東のモン人 

 ケサルとモン人とのつながりは古く、リン・ケサル王の物語とは関係なく存在していたかもしれない。チベット人が北部のテュルク・ケサルに戦争で勝利したあと、敗れた人々がモン人の地域に定住したのかもしれない。これについては5章でもっと述べたいと思う。研究中の『国王遺教』(rGyal-po bka’-thang)の一節がわれわれの注意を引くのである。さて、これらのモン人はヒマラヤのモン人のことだろうか。おそらく中国・チベット国境地帯(des marches sino-tibetaines 漢蔵走廊地区)の土着民であろう。トマスはチベット人のいうモン人と漢人のいうマン(蛮)とは同一ではないかとさえ考えているようだ。『国王遺教』によれば、ムルム・ツェンポ王(Mu-rum bcan-po *正しくはMu-rug bcan-po)はドカム地方(アムドとカム)に追放されたという。ダライラマ5世の『チベット王臣記』によれば、モンの地(モン・ユル)から招集された人々はグネ(Gu-ne)という称号を与えられたという。この称号は、テュルクと接する北方のことを指していた。(ケサル王物語の『トゥクとの戦い』)

 あるいはイェルモ平原(gYer-mo-thang)を指していたかもしれない。そこには18の部族があり、そのなかにはモン・チャク(Mon-lcags)、ダル・ロン(Dar-rong)、パ・ロン(dPa’-rong)、タロン(sTag-rong)が含まれていた。テュルク人の女始祖はグネ・ブムドン(Gu-ne ’Bum sgron)と称していた。彼女は隣国のソグ人(モンゴル人)の国王の息子と結婚した。モン人18部族のなかで、タロン部落はトドンの故郷だった。それからも、ここがカムであることがわかる。パ・ロンは旅行家が言うとおりパウロンのことだろう。それはヤロン江の畔にあった。

 資料から十分証明されるように、ヒマラヤの西から東まで、土着民はモンと呼ばれていたので、中国・チベット境界地区の非チベット人がモンと呼ばれても不思議ではない。パウォ・ツクテンバ(dPa’-bo gCug-lag-phreng-ba)もそれを肯定していて、同時にゲトゥン、ガトゥンがモン族の祖先であることを証明しようとしている。彼の指摘によると、ドゥスム・キェンパがモン族地区のドム・チャン(Dom-chang)で贖罪儀礼を行っているとき、モン族の国王ドンドゥプ(Don-grub)の来訪を受けている。このとき国王は、モン族、ツァン(チベット・ツァン地方)人、カツァラ人、インド人と会っている。彼はモン国王グァ・トゥンの後裔だという。このエピソードは、7世紀にカルマパ7世チューダク・ギャンチョ(Chos-grags rgya-mcho 1454-1506)がチベット南東部のダクポ(Dvags-po)へ行ったとき、記したものである。モン国王ドンドゥプがそこで生活していたのはまちがいがない。カルマパ7世はその後しばらくして東部モン族の国王ジョバク(Jo ’bag)の訪問を受けている。この国王もまたモン国のグァトンの後裔を称しているのである。このことから、南部のモン族であろうと東部のモb族であろうと、モンの国王ガトンが先祖であることはほぼまちがいないのだ。

 このように、モン族の祖先ガトンがム族の国王ゲトンと同一であることがわかっただけでなく、その場所がカムとアムドの間のゲトン(あるいはトトゥン)である可能性が大きくなった。ケサル王物語において、トトゥン(トドン)がタロンの首領であるのは史実的にも正確であったということだ。こうしたことが確認され、タロンが現在のイェルマ・タンのモン族の地域にあったことがよりはっきりしてきた。