タントン・ギャルポ伝 イントロダクション C・スターンズ 宮本訳 

 

1 その生涯と謎めいた寿命 

 雪の国チベットには、何世紀にもわたって数えきれないほどの仏教の師や行者があらわれた。そのなかでも偉大なる成就者(マハーシッダ、ドゥプ・チェン)タントン・ギャルポ、すなわち「空(くう)の平原の王」(Thang stong rgyal po 1361?−1485)ほど、宗教、芸術、技術などのあらゆる面において、多大な影響を及ぼした人物はほかに見当たらないだろう。

 英雄は伝説的存在となった。というのも彼はチベットの神秘的な伝統に寄与し、なみはずれた長寿を送り、芸術、建築、冶金術に革命をもたらしたからである。タントンの生涯と教えには、聖なる狂気、ヴィジョンの啓示、悪魔祓い、不死の探求、人間と環境との関係、究極の覚醒のプロセスなどが織り交ぜられていた。

 彼はチベットとヒマラヤ地区ではたくさんの鉄の橋を作ったことで知られ、「鉄橋の男」(
Lcags zam pa)というあだ名で知られていた。この偉大なる大師は、数多くのストゥーパ、すなわち覚醒した心のシンボルの構造物を、いわゆる風水理論にしたがって、風景の荒々しいエネルギーを御する位置に建てた。21世紀のはじめにいたっても、彼がチベットやブータンに建てたいくつかの寺院はなおその名を轟かしている。

 タントン・ギャルポは長寿を獲得するための瞑想技法を駆使した結果、125歳まで生きたという。チベット仏教においてもっとも効果があり、人気のある方法としてその技法は代々伝えられてきた。彼のほかの瞑想法、とくにアヴァローキテシュヴァラの瞑想法やヴァジュラヴァーラーヒーの瞑想法も500年以上にわたって実践されてきた。

 彼はまたグル・パドマサンバヴァの精神面の生まれ変わりとされ、このインド人大師が隠したおびただしい数の宝の教え(テルマ)を発見した。彼の活動はいかなる教派にも属さなかったので、チベットのすべての仏教の教派から特別な地位を与えられることになった。

 タントン・ギャルポはまた霊的達成が認定されるときにダーキニーたちから与えられた5つの名前のうちのひとつ、「空(くう)の谷の狂人」(ルントン・ニュンパ Lung stong smyon pa)の名で呼ばれることもあった。この名称は、彼がチベットの歴史のなかで燦然と輝く「狂人の成就者」(クレイジー・シッダ)のもっとも重要な人物であることを示している。

 彼は現在、一枚の衣を着けただけの、外観もふるまいも挑発的な、長い白髪と髭の暗褐色の肌の色をしたカリスマ的人物として記憶されている。彼の恐ろしい呪術師としての名声はあきらかにケサル王物語のなかで獲得されたものだ。そこでは彼は「白い老人」と同一視されている。彼が不死を得たという伝説はアチェ・ラモのオペラのなかに登場するが、そもそもこのオペラは彼が鉄の橋を作っているまさにそのときに、民衆の娯楽のために彼自身が生み出したものだという。

 本稿は2つのセクションに分かれる。導入のセクションは4部から成る。第1部ではタントン・ギャルポの伝記に関するさまざまなソースに焦点を当て、それから彼の信じがたい寿命について吟味する。第2部は彼が広範囲に残したダルマ(仏法)の遺産について調査する。前例のないタントンの鉄の橋建設事業の調査結果は、第3部に詳しく述べられる。そこではさまざまなストゥーパ、寺院、その他の建築物や芸術作品について論議される。最後の第4部では、彼の生存中にチベットで花開いた「狂気の知恵」と呼ばれるタントラの伝統のなかに、彼のエキセントリックなふるまいの解釈を求めていく。

