イッサ文書のヘミス僧院 

 ヘミス僧院といえば仮面舞踏(チャム)が有名で、ラダック観光ツアーの目玉のひとつです。レーリヒがラダックを訪ねた1925年、観光客はほぼ皆無だったでしょうが、ときおりやってくる外国人旅行家や宣教師のあいだでは、ロシア人旅行家ノトヴィッチがヘミス僧院逗留中に見せてもらったという古文書、いわゆるイッサ文書の騒ぎの余韻がまだ残っていました。その古文書には、イッサ(イエス)の13歳から30歳頃までの空白の期間にインドに来て修行したという驚くべきことが記されていたのです。ちなみにノトヴィッチは1887年にヘミス僧院のチャムを見ています。

ドゥク派であるためか、ブータンの僧院の雰囲気が漂う 

現在そんな古文書の存在を真に受ける人はいないでしょうが、当時はまだそれを「世紀の大発見」と信じている人もいたのです。レーリヒもどうやらそのひとりでした。別の項でも書いたように、アベーダナンダのような信頼できるヒンドゥー哲学者が、3年前にこのイッサ文書を見ています。

偽書であるにせよ、イッサ文書は存在していました。レーリヒも「見た」と主張しています。この頃にはもちろんノトヴィッチはいません。このロシア正教に改宗したユダヤ系の戦地記者(これだけでもスパイ臭がぷんぷん匂ってきます)はロシア帰国後、革命に巻き込まれ、シベリアに送られたまま消息不明になっていました。

 レーリヒは奇妙なことを日記に書いています。

「仏教の裏側を見たかったらヘミスへ行け」

 つづけて彼はこう述べています。

「(ヘミス僧院に)近づくにしたがい、人は奇妙な暗闇と失望の雰囲気を感じるだろう。ストゥーパはとくに恐ろしい容貌をもっている。なんて醜い顔だろう。暗褐色の旗がはためく。黒いカラスは上空を飛び、黒犬は骨に向って唸り声をあげている。そして峡谷がまわりからじわりと迫ってくる。寺院と建物群が散乱している。暗い隅には、寺の道具が略奪された戦利品のように山積みになっている」

ヘミス僧院を包み込む岩山はオーラのような磁力を発している 

 このようにレーリヒはヘミス僧院をおどろおどろしい場所として描写しています。ほかの神聖なる寺院とは扱いがまったく違っているのです。しかも僧侶たちは「半文盲」だと決めつけているのです。そんなことがあるのでしょうか。彼はガイドがつぎのように言うのを聞きました。

「ヘミス! 名前は大きい(有名)が、僧院としては小さいね」

 レーリヒがヘミス僧院に関して気に入っていたのは、イッサ文書と(レーリヒはイッサ文書を気に入っていたのです)、鋭い崖の岩の上に立って朝陽を眺めている牡鹿の群れだけでした。

 レーリヒはレーに戻ると、イッサについて宣教師たちと話をしました。宣教師というのは、フランケが所属していたモラビア教会のことでしょう。しかし宣教師たちは歯牙にも掛けませんでした。レーリヒは怒りのこもった筆致で日記をつづります。

「イエスに関する伝説やシャンバラの経典は、もっとも暗い場所に隠されているものだ。どれだけの遺物がこのような埃が積もった片隅で消えていったことだろうか。それというのもタントラ仏教の僧侶たちがこういったことに興味を持っていないせいだ。これが仏教の一側面である」

 レーリヒの主張はやや的外れであることを否めませんが、ヘミスが独特な秘密めいた雰囲気をもっているのはたしかです。ラマユル僧院がパワー・スポットだとすると、ヘミス僧院はミステリー・スポットです。ミステリアスな、というよりあやしげな古文書の存在が、いっそうヘミス僧院をミステリーの霧のなかに包み込むことになったのです。


⇒ つぎ