微笑みのブッダ、タリバンに屈す 

宮本神酒男

 

 仏様が巨大な砂岩に彫られてから千三百年、ダイナマイトで破壊される前の最後の尊い御姿を見たのはほかならぬ自分だった。この摩崖仏と時空を超えた特別な因縁があると言っても、だれからも非難されることはないだろう。

 私はスワート地区のミンゴラでガンダーラ時代の遺跡や遺構、レリーフなどを見て回ったあと、大宇(デウ)高速バスに乗ってイスラマバードに戻った。そして翌日、イスラマバード市内の知り合いのパキスタン人登山家のオフィスを訪ねた。

彼は開口一番、「ミンゴラの大仏は破壊されていましたか」と尋ねてきた。意表をつかれた私は何のことだかわからず、「どの大仏の話ですか」と聞き返した。大仏の顔に黒いシミがあったことをぼんやり思い出し、あれが弾丸の痕だったのかもしれないと私は考えた。しかしあとで写真を見ると、それは自然にできた小さな窪みが黒ずんだものだった。

登山家によれば、タリバンによって大仏が爆破されたとテレビのニュース速報で報じていたのだという。私は半信半疑だった。前々日にこの目で見て、この手で触ったばかりだというのに、それがダイナマイトで破壊されてなくなったというのはどういうことだろうか。正直なところ、破壊された姿は見ていなかったので、実感というものはまったく湧かなかった。幼少の頃の美しい記憶のように、在りし日の姿はいつまでも心の中に残るのだった。

破壊直後の大仏の様子が映った動画をネット上に発見したのは、ごく最近のことである。顔を中心に破壊されていて、無残なまでに原形が失われていた。2016年にはイタリアの考古学者によって修復されたというのだが、正直なところ、修復整形手術に成功したとは言い難かった。

  
在りし日のジャハナバードの大仏。撮影の翌日、大仏は爆破された。真ん中は吹き飛ばされた大仏。
右はイタリア人によって修復された大仏。修復後、仏陀の顔が変わるケースは珍しくない 左Photo:Mikio Miyamoto


 その時々の世の空気を読むのは簡単ではない。2007年9月末、はじめてパキスタン北西部の「スイスのように美しい」スワート渓谷の町ミンゴラに入ったとき、ラマダン(いわゆる断食の月)中であることを抜きにしても、町中にただならぬ緊迫感が漂っているのを私は感じ取った。何かが裏で進行しているのはまちがいなかったが、それが何であるかはわからなかった。タクシーに乗って車内からビデオカメラでひと気のない静まり返った町の中を漠然と流しながら撮った。小さなビルの窓に「インターネット・カフェ」と英語で書かれた文字を発見し、ホッとした。あとでこのネットカフェに行こうとぼんやり考えた。しかし目を凝らすと、人影はなく、営業をしていることを示す兆候はまったくなかった。註1 

 あとで知ったのだが、2007年当時、マウラナ・ファズルッラー率いるタリバンに近いイスラム民兵組織TNSMは、スワート地区の59の村をほぼ手中に収め、シャリーア(イスラム法)註2による統治を始めたところだった。ファズルッラーはすでに2006年にラジオ局を開設し(といってもジープに搭載した送信機から発信する簡易なものだったが)夜間にプロパガンダ放送を垂れ流した。たとえば2005年にミンゴラは大地震に見舞われていたが、「女性に自由を与えすぎたため、神罰として地震が起きた」とファズルッラーはプロパガンダ放送を通じて主張した。彼は音楽や映画、ダンスなど、あらゆる娯楽を嫌悪した。そして女の子は学校へ行くべきではないと極端な主張をした。

 マララさんはタリバンに襲われて瀕死の重傷を負ったが屈することなく人権活動を続けている 

 この主張に心を痛めたのが、のちにノーベル賞を受賞する十歳になったばかりのマララ・ユスフザイ(敬称略)だった。マララの父ジアウッディーン・ユスフザイはマララが生まれる三年前の1994年に、男の子も女の子も平等に学べる学校を創設していた。ジアウッディーン自身によると、1988年に女性としてはじめて首相になったベーナズィール・ブットーに勇気をもらったという。マララが生まれたとき、ジアウッディーンは娘がブットーのような強い女性に育ってほしいと願ったという。マララ自身、ブットーから刺激を受けたと語っている。マララの名前は第二次アングロ・アフガン戦争(そのうちの1880年のマイワンドの戦い)で活躍したアフガニスタンのジャンヌダルクと呼ばれるマイワンドのマラライ(マララ)にちなんだものという。

