時をかける猫とぼく  ロイド・アリグザンダー 

 

15 マン島人 

 ジェイソンが家にはいってきたとき、彼女はその足音を聞いていたが、顔をあげなかった。「こっちに来ないで、ビートゥン」彼女は叫んだ。「あなたのこたえなんて、なくてもいいんだから。来ないでといったんだから、もうあなたに会うこともないはずよ」

「お願いです」とジェイソンは言った。「来ないでと言ったのなら、それなりの理由があるんでしょう。でもぼくはビートゥンではありません。なにか必要なことがあれば、お手伝いしますが……」

若い女は白いエプロンですばやく涙をふいた。顔を上げたとき、彼女の片方の瞳が青色で、もう片方の瞳が茶色であることにジェイソンは気づいた。

「黒髪の、ひょろ長いのろまに、家に近づくなとあなたからも言ってくださいな」彼女は怒りをおさえきれなかった。「でなければ、父親を呼びますから」彼女はまたむせび泣きはじめた。

 ジェイソンはためらって立ち尽くした。何といったらいいか、あるいは何をしたらいいかわからなかった。そのときギャレスがぴょんと跳んで、少女のひざの上にのった。ギャレスは耳を管所の手にこすりつけ、のどをゴロゴロと鳴らしたので、彼女は泣き止み、猫の存在にはじめて気づいた。涙はかわき、すすり泣きのあいまに、細長い、黒い猫のからだをなでた。ギャレスはゴロンところがり、前足のあいまから彼女を見上げた。威厳があり、同時に子猫っぽさもあったので、彼女は思わずプッと吹き出してしまった。

 ジェイソンは船の難破のことや子猫たちのことを彼女に語った。そして食べ物や水をわけてもらえないかとたずねた。「もちろん立ちどまるわけにはいきません」ジェイソンはつけくわえた。「唯一望んでいるのは、今夜……」

「立ち止まる?」彼女は叫んだ。「1ミリだって許されません! 子どもたちを、子猫たちをみな、運んでください。年老いた猫は二年前に死んでしまいました。それ以来猫は飼っていないのです。内陸には十分な猫がいません。急いで! もう長いとこ、子猫は見ていませんでした」

 ジェイソンはドルシネアと彼女の家族を呼ぶだけの時間がなかった。少女は床の上にひざまずいた。

「みんななんてすばらしいの」彼女は驚いた。「しっぽがないなんて、なんて奇妙なの。でもそれでみな堂々としているように見えるわ。なんと強くて、きちんとしていることかしら」。彼女は称賛をやめなかった。子猫たちは彼女のエプロンのひもにじゃれて遊びはじめた。

 ドルシネアは子猫たちを見守りながら火の近くに腰を落ち着けてすわった。完全にくつろいでいるように見えた。

「子猫たち、みんなあんたのもの?」少女はジェイソンにたずねた。「一匹もらえないかしら」

「ぼくのものじゃないよ」ジェイソンはこたえた。「でもドルシネアがここを気に入ってずっといるつもりなら、全部飼うことだってできなくもないよ」

 少女はとても喜んで戸棚まで急いで行き、七つの魚の皿をもってきて置いた。すぐにドルシネアと子猫たちは食べはじめ、のどを鳴らした。

「猫たちを見て!」と少女は言った。「ここでしあわせそうだわ。ここにいることになりそうね」

 

 少女の名がアーウィンだということをあとでジェイソンは知った。その夜、彼女の父親モーゴールドが漁から帰ってきたとき、娘が新来の客と一緒にいるのを見て、とても喜んだ。モーゴールドは真っ黒に日焼けし、頭は白髪だった。顔は広く、ニコニコしていて、その鼻は島の断崖絶壁のように突き出ていた。彼はまた、船乗りのごつごつした手を打って子猫を呼び、遊んだ。子猫たちは彼の指にとびかかり、またツメを引っかけてぶらさがった。しかしフィッシュナイフで傷つき、塩水にきたえられたモーゴールドの手は革のようにかたく厚かった。彼が床の上で子猫たちを引きずるとき、一匹の子猫はそれぞれの指をモーゴールドの手にかけていた。六匹目の子猫は彼の上着を這いのぼった。