 本稿の中核をなしているのは、1609年にタントンの後裔ロチェン・ギュルメ・デチェン(15401615)によって書かれたもっとも有名なタントン・ギャルポの伝記の完訳である。それにつづくのが偉大なる成就者が涅槃に入る様子を目撃した者の息子、クンガ・ソナム・ダクパによって書かれた、タントン・ギャルポの驚くべき死の場面のチベット語テキストと英訳である。

 

伝記の史料 

 タントン・ギャルポの生涯に関するチベット文学の情報の多さは圧巻である。主な伝記はじつに1800ページ以上の長さに及び、その歴史的な材料はつねに魅力的だが、矛盾点も多い。彼の3人の弟子が書いたもっとも古い伝記に保存されているタントン自身の筆になるものとされる文章はとりわけ意義深い。ほかにも他の弟子が記した短い伝記がいくつかあり、時代が下るとたくさんの書き手がタントンの生涯を短くまとめている。

 タントン・ギャルポに関するもっとも古いテキストは、たてまえ上はグル・パドマサンバヴァが語ったということになっている「伝記的予言の書」と呼ばれる『予言の明るい灯』(Lung bstan gsal ba’i sgron me)である。この著作はタントンが発見するようにとパドマサンバヴァがチベットに残していったと信じられている埋蔵宝典のひとつである。

 1422年から1428年にかけて「6年の瞑想修行」をおこなったとき、ヴィジョンにパドマサンバヴァがあらわれ、『明るい灯』の一部を語ったという。修行を終えるまでにタントンは、将来彼がおこなうことをヴィジョンや予言として受け取り、それらを長い巻物に記録した。しかし彼が500人を超える聴衆の前で声に出して巻物を読んだとき、彼らは互いの目を見たあと、面白さのあまり手を叩き、それから床の上を転げまわって爆笑した。タントンは瞑想修行をする間に頭がおかしくなり、真実の予言などとてもできそうにないのではないかとだれもが考えた。

 のちにタントンは1444年以降のいずれかの時期に、聖なるツァリ峰の地域で埋蔵宝典としてのオリジナルの『明るい灯』を発見することになる。『明るい灯』はタントンと彼の教えに関して頻繁に引用されるが、それは弟子のコンチョク・パルサンとデワ・サンポによって書かれたタントンの伝記のなかに保存されたものである。おそらくこの予言的埋蔵経典は、タントンがデワ・サンポに記憶し、ブータンに戻ったあと書き留めるよう命じたものである。このことはタントンの弟子シェラブ・パルデンによって書かれた著作など他の初期の伝記に『明るい灯』が引用されていないことの説明になっている。

 タントン・ギャルポの魅力的な訓戒(bka’ shog)は各伝記のなかで引用され、詳述される。タントンのこれらの言葉は国王や大臣、僧侶やパトロン、神々や悪魔に向けて発せられたものである。この訓戒は、主だった伝記のなかで、あとで個別に論じたいが、弟子たちによって注釈がつけられ、完全な形で見出される。あるいはタントンの明妃ジェツン・チューキ・ドンメ(14221455)の伝記のなかにも保存されている。

 全体としてこれらの訓戒は全著作のなかでも最大のグループを形成しているが、この本で写し、引用しているものはほんのわずかにすぎない。タントンの初期の生活や旅のユニークな情報、寺やストゥーパの建設、彼が生きた時代に関する考えなどは、この訓戒のなかに見出されるのである。これら厖大な文書にはまた、彼の性格がもっともよく表れている。人間の本性や仏教の本質的な教えについて述べた彼の文章が含まれているのである。

 訓戒はさまざまな用途のために使われた。英訳された伝記にも描かれているように、タントン・ギャルポは紙に書かれた訓戒や鉄の連結部、仏法守護者の旗、観音(アヴァローキテーシュヴァラ)像を各弟子のグループに渡し、彼らを派遣して鉄の橋を建設するための奉納物を集めさせた。別の機会では、彼は弟子たちに彼自身の像と多くの扉を持つ吉祥のストゥーパの模型、そして訓戒を渡した。そして流行病を駆逐するためにサキャに彼らを送って祈祷をさせた。彼の明妃チューキ・ドンメに与えた訓戒はタントンの自筆の二行の詩からはじまり、二行以上の詩で終わっていた。

