今も使われる古代聖人の瞑想修行洞窟 

 
切り立った崖のグルギャム岩窟(ユンドゥン・リンチェン・バルワ)

 人はいつから洞窟で修行をするようになったのでしょうか。11世紀のチベットの修行僧ミラレパ(10521135)が洞窟で瞑想をしていたと聞いても、私たちはすこしも不思議に思いません。それが数千年前、あるいは数万年前からつづいてきた人類の太古の精神的技法であることをおそらく遺伝子レベルで知っているのです。

 ネオ・シャーマニズムの旗手マイケル・ハーナー(1929年生まれ)は、近著『洞窟と宇宙』(2013)のなかで、人がどのように洞窟のなかでパワーを得てきたか、先住民の洞窟パワー・クエストや自身の洞窟体験をまじえながら語っています。ハーナーによると、スピリット(ここでは魂と訳しておきましょう)、すなわち生気のエッセンスは、完全な暗闇のなかでもっとも見やすいのだそうです。

 岩窟に近づいていく 

 チベット仏教やボン教にも暗闇の修行という瞑想修行法があります。1か月にもわたって真っ暗な部屋に閉じこもり、瞑想に励むのです。もちろんもともとは部屋ではなく、洞窟だったでしょう。この修行法をニューエイジ的な新しい方法と勘違いする人もいますが、まったく逆で、おそらく何万年も前からおこなわれてきた人類の智慧の方法なのです。

 岩窟から見たグルギャム寺院 

 チベット高原にもっとも古く存在した国、シャンシュン国の中心地域には、驚くほど洞窟が多いということについて、これから何度か説明することになります。何百どころか、何千、何万という洞窟が存在するのです。これらは当然居住のために掘られた、あるいは使われたのかもしれませんが、一部はあきらかに修行洞窟として利用されていました。

 その代表的な岩窟(brag phug)が、かつてテンパ・ナムカが修行用に使っていたというグルギャム(gur gyam)岩窟(ユンドゥン・リンチェン・バルワ)です。ここでボン教高僧でありチベット医学の医師でもあるテンジン・ワンダク(bsTan ’dzin dbang grags 19222006)リンポチェと面会する機会がありました。ミラレパ修行洞(ニェラム県)のような「昔○○が修行していた」といった洞窟はあるにしても、現時点で修行僧が修行している洞窟を訪ねるという機会はそうそうあるものではありません。

  
岩窟の中に坐するボン教高僧テンジン・ワンダク師。洞窟内は正直なところ、宝物の部屋みたいでわくわくしてしまった 

 とはいっても、何年もこもっている修行僧に会ったわけではありません。じつはこのわずか一週間前、275キロ離れた阿里の町で、テンジン・ワンダク師と会ったばかりでした。ちょうど阿里の人民第二医院創立20周年の式典がおこなわれていたのですが、テンジン・ワンダク師は創立時の責任者だったのです。町中にあるテンジン・ワンダク師が座主を務めるボン教寺院も訪ねました。

  
阿里人民第二医院創立20周年の式典。左端のテンジン・ワンダク師は「レジェンド」で、別格扱い。
  

 テンジン・ワンダク師の本拠地は、岩窟のすぐ下にあるグルギャム・ゴンパです。ここはもともとシャンシュン国の都キュンルン・グルカルがあったところと言われています。一部の人は南に数十キロ行ったところにあるキュンルン地方こそキュンルン・グルカルだと主張しています。おそらく両方キュンルン・グルカルか、こちらがキュンルン・グルカルの入り口で、南のほうが本丸なのでしょう。

 テンジン・ワンダク師は1922年(1921年という記述もあり)、ナチュ地区のバチェン(sBra chen)に生まれました。5歳のとき出家し、16歳でゲシェ(博士)を取得し、23歳のときチベット医学の医師になっています。彼の伝記を読むと、この時期に根本グルであるパ・ニマ・ブムセーから集中的にゾクチェンの教えを授かりました。

そして32歳の頃、チベット中の聖地めぐりをはじめ、カンリンポチェ(カイラース山)方面にも巡礼に来ました。34歳の頃、一生の大半を旅に費やした伝説的なボン教修行僧キュントゥル・リンポチェ(khyung sprul 1897−1955)が1936年にシャンシュンの聖地グルギャムに建立したゴンパにやってきたのです。リンポチェ亡きあと、遺言にしたがってテンジン・ワンダク師が寺を継ぎました。

 このあと中国の混乱期である文化大革命にチベットも巻き込まれてしまいますが、その期間の1972年、テンジン・ワンダク師は阿里に移動し、そこで医療活動をはじめました。そして文革後の1984年、チベット医学の病院である人民第二医院を創立し、初代医院長に任命されました。

 テンジン・ワンダク師が歴任した役職を見るだけで、彼がいかに「チベット族」としてもうまくやっていったかがわかります。

 新疆ウイグル自治区政協委員、全国政協委員、全国仏協理事、西蔵仏協常務理事、阿里地区仏協会会長、阿里地区政協副主席……。

 彼にもちろん政治的な野心や権力欲はありませんでしたから、こういった役職は利用できるものは利用する、といった程度の認識だったのではないかと思います。しかしいずれにしても、ミラレパのように長年ずっと洞窟で修行をしていたというわけではなさそうです。もっとも、ミラレパがどの程度洞窟に入っていたかは、実際のところはっきりとはわからないのですが。(ツァンニュン・ヘールカがミラレパの伝記を書いたのは四百年もあとのことです)


岩窟で修行していたとされるテンパ・ナムカの像。なぜかエイリアンっぽい 

 グルギャム岩窟で修行していたというテンパ・ナムカは、ボン教にとってきわめて重要な人物です。さまざまな伝説があり、(実在したとすると)どれが本当の姿なのか判然としません。一説には、吐蕃の時代、テンパ・ナムカはボン教派を代表する大臣でしたが、転向して仏教徒になったといわれます。パドマサンバヴァの25人の弟子のひとりという言い伝えはこの路線上の伝承でしょう。ここでは、彼はゾクチェンのセムデの伝承者であり、パドマサンバヴァの教えを後代に残すことに寄与しました。

個人的にはこの仏教徒転向伝説に惹かれます。というのもパターンとしては17世紀のユダヤ人の偽救世主シャブタイ・ツヴィと似ていて、本当に転向したのか、転向したのは仮の姿なのか、どちらともとれるのです。

 ボン教の言い伝えによりますと、テンパ・ナムカはインドの名家出身のウーデン・バルマと結婚し、双子をもうけました。ひとりはユンドゥン・ドンセー(のちツェワン・リグズィン)、もうひとりはペマ・トンドルと言いました。瞑想修行によって、前者は長寿をまっとうし、後者は呪術的な強力なパワーを取得したといいます。

 別の伝説によると、テンパ・ナムカの双子の息子は、ひとりがボン教教師のツェワン・リグズィン、もうひとりがペマチュンネ、なんとパドマサンバヴァのことです。そしてテンパ・ナムカが書き留めた言葉は当然パドマサンバヴァの言葉ではなく、ボン教祖師トンパ・シェンラブの言葉ということになるのです。

 

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