チベットの隠れキリシタン

 メコン河上流の南から維西県、徳欽県、塩井県(チベット自治区)にわたる百キロほどの帯状の地域に住むチベット族の多くが、カトリック教徒である。彼らの拠り所は、美しい山容で知られる梅里雪山南方の小高い丘の上の「隠れ里」茨中村の天主堂だった。

 クリスマスの数日前に村に入り、神父の家に泊めてもらった。家々では他の少数民族の村の新年のような盛り上がりがあった。親戚一同が囲炉裏を囲み、食べたり、飲んだりしながら楽しく過ごす。違いは、室内に飾られるのが神棚や仏像ではなく、イエスやマリアの聖画という点だった。また人々の民族衣装の下には十字架が隠されていた。

 クリスマス・イブ、すなわち12月24日の午後10時から翌未明2時まで、天主堂でクリスマスのミサが行われた。賛美歌はとても美しいのだけど、節回しはどこか、チベット仏教のお坊さんの読経と似ていた。
 1905年、フランス国教会に属するスイス人宣教師ふたり(漢名は蒲徳元と余伯南)がチベット族の僧侶や群集の襲撃に遭い、殺された。それ以来、村人は仏教に対し嫌悪感のような感情を持っているにちがいない。それだけに読経のような賛美歌というのは妙だった。
 彼らはしかしチベット族を嫌うどころか、むしろ民族に関係なく神の恩寵というものは受けることができるのだという。実際、この地域を統括する維西県の天主堂の神父は漢族だった。当時国のトップは江沢民だったが、あるチベット族の信徒は「宗教活動を自由化させた英雄」としてケ小平を褒め称えていた。

 いま手元に資料がないので詳しいことはのち加筆しようと思う。ざっと説明したい。
 この地域にカトリックの宣教師が入り布教活動を開始したのは1848年のことだった。徳欽に活動拠点を作ったのは1857年である。徳欽の天主堂は1872年に建てられた。しかし1887年から92年頃にかけて、僧侶や群集は徳欽や茨魔フ天主堂を破壊した。上述のふたりが殺されたのは1905年である。その4年後、ここ茨中村に天主堂が建てられた。
 維西や徳欽の宣教師が立ち去ったのは1951年になってのことだった。
 四川のカム(チベット)と中国の境界の町タルツェンド(現在の康定)が西南中国の拠点だった。また雲南では昆明の南方、景勝地石林で知られる路南が拠点だった。左の写真のチベット族の神父はここでキリスト教を学んだという。
「あなたのお名前は?」と初対面で彼はいきなり語学教師のような口調で、フランス語で聞いてきた。路南でフランス人宣教師から学んだ彼は、フランス語を話す人なら信用できると考えているかのようだった。
 一方、日本人といえば侵略者のイメージが強かったので、私は、日本にもキリスト教徒がいること、私の故郷には500年近く前、フランシスコ・ザビエルが来ていまも天主堂があること、私の出た大学がカトリック系であること、何年か前、私がクリスマス・イブにパリのノートルダム大聖堂に行ったことがあることなどを説明せねばならなかった。
 しかし村人に溶け込むのにさほど時間はかからなかった。当時この地域は非開放地区であったため、私ははじめ広東人と偽って村に入り(まあ、これだけで拘束されるには十分なわけだが)、受け入れてくれた家族にだけ日本人であると明かしていた。が、結局日本人であろうと広東人であろうと、彼らにとってはどうでもいいことなのだった。だれもがこのよそ者にたいして親切だった。村の暮らしはけっして豊かとはいえないけれど、信仰中心の生活はみなにしあわせをもたらしているように思えた。

 25日の午後、天主堂に戻ると、未明まで響き渡った歌声の余韻が消え、ひっそりと静まり返ったいた。
 私は手をあわせ、立ったままキリスト像やマリア像を眺めていた。この地で起こったさまざまなできごとや、隠れながら信仰の灯をともし続けた人々のことに思いを馳せていた。
 と、背後に数人の影が忍び寄っていた。若い平服の男が近づき、耳に息がかかる距離で、「さあ、来てもらおうか」と言った。彼らはみな制服を着ていなかったが、公安だった。
 私は数キロ北の派出所に連れて行かれ、2、3日留め置かれた。派出所の入り口は小さな食堂になっていて、ここのおばさんに「あんた、広東人だなんて言って、だまされちゃったよ」とたしなめられた。来る途中、少し立ち話をしたのだった。
 それからさらに北方の徳欽(デチェン)県の公安局に移送された。
 当初、ラサから違法な方法で非開放地区を通過してきた疑い(当時そういう冒険好きが多かった)をかけられたが、その疑いはすぐ晴れた。結局非開放地区に入ったという罪状で、罰金を払っただけですんだ。ラサや新疆の逮捕と比べると、たいしたことはなかった。その後数日徳欽県に滞在したが、それは中甸県(現シャングリラ県)方面へ通じる峠に雪が積もり、交通が遮断されたためだった。
 徳欽県にもクリスチャンはたくさんいた。吉祥飯店という食堂の若くてきれいな、二児の母でもある女主人は、マリアという洗礼名をもつクリスチャンだった。店に来ていた数人の汚れた格好をした男たちもみなカトリック教徒だった。みなチベット族である。
 
中甸県のホテルで働いていた塩井県出身のナシ族の女の子もクリスチャンだった。彼女には香港のYMCAの売店で買った中国語の聖書をプレゼントした。
 こうしてキリスト教というビュアーを通して見ると、新しい世界が開けるのである。

 

20世紀前半に建てられた天主堂。瀾滄江(メコン河上流)からは死角になって見えない丘の上にひっそりと佇む。焼き討ちにあうなど、その歴史は苦難の連続だった。

12月24日の午後10時からクリスマスのミサが始まった。正面中央にキリスト、その左方向にマリアの聖画が見える。賛美歌はなんとなく読経っぽかった。

神父と妹さん。ふだん十字架は服の下に隠されている。

文化財に指定されている門(左)の中には小学校がある。右は天主堂入り口。古きよき時代の欧州の香りが漂う。

マリアと幼子イエス(左)とイエス(右)の聖画像。ここだけ見ると、中国やチベットとは違う世界にいると感じられる。

十字架は言うまでもなくキリスト教徒にとって大切なもの。しかし長い間それを所持するのは危険なことだった。

親戚が囲炉裏端に集まってきた。ほかの少数民族となんら変わらないが、イエスの聖画が神父の背後に見える。

梅里雪山。茨中村はその南30キロほどの瀾滄江(メコン河上流)沿岸の丘の上に位置する。