 おそらくそれ以外の文は書記によって書かれたのだろう。3つの黄金、トルコ石、珊瑚でできたかたまりがシルクのスカーフに包まれた紙の束の底についていた。訓戒とともにタントンはチューキ・ドンメに鉄の橋の鎖の連結部から取った神聖な鉄を贈った。この鉄は彼が二度旅行をするあいだ、コンポ地方で大量の針を集め、彼自身が槌で叩き、鉄に鍛えたものである。

 ほかの訓戒のなかで、タントン・ギャルポが東は五台山から、南はタームラドヴィーパ(セイロン?)、有名な巡礼地シュリーパルヴァタ(シュリーシャイラム?)、西はカシミールまで、そしてチベット南部の4つの国境まで、28回の長旅を成し遂げたことに言及している。彼はまた東インドのカーマタ(カーマルーパ)地域を訪ねたときに、インド亜大陸のほとんどのいい気へ行ったが、西チベットのリウォチェの自分の寺院に戻る途中、遠くテュルクのカルルク(Gar log)まで行ったことがあると述べている。彼はチベットの歴史上もっとも広範囲にわたって旅をした人物と信じられている。

 タントン・ギャルポの弟子の何人かが師の生涯について書いている。もっとも長大で重要な伝記を書いているのは、3大弟子のコンチョク・パルサン、デワ・サンポ、シェラブ・パルデンである。その名を上述の伝記的予言書から取った『明るい灯』(Gsal ba’i sgron me)は、ツァン西部のおなじラトゥ・ジャン地区のンガムリンからやってきたコンチョク・パルサンによって、リウォチェのタントン自身の寺院で書かれたものである。

 1433年頃、タントンはコンチョク・パルサンのもとを去り、サムドゥプ寺建設の完成を監督するためにパリへ行った。ずっとのちコンチョク・パルサンともうひとりの弟子デワ・サンポはタントンの大理としてインドのカーマタ地区に派遣され、カーマタ国王が仏教に改宗するよう運動を継続した。伝記は当初コンチョク・パルサンによって編集され、

 のちにブータンのパロ出身のデワ・サンポに引き継がれ、補足したり、改訂したりした。デワ・サンポの後裔たちは、タントンのチャクサム(
Lcags zam)、あるいは伝記の改訂版を編纂した場所であるタチョク・ノルブガン寺を拠点とするブータンの鉄の吊り橋の伝統のリーダーとなった。

 1485年に完成したニャゴの鉄の橋の建設を息子が指揮したにもかかわらず、この改訂版伝記はタントンの死に触れていない。このことからして伝記は1485年以降、そしてタントンが32年前に死去しているとリウォチェであきらかにされているので、1517年よりも前に書かれたと推定される。

 単独で後世に残ったテキストの補注によると、デワ・サンポはコンチョク・パルサンのオリジナルのテキストにタントンや明妃チューキ・ドンメの個人的な言葉、とくにヴィジョンや予言の性質に関するもの、タントンの前世の記憶などを書き足している。テキストにはまたタントンがふたりの著者に語った自伝的な内容が豊富に含まれている。このことはさまざまな箇所で言及されているが、とくにデワ・サンポはときおり、自分がタントンの自伝的な言葉の受容者であったと述懐している。

 著者不明の『すべての輝く灯』(Kun gal sgron me)は、ほとんどまちがいなくコンチョク・パルサンが整理したオリジナルの自伝と思われるが、のちにデワ・サンポによって『明るい灯』(Gsal ba’i sgron me)という題がつけられ、編纂され、長大化された。『すべての輝く灯』の作者は不明だが、リウォチェの寺院で、ほかのあやしげな伝記を「吹き飛ばす風として」タントン・ギャルポ自身の監修によって注釈が書かれたと考えられている。