私がミンゴラを訪ねた三か月後、ブットーはラワルピンディーの町中で凶弾に倒れる。群衆の中を防弾車に乗って進んでいたが、彼女は危険を顧みず、ルーフハッチを開けて立ち上がり、民衆に手を振った。そのとき至近距離から銃撃を受けたのである。同時に自爆用ベストが爆発し、彼女以外にも22名が死亡した。のちにアルカイーダが犯行声明を発表している。

 マララの苗字がユスフザイであるということは、彼女がパシュトゥーン人の最大部族の一つユスフザイ部族に属しているということである。ユスフザイ部族は1849年にスワート州(現在のスワート地区、ディル地区、ブナー地区、シャングラ地区を合わせた広大な州)を創立した。1926年から1947年にかけて、スワート州は英国から藩王国として認められていた。つまりマララは由緒ある部族に属しているのである。もっともミンゴラはユスフザイだらけなのかもしれないが。ちなみにパシュトゥーン人はイスラエルの失われた十支族の末裔候補に挙げられることがある。ユスフザイ部落の先祖は十支族の一つヨセフ族ということだろうか。二十世紀初頭のアフガニスタン国王(パシュトゥーン人)ハビブッラーは、国内のユダヤ人に向かって、とくとくと先祖は十支族の一つベンジャミン族だと語ったという。註3 

 私がミンゴラを訪ねた第一の目的は、ジャハナバード(旧名シャコーライ)の摩崖仏を拝むことだった。マングラワルの摩崖仏と呼ばれることもある。マングラワルはミンゴラの北10キロにある谷の名称で、ここには少なくとも21の摩崖仏やレリーフが残っている。どれも保存状態がいいとは言い難く、形状すらはっきりしないものが多く、とくに顔が失われたものが目立っている。偶像崇拝を嫌悪するイスラム教徒がしばしばこういった破壊活動をおこなう。しかしここの場合は、5世紀に侵入してきた遊牧民族エフタル(白フン、白匈奴)が犯人とされる。

 なぜ私はジャハナバードの摩崖仏を見たかったのか。

 まず、ここがウッディヤーナ(庭、果樹園の意味)だったからだ。チベット仏教になじみがある者にとってウッディヤーナ(チベット語でオギェン)は特別な聖なる場所である。第二のブッダとして知られる密教大師パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェ、ペマチュンネなど)の生誕の地なのである。ただしウッディヤーナの候補地としては古くからスワートのほか、オーディシャー(オリッサ)があった。なぜオーディシャーが候補地として挙げられるのかよくわからないが、ヒンドゥー教が栄える前、ここは仏教の中心地だったのだろう。しかしウッディヤーナといえばスワート渓谷であり、ガンダーラ仏教の中心地のひとつであることを考えれば、こここそパドマサンバヴァやインドラブーティ王のいたウッディヤーナで間違いないと思う。チベットでは、ウッディヤーナは次第に現実の場所というより聖化された理想郷のような場所となり、「ダーキニー(空行母)の楽園」という意味を持つようになった。

 この日私はかなりの距離を歩いてマングラワルの谷にやってきた。摩崖仏の近くには広大な果樹園があった。ちょうどフルーツが熟する時期なのか、作業着を着た数人の男女が集めてきたフルーツを箱詰めにしているところだった。よく見るとフルーツは柿だった。ウッディヤーナには果樹園という意味があるが、その果樹は柿だったのか。もちろんこんな説を唱えたら、新説ではなく珍説と呼ばれるだろうけど。

「これはジャパニーズ・フルーツだよ!」近くで遊んでいた少年がそう自慢げに高らかに言った。段ボールの箱の表面にはたしかに英語でジャパニーズ・フルーツと書かれていた。註4 

さて、私は二人の少年にいざなわれ、森を抜け、開けたところに鎮座する聖なる雰囲気を醸す巨岩のもとにやってきた。大仏は思ったよりも小さかった。高さが7メートル、横幅が5メートルほどで、砂岩に彫られた瞑想中の蓮華座に坐ったディヤーナ(禅定)ブッダである。ブッダは半裸ではなく、ゆったりとした、襞のある薄地の衣を着ている。頭は螺髪(らほつ)でできていて、その上に隆起しているのが肉髻(にっけい)、すなわちウシュニーシャである。ここには智慧が詰まっているという。眉間に生えた白い毛、白毫(びゃくごう)、すなわちウルナも確認できる。これらは三十二相八十種好である。

 パッと見た瞬間、私は違和感を覚えた。それは丸い顔、丸い目、丸い頬っぺたと、首から下のごつごつした感じが違いすぎるからだ。このブッダは、人間として見ると、おそらく骨組みのしっかりした大柄の若者だろう。しかしほとんど食事を取っていないので、筋肉がそぎ落ちているのだ。体つきに修業の激しさ、意志の強さが現れるとともに、柔和な顔には慈愛があふれているのだ。

