覚醒の報いの身体へ向かって 

 ターラーを実例としてみてみよう。ターラーの瞑想を実践するとき、彼女をあるがままに想像してみる。身体の色は緑、手はムドラー(印)を作り、足は決まったとおりに組み、さまざまな装飾品を身に着ける。ターラーはこのように私たちの心が生み出したものである。こちらに「私」が存在し、あちらにターラーが存在するという観念の囚われ人に私たちはなっている。しかしこのような心のつくりものが役に立たないというわけではない。覚醒の報いの身体を得ることによって、心が作ったものはそれと結びつき、私たちはそれに近づくこともできるのだ。

 ひとたび究極の理解が得られると、このターラーはもはや心が作り出したものではなくなる。彼女の姿が消えることなく、絶対的身体、すなわち主体と客体のない心の静けさとしての自らの現れとしての姿をあきらかにする。

 また私たちが思い描く神と覚醒した心のリアリティのなかに存在するありのままの彼女との間には違いがある。

 また覚醒の報いの身体はブッダのためではなく、他者の利益のために働くという。私たちの視点から見ると、それは真実である。しかしながらブッダの視点から見ると、「私」も「他者」もないのである。これはつまりブッダは彼あるいは彼女が報いの身体を生み出さなければならない、あるいは他者を助けなければならないとは考えないのである。これまで見てきたように、報いの身体は絶対的身体の自発的な表現なのである。奮闘した行為は意志や努力がなくとも、現象に内在するリアリティの概念を欠き、助ける「私」と助けられる「他者」というとらえ方がなくとも、自発的にあらわれるものである。

 神ははじめ外的なものとしてあらわれ、それから心の本質に内在するものとして姿をあらわす、ということは理解しがたいことかもしれない。むつかしいとすれば、それは二元的な概念のアプローチからしか問題に迫ることができないからである。「私」と「他者」があり、外的と内的があるということ、そしてその違いを想像することができないなら、何が問題なのか私たちは理解することができないだろう。心の本質を理解することによってしかリアリティをダイレクトに経験することはできないのである。

 

<質問> 

 ブッダの絶対的身体は本質において空であり、中断するものではありません。報いの身体、すなわち純粋な心の明晰さは、永遠に、あるいは断続的にあきらかなものなのでしょうか? 

<答え> 

 空と明晰さは二つの別々のものとして考えることはできません。それらは区別されないのです。もはや空が明晰さと混同されることはありません。空と明晰さはユニークなリアリティを描く唯一の方法なのです。それゆえ報いの身体の現れが断続的であると言うことはできないのです。報いの身体が「永久的」とみなされるのは、そういった理由があったからでした。

<質問> 

 覚醒の報いの身体は、さまざまな神々の姿をとって、極端なほどのさまざまな面に現れます。これほどの多様性は必要なものなのでしょうか。

<答え> 

 この多様性は物事の本質そのものから来ているともいえます。ブッダ、あるいは心の本質の明晰さの表現の可能性は無限なのです。それゆえ報いの身体の姿は無限にあるのです。それを制限するものはありません。こうした理由からすべての姿の身体とも呼ばれるのです。すべての姿が可能なのです。すべての色、すべての装飾品、すべての付随品がありうるのです。普通の身体の限界を報いの身体に適用することはできません。報いの身体の手は物質に触るだけでなく、見ることも、聞くことも、風味を体験することも、考えることもできるのです。おなじことは身体のほかの器官や組織についても言えるのです。

 実践という視点から見ると、私たちに示されている多様性は、私たちが受容できるものとしての現象のリアリティを信じてしまう強い傾向と戦う手段になるということです。姿がたくさんあるということは、それらの真の姿は私たちの理解よりもはるかに大きいということなのです。もし神がひとつであり、報いの身体の姿もひとつなら、何の疑いをもつこともなく、私たちとレベルをおなじくする神の姿をとるのです。私たちは身体による限界を持っていると認識しています。そして神もまたその身体による限界をもっているだろうと考えてしまうのです。姿はさまざまであり、それらは心のユニークな本質、すなわち絶対的身体のさまざまな表現であることを理解すれば、誤った思考に落ち込むことはないのです。