 このテキストを『明るい灯』と比較すると、デワ・サンポによってどんな情報が付け加えられたがよくわかる。たとえばオリジナルの『すべての輝く灯』ではタントンの生涯がそのまま叙述されているが、デワ・サンポは修正版を108の章に分け、それぞれにタイトルを付けている。オリジナルの著作は、パドマサンバヴァの『予言の明るい灯』(
Lung bstan gsal ba’i sgron)や、チューキ・ドンメが書いたのちにデワ・サンポがそれをもとに詳述版を構成するタントンへの自伝的哀願から引用をしていない。

 デワ・サンポはまた彼の書いた修正版の冒頭に78ページ分を付加している。彼は注釈でそれを「アミターバの法身(ダルマカーヤ)の口伝」と呼んでいる。これらの箇所はニンマ派のテルマの伝統と関連した予言やヴィジョンの教えで満ちていて、それらがタントン自身の失われたテルマの伝統の一部であることを証明している。オリジナルの『すべての輝く灯』はカンドマ・センゲ(タントンの明妃であり、ニマ・サンポの母)に言及することはなく、明妃チューキ・ドンメがリウォチェを訪ね、最後にコンポへ旅をするという物語を語ることもない。『すべての輝く灯』のほとんどは『明るい灯』に再録されているが、ほかでは見いだされない初期のいくつかの情報が含まれる。

 初期のやはり重要なタントン・ギャルポの伝記は、弟子シェラブ・パルデンによって書かれた『驚異の海』(Ngo mtshar rgya mtsho)である。コンチョク・パルサンのようにシェラブ・パルデンはジャンの都ンガムリン出身だった。彼は卓越した医者の名家に属し、有名な医者でありカーラチャクラの専門家でもあったナムギャル・ダクサン(Namgyal Draksang 1395-1475)とともに学んだ。彼はンガムリンの支配者だった。

 1453年か1454年、まだ少年の頃、インドの大師パンディタ・ヴァナラトナ(
13841468)がチベットに3度目の旅行をしたとき、シェンラブ・パルデンは彼からカーラチャクラのイニシエーションを受けた。シェラブ・パルデンは26歳のときリウォチェに行き、タントン・ギャルポと会った。彼は16年間タントンのもとで近侍として仕えた。また医者としてタントンの死を看取ることになった。タントンの命にしたがってシェラブ・パルデンと偉大なる成就者の息子テンズィン・ニマ・サンポ(1436?)は32年間その死を隠したという。この期間、シェラブ・パルデンはリウォチェでタントンの代理として仕えた。

 ついに火の牛の年(
1517年)、タントンの遺骸は最後の休息地として、銀のストゥーパに納められた。シェラブ・パルデンの著作に1484年の最後の日が言及されて以来、一般的には大師が生存していると信じられていた1485年から1517年まで、彼はタントンの伝記を書いていた。

 シェラブ・パルデンが著した大師の伝記には、直接タントン・ギャルポから得た貴重な情報が相当に含まれていた。彼はしばしばいくつかの点でより詳しいほかの情報源があることも示唆している。そしてタントンの生涯に関してほかの専門家によって書かれた伝記的著作が存在することにも言及している。タントンが長大な言葉(訓戒のこと?)や予言、現存しないと思われる「大いなる集大成」(bka’ ‘bum chen mo)に含まれるその他の著作があることも述べている。

 シェラブ・パルデンは36歳のときリウォチェで伝記を書いたと記している。伝記で彼が触れる最期の年は1484年であり、その翌年にタントンは死去した。しかしながらギュルメ・デチェンとサンギェ・ギャツォは両者とも、シェラブ・パルデンが26歳のときリウォチェにやってきてタントンに16年間仕えたと書いているのである。そうするとタントンが死んだ1485年、伝記には記されていないが、シェラブ・パルデンは41歳だったことになる。シェラブ・パルデンの年齢に関する情報源のひとつはあきらかに不正確であり、この矛盾を解消するにはもっと多くの情報を見なければならない。