 夕食のあと、モーゴールドはイスにどっかりとすわり、まるでいつもそこにいるかのように、ドルシネアをひざの上にのせた。しっぽのない猫をなでながら、その日の舟の上のできごと、つまりニシンの捕獲や悪天候について語った。

「今日はビートゥンを見かけなかったな」と彼は付けくわえた。

「ビートゥンはここにいたのよ」煩わしそうにこたえたのはアーウィンだった。「あたしが追い払ったわ。これが最後だといいのだけど」

「誇りに思うことは何もないな」モーゴールドは悲しそうに頭をふりながら言った。「どうしておまえはいつもあいつを酷にあつかうんだ? かわいそうに、あの小僧はおまえが好きでたまらないんだ。だがおまえは気にもかけない。あいつが見ていないと思ったときにおまえはあいつを観察していたな」

 アーウィンは顔をそむけた。「ビートゥンには何も期待していないわ」

「もしお母さんが生きてさえいたら」モーゴールドはため息をついた。「まちがっていると告げるのは女の仕事なんだが」

「やめて」アーウィンは言った。つづくことばはジェイソンを驚かした。「醜い女を欲する男なんていないわ。男にあわれまれて結婚するなんて、最低なことよ。あたしを見てよ!」彼女は叫んだ。「あたしの目をちゃんと見たことある? ひとつが青色、もうひとつが茶色なんだから!」

「それがビートゥンにとって何なんだ?」モーゴールドはたずねた。「あいつはおまえの一方の目が好きだし、もう一方の目もおなじくらい好きだ。まちがいない。あいつはニシンの背骨ほどにも公明正大なやつだ。つまりどちらか片側が好きなのではなく、両側とも好むやつなのだ」

「あたしは醜くすぎるわ」アーウィンはむせび泣き、エプロンで顔を隠した。

「醜いだと?」モーゴールドはたずねた。「美しさとは内面のことだ。顔のことじゃない。それに島の乙女が自分は醜いと信じたら、見目麗しい乙女でも醜くなってしまうものなのさ。もし人が、青年は醜いと考えたら、彼は醜い、冷酷な男として行動するだろう。ビートゥンにたいするおまえの態度はそんなふうなのだ」

 アーウィンは聞いていなかった。そのとき彼女は扉をバタンと閉め、すでに外に出ていた。

 

 島の名はマン島、住人はマン島人(マンクスメン)と呼ばれた。マン島はアイルランドとイングランドのあいだの海中にある小さな点にすぎなかった。漁師たちはアイルランド人なのかイングランド人なのかどちらだろうかとジェイソンは考えた。

「両方ですね、すこしずつ」とガレスは言った。「同時にどちらでもないといえますね。北欧人(ノースメン)ともいわれるのです。ずっと昔、祖先はバイキングだったと考えられるのです」

 ジェイソンはバイキングが偉大な航海者であることを知っていた。そしてマン島人がバイキングと関係していると信じていた。だからどこか特定の場所よりも船の中のほうがかれらは落ち着くのだった。男たちが海に出ると、小さな村は実質的にすさんでしまった。だからモーゴールドはジェイソンが家に滞在して、アーウィンの日常的な雑務を手伝ってくれることを望んだのである。

 子猫たちも家を出ていきたがる様子は見られなかった。浜辺が気に入っていたのだ。毎朝子猫たちは家の扉からとび出すと、イソシギのように競い合った。えらそうにガーガー鳴きわめくカモメを追いかけ、貝殻をたたき、あわてて濡れた砂に隠れる小さなカニをもてあそんだ。しばしば小さな波が忍び寄り、子猫たちの脚元を不意に洗い流した。しっぽのない子猫たちはそのときびっくりしてとびのいた。一匹の子猫は引き返す波を追って海のほうまではいってしまった。

 漁師が舟を波の上に押し出すとき、子猫たちはいつもじゃまをした。好奇心旺盛な子猫たちは舟に乗りたがったのだ。こうしたときドルシネアはミャーミャーと命令調で鳴いて呼び戻した。

「前にも言ったけど」ドルシネアはほかに人がいないとき、ジェイソンとガレスに語った。「あたしはこれ以上海と関わりをもちたくないの。子猫たちはそのうちほかの仕事をすることになるわ。あたしが許さないかぎり、子猫たちが舟に乗って航海するなんてことはないのよ」

