チベットとペルシア 宮本神酒男 訳

第1章 ボン教古代伝説とゾロアスター教の影響

 

3 ボン教古代神話と高原以西の関係

 外来文化なくして、ボン教の形成と発展はなかった。チベットの歴史資料のなかでしばしば述べられるのは、吐蕃のボン教シャンシュンからやってきたという説である。シャンシュンのボン教は現在のチベット自治区の阿里地区および高原以西、のちにはもっと広い地域に伝播した。しかし仏教がチベットに伝来すると、ボン教は現在の四川西北など中央チベットからはるかに遠い地方にまで押しやられた。

 吐蕃のボン教がシャンシュンからやってきたという説以外に、シャンシュンのボン教は阿里よりずっと西のタジク(sTag gzig)からやってきたという説がある。タジクが何を指すか、完全に学者の意見が一致したわけではないけれど、われわれはそれがペルシア帝国、とりわけサーサーン朝ペルシアを指すと考える。ボン教の伝説や後世の歴史文書にはこのことが盛んに述べられており、教祖シェンラブ・ミボもまたタジクのオルモルンリンから来たとされるのは、あながち荒唐無稽な説ではなく、十分注目に値する。これをありえない、の一言で却下すべきではないだろう。具体的に例を挙げて検証していくべきものだろう。

 ボン教の古代神話は内容が豊富なので、本論ではひとつひとつ羅列、解析し、とくに時代の早いもののなかで重要かつ代表的な神話を取り上げ、ボン教の特徴およびペルシアのゾロアスター教との関係をあきらかにしていきたい。

 

(1)ニャティ・ツェンポ降臨神話

 ニャティ・ツェンポが降臨したという伝説のもっとも古い記事は、敦煌写本P・T1286号のツェンポ王統譜だろう。

「天神が天空から降りてきた。父神六君の子、すなわち三兄三弟、そしてティ(Khri)の七人のツェンポのうちのひとり、ティイ・ドゥムツィグ(Khri’i bdum tshugs)がいた。ティイ・ドゥムツィグの子がティイ・ニャティ・ツェンポ(Khri’i nyag khri btsan po’)である」

「ヤブ(Yul yab)の主、ヤブ地方に降臨する」

「はじめに神山ギャンド(Gyang do)に降臨したとき、須弥山は深々と頭を下げ、林ははしゃいで歓迎し、泉は清冽に迎え、石はみな腰を曲げて挨拶をした。ついに吐蕃は六ヤク部(Bod ka g-yag drug)が治めるようになった」

「ティイ・ドゥムツィグの子デ・ニャティ・ツェンポ(lDe nyag khri btsan po)はユルヤブの主となった。ヤブに降臨し、天神の子が人間の王となった。のちのちまで人々は王が天宮に戻っていくのを目撃した」

 ニャティ・ツェンポが天空から降臨したことは「ツェンポ系図」の記載からわかるが、これは吐蕃期に王朝がそれを受け入れたということである。同時にこの系図に、ボン教と密接な関係が読み取れる。すなわちボン教は天を崇拝し、始祖のツェンポが天宮より降って以来「天ティ七王」は逝去すると天宮へ帰っていった。またボン教は大山を崇拝し、ニャティ・ツェンポは大山に降り立っただけでなく、この山は神山として、つまりギャンド山として崇拝された。『敦煌写本』の「吐蕃歴史文書」ではヤルラシャムポが最高神として称揚されるが、それはヤルルン地区の神山でもあるのだ。

 これらのことから、われわれは敦煌写本中の別の箇所に、ニャティ・ツェンポからラトドニャツェン(Lha tho do snya brtsan)までの27代において、ボン、ドゥン、デウによって国政が護持されてきたことを思い起こさせられる。ツェンポが始祖以来天からやってきたとする考え方は、ボン教によってツェンポの王室が神聖化したことの根拠になった。つまりボン教によって国政が護持されたということなのである。

 ツェンポが始祖以来天から降臨したという説は、すべてのチベット史作者に支持されてきた。『チベット王統記』は古代史書を引用してつぎのように述べる。

「ニャティ・ツェンポははじめラリロルポ(Lha ri rol po)の頂上に降り立ち、四方を見渡すと高く聳えるヤルラシャムポ雪山(Yar lha sham po)が見え、この地方が美しく立派であることを認識し、ツェンタンゴンマ山(btsan thang gong ma」に降臨した。

 牧人がその様子を目撃し、あわてて駆け寄ってどこから来たのか、と問うと、ニャティ・ツェンポは天を指差した。牧人たちは、このお方は天から降臨した神の子でいらっしゃる、われらの王に推挙しよう、と言った。肩でもって玉座として迎えたので、ニャティ・ツェンポ(肩輿王の意)と号された。吐蕃最初の王である。

 ニャティ・ツェンポはユンブ・ランカル(Yum bu glang mkhar)を建てた。その子はムティ・ツェンポ(Mu khri btsan po)であり、以降ディンティ・ツェンポ(Ding khri btsan po)、ソティ・ツェンポ(So khri btsan po)、メティ・ツェンポ(Me khri btsan po)、ダグティ・ツェンポ(gDags khri btsan po)、シブティ・ツェンポ(Srib khri btsan po)とつづく7人のツェンポは天ティ七王と呼ばれる。

伝説によると彼らは自分の子が馬に乗れるほど成長すると、天縄(ムタク)を登り、天空に虹のような姿を現し、消えていったという。天ティ七王の墓は天空に建設されるが、天神は遺骸を残さないので、彼らも虹のごとく消えるということなのである。