 1517年以降のある時点で、タントン・ギャルポは1485年にすでに逝去していたという秘密は公然の事実となっていた。シェラブ・パルデンの息子クンガ・ソナム・ダクパ・パルサンは、父親が書いたタントンの伝記を補充するにおいてきわめて重要な著作『偉大なる成就者入滅に関する最後の物語』(Grub thob chen po’i rnam thar phyi ma mya ngan las ’das pa’i skor)を書いた。チベット語のテキストとこのユニークな著作の翻訳は本稿の終わりに掲載した。

 クンガ・ソナムの補遺はタントンの逝去についての描写とタントンの死後の32年間のこと、そして大師の死が発表されたあとの1517年のできごとについて詳しい。クンガ・ソナムが情報の大半を父親のシェラブ・パルデンから受け取ったのはまちがいないだろう。父親はタントンの奇跡的な死の唯一の目撃者なのだから。後世のタントンの寂滅の物語はすべてクンガ・ソナムの著作をもとにしているのである。それはまた、タントンの死の日時や当時の年齢に根拠を与えるオリジナルの情報源でもあった。

 クンガ・ソナムはタントン・ギャルポの子孫であるロド・ギャルツェンの求めに応じて補遺を書いたという。この著作がいつ書かれたかはわかっていないが、おそらく1517年か1528年、あるいはその直後である。というのもシェラブ・パルデン作の『タントン・ギャルポ伝』中に描かれたタントンの生涯のおもなできごとを要約した韻文の伝記が、1528年にクンガ・ソナムによって編集されているからである。それはタントンの驚異的な寂滅についても述べている。

 おもなタントン・ギャルポ伝の最後にくる著作(本稿の翻訳)は、タントンの子孫ロチェン・ギュルメ・デチェン(15401615)が、タントンの死後125年の1609年にリウォチェで著したものである。『宝飾明鏡』(Kun gsal nor bu’i me long)はチベットで木版が作られ、刷られた唯一のタントン・ギャルポ伝である。この400年間にタントンについて書かれたもののほとんどがギュルメ・デチェンの著作に依拠している。

 タントンの弟子たちによる初期の伝記はほとんど流布しておらず、それらのうちの2冊が1084年にブータンで刊行されるまで、一般に目に触れることはなかった。デチェンの著作は本質的にこれら初期の著作を編集したものであり、簡略化したものだった。それまでのテキストは互いに大きく異なることも多かったため、彼はそれをまとめて首尾一貫した筋を仕立て上げた。

 それまでの伝記と比較した場合、多くのできごとがまったく異なる風に描かれていた。古い著作のいくつかのエピソードを組み合わせて新しい話を作ったり、日時を明確にしたりした。これらのなかでも重要なポイントは翻訳の注釈のなかで指摘した。ギュルメ・デチェンはまたほかの資料にも当って新しい情報を付け加えている。たとえばタントンの死の場面は、クンガ・ソナム・ダクパ・パルサンによって書かれた記録から取っている。しかしギュルメ・デチェンはこの初期の著作を知らないのだ。

 ギュルメ・デチェンは5人によって書かれた古代の文献をもとにしている。5人はタントン本人に生涯についてたずねているというが、その情報の出所を確認していないのだ。このうち3人がコンチョク・パルサン、デワ・サンポ、シェラブ・パルデンであることはまちがいないだろう。コンチョク・パルサンとデワ・サンポの著作がチューキ・ドンメによって書かれたタントンに捧げる韻文の伝記から構成されているので、彼女が5人のうちの4番目かもしれない。もしシェンラブ・パルデンの息子クンガ・ソナム・ダクパ・パルサンがタントンと会っているなら、彼が5番目かもしれない。