 彫られたのは7世紀から8世紀頃だという。ガンダーラ仏教文化の最盛期はカニシカ王の頃の3世紀であり、5世紀のエフタル侵略を経て、仏教文化が相当変容していた可能性がある。8世紀から10世紀にかけてのヒンドゥー・シャーヒ朝を迎える前の二百年足らずが、ウッディヤーナ仏教の第二興隆期といえるかもしれない。1001年、イスラム教徒のガズニのマフムドが侵攻して以降、スワート渓谷はずっとイスラム教の支配下に置かれてきた。

 それにしてもパドマサンバヴァは本当にここスワートに生まれたのだろうか。伝説によればウッディヤーナの湖の蓮の花に八歳の子供の姿で誕生したという。しかしこうしたエピソードのひとつひとつがかえって現実感を薄めていく。

懐疑派のひとり、二百年前の有名な仏教史家トゥカン・ラマは「ロポン・チェンポ(パドマサンバヴァ)はチベットに来たものの、わずか数か月後に去った。チベットでは降魔をおこない、サムエ寺を創建しただけで、仏法を広めるところまではいかなかった。そのあと偽物の外道が現れ、ウギェン(ウッディヤーナ)・サホルマと名乗った」という説を紹介している。

  
この巨岩自体が聖なる場所だったのだろう。岩の割れ目には瞑想によさそうな空間があった 

 この巨岩に何か秘密はないだろうかと考え、私はじっくり観察しながらそのまわりを回った。チベット文化圏なら「グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)の足跡」が発見されるかもしれない。私は後ろの草地の斜面を這い上がり、巨岩の真上に 出た。そこからの眺めはよく、谷全体を見渡すことができた。しかし同時に、聖なるものの上に立つと、聖性が損なわれるような気がした。そのまま巨岩の横の奥に入ると、洞窟というより窪みのようなスペースがあった。瞑想洞窟とするには、少し小さすぎた。よく考えてみると、仏跡(ブッダの足跡)が遺物として残る土地に「第二のブッダ」の足跡が発見されるはずもなかった。

 

 ウジャン(ウッディヤーナ)には三人の中国人の巡礼僧がやってきている。一人目は、法顕(337―422)。彼はここには「およそ五百の僧伽藍があり、僧侶たちはヒナヤーナ(小乗仏教)、すなわちテーラワーダ仏教を学んでいる」と報告している。ウジャンから南下したところにスハタ国(スワート)があると法顕は記している。

二人目は宋雲。宋雲がウッディヤーナを訪ね、国王に会ったのは519年である。彼はここで大きな騒乱があり、仏教寺院などが破壊されたと報告している。またタロー僧院(おそらく現在のブトカラⅠ遺跡)一か所だけで六千の黄金の仏像があると述べている。仏教が栄えていたが、同時に衰弱の兆しが見え始めている。

 三人目は玄奘。言わずと知れた三蔵法師だ。彼はここの1400の仏教寺院が荒廃していると述べている。かつて18000人もの僧侶がいたが、今は見る影もないという。彼はまた、ティーラットのブッダの足跡を見ているが、これは現在ミンゴラのスワート博物館に展示されている。そしてシンゲルダル村のウッタラセーナのストゥーパにも触れている。私が薪を頭上にのせて歩いている女性こみで仏塔を撮ったら、二百メートル離れた村の男たちが拳を振り上げながらすっ飛んできた思い出深い場所である。

 

 ジャハナバードの大仏の破壊は、原理主義勢力(タリバンに信条が近いTNSM)のスワート支配の幕開けだった。彼らはスワートに駐留していたパキスタン軍基地を自爆テロで攻撃し、国軍と民兵組織との間で戦闘が始まった。アメリカ軍の支援もあったが、力及ばず、マウラナ・ファズルッラーがこの地を支配することになった。

 ファズルッラーはさっそく11歳以上の女の子の通学を禁じた。マララはこのときまさに11歳だった。この頃はじめて彼女はパキスタンのテレビに出演し、教育の機会を奪わないでくれと訴えた。そしてペシャワールではじめて講演をおこなった。テーマはもちろん教育を奪うタリバンを批判した、女性の人権に関するものだった。またBBCのウルドゥー語のブログにも同様のことを書き始めた。彼女はすでに人権活動家になっていた。彼女はこの時期に一時的にシャングラに避難したが、しばらくしてミンゴラに戻っている。2011年、マララは14歳にしてパキスタン国家平和賞を受賞した。この賞はのちに「マララ賞」として知られるようになった。