 『プトゥン仏教史』によると、ニャティ・ツェンポがツェンタンゴシ地方(bTsan thang sgo bzhi)に来たとき、それをボン教徒たちが見ていた。彼が天縄(dmu thag)と天梯(dmu skas)を伝って降りてきたので、神人だと考えた。だれかと問われ、彼はツェンポと答えた。どこから来たのかと問われると、天を指差した。ことばが通じなかったので、人々は木の王座に彼をのせ、四人が肩に担いで持ち上げ、このお方はわれらの尊者であると宣した。ゆえにニャティ・ツェンポと称す、と。

 ダライラマ五世の『チベット王臣記』にも記す。ニャティ・ツェンポはギャンド山の山頂に降り、天界のような形をしているヤルルンの大地や満月のように清らかで美しいヤルラシャムポ雪山を遠望した。彼はロルポ山の頂上に立ち、それからツェンタンゴシに急ぎ足で向かった。当時放牧をしていた12人の男が彼を御輿に入れて担ぎ上げ、王として迎えた。すなわちニャティ・ツェンポである。また『青史』はおなじことをティ・ツェンポ・ウーデ(Khri btsan po ‘od lde)のこととして記している。

 ニャティ・ツェンポはユンブラガン(Yum bu gla sgang)を建て、ツェミシェンギ・ムギェル(Tshe mi gshen gyi rmu rgyal)はボン教経典を翻訳した。ニャティ・ツェンポら天ティ七王は天縄によって空高く昇り、消えてしまったので、墓はない。

ここで注目すべきは、後者の二書、とくに時代のより早い『プトゥン仏教史』がニャティ・ツェンポの天からの降臨を肯定するだけでなく、ボン教神山のことに触れていることである。人々はニャティ・ツェンポを王として肩に担いだが、彼らはボン教徒だった。またニャティ・ツェンポが人間の世界にやってきたとき、ボン教の経典を翻訳しているのだ。これらのことから、ニャティ・ツェンポの伝説は、ボン教徒の創作であったとわれわれは断言できる。

 仏教とボン教の争いは、すなわち相互の吸収と融合があったということだ。仏教は残酷なほどの闘争に勝利し、吐蕃王朝の主導的地位を得ると、ボン教に対し寛容さを示すようになった。もちろん同時に自身の生存と発展にも努めるのだが。仏教はボン教の成分を吸収するが、はるかにそれ以上にボン教はその影響によって儀軌を改竄し、神話伝説も改変することになる。

 ニャティ・ツェンポの降臨神話は人々の心に印象を刻み、広く伝播し、吐蕃王室の中核をなす神話となった。とはいえ仏教側の朝廷はあわてて神話を作成する必要はなく、ボン教の伝説をそのまま使ってもいいのだが、それにいくぶん違った要素を加え、「だれかが言うには」として混ぜ合わせることもできる。

 たとえば「だれかが言うには」古代インド・コーサラ王「勝光」の子「五節」という者がチベットにやってきた。一説には影勝王の幼子「小力」が「五節」だという。また「だれかが言うには」ヴェーサーリ王が子をもうけるが、その姿が異様だったので、銅製の箱に入れてガンジス河に流してしまう。農夫に救われ、その子は長じたあと人生の悲哀を感じ、雪山に入る。ツェンタンゴシに至り、ボン教徒たちに推挙されて王となった。一説には彼は衆敬王の後裔だという。彼らはみなインド王室の後裔であり、仏教と関係がある。これらの説が誤謬であるのはまちがいない。

 ニャティ・ツェンポがはじめに降り立ったギャンド神山はコンポ地区にあり、つぎに遠望したヤルルンの地およびヤルラシャムポ神山はヤルルン谷の最南端に位置する。ロルポ神山、またの名ツェンタン神山はヤルルンのシェタ山南に位置する。ツェンタンゴシは現在の山南乃東県ヤルルン・シェタの南、ユイェラカンの東に位置する。

 猿が人になり、岩魔女と交わってチベット人の先祖が生まれたという神話(いわゆる猴祖神話)はこのあたりに発している。ネドンやチョンゲはチベットの文化発祥の地であり、王権の揺籃の地であるのだ。

 コンポのディムサ磨崖石刻には「コンポ王ガポおよび家臣は奏上した、はじめ天神六兄弟の子ニャティ・ツェンポが人間界にやってきた。ギャンド神山に降臨して以来、ディグン・ツェンポまでの七代、ツェンポはチンワ・タグツェ(Phying ba stag rtse)に居住した。

 以上のことから、ニャティ・ツェンポがボド人(チベット人)であると結論できるだろう。ニャティ・ツェンポ降臨神話を吟味することによって、いくつかの発見があった。

 その一。この神話はボン教が吐蕃王室の祖先の神話と関係があることを物語っている。それにはボン教の教義と歴史観が表れている。その二。ニャティ・ツェンポの降臨神話は、ボン教が自然の万物を崇拝するとはいえ、天神が至上の地位にあることを示している。天神崇拝の出現は、部落を統一する権力を生み出したということだろう。ボン教は急速に発展していたのである。その三。天と光の崇拝はボン教の本質的なものである。そのつぎに大山崇拝がくるだろう。それはまた天の崇拝とも密接な関係があるだろう。祭祀活動はおもにボン教徒が行なった。その四。ニャティ・ツェンポとチベット本土との間にはさまざまな複雑な関係があり、彼はまちがいなくチベット人である。