 ギュルメ・デチェンによる伝記は、おそらく17世紀にはじめて木刻が作られ、リウォチェで刷られた。18世紀後半になると、オリジナルのリウォチェ版が、東チベットのシェチェン寺の有名なサンスクリット学者テンズィン・ギャルツェン(活躍期は
17591771)によって校正され、編纂された。新しい版はデルゲ印刷院で印刷され、標準的な伝記となった。

 ロチェン・ギュルメ・デチェンはインド人大師マイトリーパの転生とみなされ、この時代のもっとも尊敬される師のひとり、とりわけカーラチャクラの実践とシャンパ・カギュ派の教えの師として認識されていた。リウォチェで書かれた韻文の伝記によると、ギュルメ・デチェンのもっとも重要な師はロチェン・ラトナバドラ(14891563)だった。彼は師からさまざまな教え、たとえばサキャ派の「果の道」(Lam ’bras ラムデー)やジョナン派のカーラチャクラの六支ヨーガなどを学んだ。彼は4年と8か月の隠遁生活を送り、六支ヨーガの瞑想修行をおこなった。

 ギュルメ・デチェンは、とくにサキャ派の教えにしたがって、ジェツン・ツェモの指導のもとで学び、瞑想を実践した。彼はジェツン・ツェモからサキャ派のラムデー(道果)やシャンパのニグマの教えを学んだ。彼はまた、ラムデー(道果)にしたがってヘーヴァジュラの修行をおこなった。彼はさまざまなチベットの伝統を多くの師から学んだ。たとえばニグマの教えをジョナン・クンガ・ドルチョク(
15071566)から、またラトン・ロツァーワ・シェニェン・ナムギェル(1512−?)からも学んだ。

 墓碑銘にロチェン(大いなる翻訳官)と記されているように、ギュルメ・デチェンはサンスクリット語の達人であり、多方面の学術的な知識を持っていた。彼はジャン地区(リウォチェを含む地域)の王であるナムカ・ツェワン・プンツォク・ワンギ・ギャルポの教師(
ti shri)となった。

 ギュルメ・デチェンはさまざまな教えをじつに数多くの弟子たちに伝授し、その系譜はつづいた。弟子のなかでも重要なのは、サキャ派大師パンチェン・ンガワン・チューダク(Panchen Ngawang Chodrak)とニンマ派大師ヨルモ・トゥルク・テンズィン・ノルブ(Yolmo Tulk Tenzin Norbu)が挙げられる。ギュルメ・デチェンはニグマのダルマ六法とその他シャンパ・カギュ派の教えの継承者としてンガワン・チューダクを指名した。ンガワン・チューダクはタントン・ギャルポの教えにしたがって、さまざまなシャンパの実践法に関するマニュアルを書いた。

 ヨルモ・トゥルクもギュルメ・デチェンからさまざまな教え、とくにカーラチャクラの六支ヨーガの実践法を学んだ。ギュルメ・デチェンはタントンが建てたリウォチェの寺院群もヨルモ・トゥルクに譲った。ギュルメ・デチェンの学術的な後継者はタクツァン・ロツァワ・ラトナ・センゲだった。ギュルメ・デチェンは数多くのテキストを書いたが、文学的にもっともすぐれているのはタントン・ギャルポの伝記だった。それは大師の生涯における最後の重要な研究だった。


チベットのメトシェラ 

 タントン・ギャルポの生没年、125年生きたという長寿の伝承は長い間論じられてきた。969年生きたという聖書の族長のメトシェラのように(創世記5・27)タントンはチベットの伝説における長寿の原型となった。大成就者自身があきらかに寿命を制御し、不死を得るという思想を抱き、発展させた。年齢について直接質問されたとき、彼はつぎのように答えている。