 2012年、スクールバスに乗っていたマララはタリバンの兵士たちに襲われた。あきらかに人権活動家として活躍しはじめた15歳の少女を狙った暗殺未遂だった。頭部に銃弾を浴びるたいへんなケガで、命を落とさなかったのは奇跡だった。彼女が目覚めたとき、そこは家から5000マイル離れた英国のバーミンガムの病院だった。15歳の少女の命を狙うという恥ずべき行為によって、タリバンの評価は著しく下がることになった。

 2013年、マララは自分の誕生日に講演をおこない、翌年ノーベル平和賞を受賞した。そして2017年からはオックスフォード大学で学び始めた(2020年に卒業した)。2018年には負傷以来はじめてパキスタンに戻った。

 一方マララ襲撃を命じたとされる(それを否定する人々もいる)ファズルッラーは前任のマフスードが米軍によって殺されたため、2013年にTTP(パキスタン・タリバン運動)の指導者となった。しかし2018年、彼自身もまた米軍によって殺害された。

 スワートにある程度の平和が戻ってきた。北東30キロの山中にあるスキー・リゾートには客足が戻ってきた(コロナの影響でふたたび鈍くなっているが)。ウッディヤーナとスキーはどうもしっくりこない。パドマサンバヴァが現代に生まれていたら、スキーを楽しんだだろうか。

 タリバンはジャハナバードの大仏だけでなく、遺跡やさまざまな遺物も破壊したという。そもそもスワートを訪ねたとき、私は百か所以上に及ぶ仏教遺跡の大半を見ることができなかった。各地で岩絵を見てきた私だが、不覚にもこの地に岩絵が残っていることに当時は気づかなかった。今となっては、何が破壊されたかもわかりづらくなっているかもしれない。

 

 

<ミンゴラの歴史スケッチ> 

 スワート渓谷に最初に住み着いたのは紀元前1700年頃のアーリア人と言われる。最古のアーリア人の文学『リグヴェーダ』に出てくるスヴァストゥ川はスワート川を指すという。

紀元前518年、アケメネス朝ペルシアがスワート渓谷を領土に収めた。そしてギリシア人の侵攻(紀元前327年)があった。

そのあとスワート渓谷はマウリヤ朝(紀元前321年~297年)の一部となった。ガンダーラやウディヤーナ(スワート)が仏教化したのはこの時期だった。

そして紀元前256年から50年にかけて、バクトリア(ギリシア人)がこの地を支配する。

また中央アジアからシャカ人やパルティアがやってきた。

そのあとにクシャーナ朝の時代がつづく。クシャーナ朝の最盛期はカニシカ王の時代(紀元128―151年)であり、ガンダーラ仏教文化が花開くことになる。ウディヤーナ(スワート)はガンダーラ仏教の中心地のひとつだった。ミンゴラ市内のブトカラ遺跡は華やかな仏教文化の時代の面影を今に伝えている。

ササン朝ペルシアの領土に入る。

 そしてキオニタエのあと、キダーリ朝へと支配者が変わる。

 エフタルがやってきて、仏像などを破壊した。

 8世紀から10世紀にかけてのヒンドゥー・シャーヒ朝。

 1001年以降はムスリム時代。

 1519年以降はムガール朝時代。ムガール朝廷もイスラム教徒である。

 1849年以降、ユスフザイ・パタン(パシュトゥーン)の時代。

 

 

<注釈> 

註1 残念ながら、クンジュラブ峠近くの大氷河歩きやハミ市の魔鬼城の様子なども収めたこのビデオのデジタルカセットは、翌月、新疆ウイグル自治区で拘束されたときに没収されてしまった。昼間、砂漠の中のウイグル人の村でシャーマン儀礼を見たあと、町中のホテルに戻っていたところ、深夜、部屋に踏み込んできた七人の公安(警察)によって私は文字通り取り押さえられたのでる。これがどれだけの恐怖体験であったかは、説明するまでもないだろう。

註2 シャリーア(イスラム法)はクルアーン(コーラン)とスンナ(預言者ムハンマドの言行)を基にした法。前近代的で、現代の感覚からはずれた法体系とみなされがちだが、近代国家の法律では扱いきれない宗教的な慣習まで網羅した厳格なイスラム教徒には必要不可欠な法体系だ。いい面も、ある。たとえば、シャリーアによって飲酒は禁止されている。そのためイスラム国家には飲酒運転による事故自体が存在しない。

註3 Charles River Editors “The Ten Lost Tribes”

註4 摩崖仏を見たあと、私は記念に柿を十個もらってホテルの部屋に持ち帰った。ラマダン期間中なので夕食は部屋に持ってきてもらい、食後にこの柿を食べた。一口、二口と食べると私は突然食道のあたりが苦しくなり、息ができなくなり、一瞬もだえ苦しんだ。まるで毒でも盛られたかのようだった。タンニンが強すぎてアレルギー反応を起こしたのだろうか。