聖人 

スンダル・シン 宮本神酒男訳 

 

 ずっと昔、ある聖人が一日の日課を終えたあと、何時間か祈祷し、瞑想するためにジャングルの中の洞窟へ向かうのをつねとしていた。ある日ひとりの哲学者がたまたま洞窟の前を通りかかった。聖人のひざまずいた姿を目にした彼は、驚いて立ち尽くした。それから坂を上がり、洞窟の入り口に着くと、岩を軽くたたいた。しかし聖人は黙想に集中していたので、返事をしなかった。哲学者は半時間ほど待ち、立ち去ろうかと考え始めたとき、聖人は立ち上がり、こちらに来て坐るようにとすすめた。一瞬両者とも言葉を発しなかった。それから哲学者が沈黙を破った。

 

哲学者 この洞窟が盗賊の住み家と呼ばれているのをあなたはご存知ですか? 

聖人 ええ、もちろん知っていますとも、哲学者の先生。この洞窟は盗賊たちの集会所なのです。それでもここは私にとっての避難所でもあるのです。町で大勢の人のなかで暮らしているときは、仕事を終えたあと、祈ったり瞑想をしたりしたいと願いました。そして私の信仰を邪魔するもの、集中を妨げるものが何であるかわかったのです。私がどれだけ修練を積んだところで、これでは私も他者も恩恵を受けることはできません。それで私は町の生活の喧騒を避け、静かな場所に移ってわが神の存在のもとに憩い、聖なる美のなかで神を信仰する決心をしたのです。ここでは祈祷に時間を費やし、神へのとりなしに身をささげています。この霊的な修練は私自身のためだけでなく、他者すべてのためでもあるのです。

 盗賊たちはよくここにやってきます。でもかれらが私の邪魔をすることはありません。盗賊のひとりはかつてこう言いました。「尊敬すべき聖人さま、おれたちは目も見えるし、愚かものでもありません。おれたちはたしかに人々から盗みます。けれどこいつらはおれたち以上に人のものを盗んでいるのです」

 かれらのことを当局に通報することはありません。通報したところで、世俗のお役所がかれらのおこないをただすなんてことはできないのです。かれらに罰を与えたところで、ますます心が曲がってしまうだけです。私は神に祈りを捧げます。神はかれらを変え、新しい生活を保障してくれるのです。かれらの一部はすでに変わり、よき市民となりました。神の恩寵によって、この孤独な環境のなかでも、群衆のなかにいるときと同様、霊的な仕事をつづけることができるのです。

哲学者 あなたはここに静かに坐って祈るだけで他者を助けていると本当に信じているのですか? 

聖人 人によっては、見守ることや祈ることは、怠惰や不注意と同等とみなします。これは間違っています。実際のところ、それは、現実という海にもぐり、聖なる真実の真珠を見つけることを意味しています。それはダイバー自身だけでなく、他者をも豊かにするのです。もぐっているとき、ダイバーは息を止めます。黙想し、祈る人は喧騒の世界を離れ、自身を沈黙の部屋に閉じ込めるのです。彼は聖霊とともに祈ります。それなしに霊的な生活を送ることは不可能なのです。

 私が言わんとすることの意味は明確です。神は沈黙のなかで仕事をするのです。神が話したり、音を立てたりするのをだれも聞いたことがありません。神の声を聞くために、私たちは沈黙のなかで待たなければなりません。声も言葉もありません。心の秘密の部屋のなかで、神は魂に話しかけてくるのです。神自身、霊でもありますから、霊的な言語で神は魂に命じます。そして魂を神の存在で満たします。最終的に神は魂をよみがえらせ、永遠にリフレッシュさせるのです。

哲学者 沈黙は重要です。沈黙のなかで集中しなければ、考えることができないことを私もよく知っています。しかしあなたのいう沈黙の神については確信を持てません。神の存在に関し、あなたは証明することができますか?

聖人 何百万もの人が神の存在を体験しているにもかかわらず、神は人間の理解のはるか上のほう、あるいは超越したところに存在しています。子どものような無垢な信仰をもった人々の心の中に神は住んでいます。炎の近くに手を置き、火の暖かさを体験することが火の存在を証明するように、魂の中で神を体験することが、神の存在の強く、堅固な証明になっているのです。ある女性は12歳のとき、教師から神と神の愛について学びました。神のことを聞いたのはそのときがはじめてでした。でも教師が神について話したとき、彼女はこう言いました。「ええ、私は神について知っていました。ただその名を知らなかっただけなのです」

哲学者 しかしなぜあなたはこの世界を捨てたのですか? この世界を憎悪し、またあなた自身が他者より優越していると考えたのですか?

聖人 この世界を憎悪しているわけではありません。そして自分自身が他者よりまさっているなどとはけっして考えません。神はそんな考えを許しません。私はかよわく、罪深い存在です。でも私は神の恩寵によって救われ、助けられました。それに私はこの世界を捨てたわけではありません。私が捨てたのは邪悪さと私の霊的生活を邪魔しようとする私自身の内部のすべてのものなのです。

 この世界にいるかぎり、世界を捨てるのは不可能です。町を離れ、ジャングルの中に住み始めると、ジャングルもまた世界の一部であることがわかります。死を通じて以外、この世界を捨てることはできません。私たちがこの地上に住み、移動し、在るようにと神は私たちをこの世界に配置したのです。神の聖なる意思は、私たちがこの世界のものを正しく使うということなのです。私たちの真実の霊的な家を準備するということなのです。

哲学者 あなたがほんとうにかよわくて、罪深いとするなら、人はなぜあなたを聖人と呼ぶのですか? 

聖人 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、人生のなかで学んだことはひとつしかない、ひとつのレッスンしかないと言いました。それは、自分は何も知らないということでした。彼とほかの一般の人々との違いについてたずねられると、ソクラテスは、ただ一点をのぞけば何も変わらないとこたえました。つまり自分は何も知らないということです。一般の人々は、何かを知っているということに固着していたのですが。

 人々には好きに考えてもらってかまいません。しかし私は聖人ではありません。それは間違っています。私はただ神と親しくなりたいだけなのです。神との友好関係のなかで私は世俗が知らない平安を体験します。私は自分がかよわく、罪深い存在であることを知っています。しかし多くの人は自身が罪びとであることさえ知らないのです。それゆえかれらは罪をほろぼす方法を知りません。私が見つけた平安を知ることもなく、かれらは死んでいくのです。

(つづく)