 権威ある哲学者がたずねた。「伝授というものは大いに祝福されるべきものです。おお、成就者よ、ところであなたはおいくつなのでしょうか」

「わが母から生まれたときから今までのことでしたら」と大成就者は答えた。「年を取っているとも、若いともいえます。母のもとに生まれてから何年たつか、数えたことがないのでわかりませぬ。年を取っていようと、若かろうと、あるいは壮年期であろうと、ご覧のように生きているのであり、何年経過しているかなどどうでもいいのです」

 実際のところタントン・ギャルポは自分の年齢を知らなかったか、意図的に何歳であるか言いたくなかったのか、判然としない。しかし彼の没年ははっきりとわかっている。タントンの死について最初に言及したのはタントンの弟子であり伝記作家であったシェラブ・パルデンの息子クンガ・ソナム・ダクパ・パルサンだった。彼はタントンが死んだとき128歳だったと記している。

 ンゴル寺の住持サンギェ・プンツォグ(
16491774)が唱えた138歳説がタントンの寿命説のもっとも長いものだろう。サキャ派大師シュチェン・ツルティム・リンチェン(16971774)によると、今でも(18世紀にいたっても)タントン・ギャルポは生きていると多くの人が信じ、一方で彼は身体を損傷することなしにケーチャラ天へ昇天したと一部の人は考えているという。

 チベットの古典的な文献のすべては、彼の寿命が125歳以上であったと述べている。それはギュルメ・デチェンが書いた伝記がもとになったのである。このとき以来、生年や没年に疑いを抱く人もいたが、チベットのほぼすべての書き手がこの数字を受け入れてきた。欧米の学者の間では、タントン・ギャルポの生没年を1385年と1464年とするのが一般的となっている。

 ギュルメ・デチェンが書いた伝記によると、タントン・ギャルポが生まれたのは「鉄・女・牛」の年(1361年)であり、死んだのは「木・女・蛇」の年(1485年)だという。ギュルメ・デチェンは、タントンは60年暦2回と5年生きた、そしてもし不規則な月日を勘定に入れたら合計で128年になると主張した。この伝記によって大成就者の生没年が確定し、寿命は125年だったとする言い伝えがかたまった。しかしギュルメ・デチェンはどうやってこの結論に達したのだろうか。

 もっとも初期のタントン・ギャルポ伝のどれも生年を特定したり、死に言及したりはしなかった。しかしシェラブ・パルデンによる伝記のなかで二度も、タントンの成就の最終リストを提示するとき、「地・男・竜の年」(1484年)に触れているのである。これは意義深いことだ、というのもシェンラブ・パルデンは多くのできごとを直接目撃した人物なのだから。彼は大師の死を見届けた人物でもあった。

 ギュルメ・デチェンもまた1484年や1485年に触れている。蛇の年(あきらかに1485年)タントンは息子と後継者のテンズィン・ニマ・サンポ(
1436−?)をニャゴに派遣し、鉄の橋の建設を開始させている。伝記の最終日には、「木・蛇の年」(1485年)のタントンの奇跡的な死が記されている。

 こうした情報がタントン・ギャルポの伝記のなかに見出されるが、その他の伝記と関係ない資料のなかにも重要な情報がある。3人の弟子によって書かれた瘋狂のヨーガ行者ツァン・ニョン・ヘールカ(14521507)の3種の伝記にも、若いときに彼(ツァン・ニョン)がリウォチェへ旅をして、タントンに会ったことに言及している。

 弟子のひとりラツン・リンチェン・ナムギェル(
14731557)はツァン・ニョンが24歳のときのことであったと特定している。ツァン・ニョンは1452年の生まれなので、この出会いは1476年のことであったことになる。この伝記の描写はタントンの伝記の描写とも合致するようである。老いた大師は最後の日々をリウォチェで隠遁生活をして過ごしていた。

 ギュルメ・デチェンはある決定的な資料をもとにタントンの生没年を計算していた。16世紀はじめ、クンガ・ソナム・ダクパ・パルサンは、蛇年の第4の月の第4日、128歳で大成就者が没したと書いている。クンガ・ソナムはこの情報をタントンの臨終の目撃者である父親シェラブ・パルデンから直接得たことはまちがいない。

