゲ上部において、われらはリン・ドゥ(Gling-dos)と呼ばれる」(わが補注p48参照)