 蛇年は12年ごとにやってくるが、さらなる情報なしにはこれ以上の日付を特定することはできない。しかしクンガ・ソナムはタントンの息子テンズィン・ニマ・サンポがニャンポ(ニャゴのこと)に鉄橋を建てたあとリウォチェに戻ってきたと記している。彼が留守の間に父親のタントンが死亡したことがわかっている。

 もっとも古いタントン・ギャルポ伝のひとつは、大師が生きている間にニャゴ鉄橋が架けられたと述べているが、日時まで特定していない。しかしこの橋が建てられたのが1485年(木・蛇の年)であることはまりがいない。古い歴史資料によると、パクモドゥの支配者ンガギ・ワンポ(14391491)がニャンポ(ニャゴ)の渡し場に長い鉄橋を建てたということになっている。

 現代チベットの歴史家ロサン・ティンレーは、タントンが鉄橋を建てるに際し、ンガギ・ワンポが必要な援助を提供したとみている。パクモドゥの支配者ンガギ・ワンポは橋の建設の場にいたが、権力を握ったのは1481年のことであり、死んだのは1491年だった。彼が統治者であった期間中、「木・蛇の年」は1485年だけだった。その年はロチェン・ギュルメ・デチェンが書いた伝記に記されたタントンの没年だった。

 タントン・ギャルポの生年となると確定するのはより困難である。ギュルメ・デチェンは生年を探る手がかりが3つあると考えた。最初の、そしてもっとも重要な手がかりは、1485年にタントンが死んだとき、上述のように128歳だったことである。2番目の手がかりはタントン自身が発見したパドマサンバヴァの『予言の明るい灯』に彼が牛年に生まれると書いてあることである。第3の手がかりは、タントンがかつて「私は前世で全知のドルポパだった。しかしこの生で私は狂ったツォンドゥと呼ばれる」と語ったことである。このタントンの宣言は重要である。というのも彼が聴衆に向ってそう言うとき、聴衆はジョナン派大師ドルポパ・シェラブ・ギェルツェン(12921361)がいつ死んだかよく知っていたからである。

 ギュルメ・デチェンによると、もともとの伝記に書かれているタントンの没年の128歳は、チベット暦の不規則な月や日を加味したものである。この加味した月日がなければ(この計算は珍しくない)タントンは123歳で死んだことになる。128年のかわりに123年を1485年から引くと、1361年の牛年に行きつくのだ。

 伝記のなかでタントンは「鉄・牛の年」(1361年)の第
1の月の第10日に生まれたと述べられている。この日時が正しいとすると、タントンは自身が生まれ変わったと主張するドルポパの死の10か月前に生まれたことになってしまう。デシュン・リンポチェによるとこれは「逝去前の転生」(ma ’das sprul sku)と呼ばれるという。ギュルメ・デチェンにとって1485年の死、125年の寿命、タントンが牛年に生まれるという予言、ドルポパの生まれ変わりだという主張、これらのことは1361年の「鉄・牛の年」にタントンが生まれたことの確固とした証拠である。

 大成就者がいつ生まれたかに関し、さらなる証拠がないかぎり、本稿で翻訳されているギュルメ・デチェンが提示した証拠によって寿命が125年だというのは、受け入れがたいことである。ただいずれにせよ、タントン・ギャルポが例外的な長寿をまっとうしたことはまちがいない。どの伝記にもタントンの長寿のことが書かれているのだ。この長寿伝説が、成熟した年齢に達する長寿を得るための実践法(栄光ある不死の贈り手として)を喧伝するためのものと過小評価すべきではない。伝承によればこの技法は彼の一門に吉祥をもたらした。タントンが自在に寿命を伸ばすことができたので、弟子たちの多くも長寿をまっとうすることができたという。