 フランシス・ドレーク卿ひきいる英国艦隊が無敵艦隊を破ったというニュースが流れたとき、ドルシネアはイングランドへ、もしかするとロンドンのエリザベス女王の宮殿に行くことになるかも、とジェイソンは示唆した。

「そうね」ドルシネアはおもしろがった。「宮廷の生活がぴったりくるかもね」

 しかしジェイソンとギャレスが航海をともにすることを提案したのに、彼女はそのとおりには動かなかった。ドルシネアは何よりもマン島に落ち着きたいようだった。彼女は暖炉の近くの隅っこがお気に入りだった。モーゴールドが塩と霧のにおいをともなって帰宅すると、そのひざにうまいぐあいにとびついた。

 ドルシネアは海を嫌っているように装っているが、ほんとうはそうではないだろうとジェイソンは信じていた。浜辺から離れるよう子猫たちに命じたあと、しばしばドルシネア自身が浜辺に近づき、舟がいなくなるまで、じっとそちらを見ていた。そのあともひとりですわり、彼女は時間をきめて海を眺めていた。

 アーウィンもまたひとりですわった。ビートゥンは陸(おか)にあがると、かならずアーウィンの家の近くに立ち寄った。しかし彼が立ち去るまで、アーウィンはことさら忙しそうにした。アーウィンは家の前でイスにすわっているとき、ドルシネアのように水平線をじっと見つづけた。

 アーウィンのただひとつの楽しみは、子猫たちと遊ぶことだった。ジェイソンとガレスも喜んで遊びに参加した。

「この子たち、へんちくりんに見えるね」目のすみにアーウィンを見ながらジェイソンは言った。

「へんちくりん?」アーウィンは腹を立てて言った。「この子たち、とてもきれいよ」

「そう、とてもきれいだよ」ジェイソンはこたえた。「ぼくに同意してくれるかなって思っただけなんだ」

 アーウィンはフフと笑った。「なんてばかなことするのって思った。でもはじめて見たとき、きれいだなって思ったのよ」

「それがわからないところでもあるんだ」とジェイソンは言った。「この子猫たちはふつうの猫とちがうんだ。で、キミはこの子たちが好きだという。でもキミは心配しているかもしれない、もしかするとほかの人と目がちがうかもって。それはぼくには理解できないことなんだ」

 アーウィンは顔をそらした。「あなたには関係ないことだわ」

「ドルシネアはしっぽがないことをとても誇りにしているよ」ジェイソンはつづけた。「それはすばらしいことだと感じているんだ」

「でも男の子がどうやって猫の心のなかを知ることができるの?」とアーウィン。

「ぼくは……そう想像したんだ」ジェイソンは言った。「この猫をじぶんで見てごらん。首のかしげかたを見てごらん」

「そうね」アーウィンはしぶしぶ認めた。「誇り高い猫だと思うわ」

「キミも誇りをもっているんじゃないかい?」ジェイソンはきいた。

 アーウィンは顔を赤らめた。「もう行くころよ」彼女はすばやく言った。「仕事があるでしょ」

 その夜アーウィンが小さな鏡でじぶんをじっと見ていることに気づいた。モーゴールドが家に帰ってきたとき、彼女は鏡をさっとエプロンに隠した。そしてビートゥンが通りかかったとき、彼女の反発する態度はいつもほど強くなかった。

 

「どうも運に見放されたようだ」ある晩モーゴールドは言った。「海にはニシンが一匹もいないみたいだ」

「ドルシネアはもともと船乗りの猫だったんです」ジェイソンは言った。「みんなにとって幸運をもたらす猫でした。少なくとも船が難破するまで」

 モーゴールドは首をふった。「なるほど、それで一匹の猫は船に近づかないのか。その猫、見たことあるよ。船をおそれているみたいだな。子猫たちもそうだ。家猫じゃないな、この猫たちは」彼は深くため息をついた。「かわいそうなんだな。わしらにも幸運をすこしおすそ分けしてもらいたいもんだ。このままでは村中の人が飢え死にしてしまいそうだ」

 ひざの上でドルシネアはいぶかしげに漁師の顔を見上げた。

 モーゴールドは猫の頭をやさしくなでた。「でもおまえにできることは何もないな、お嬢さん」と彼は言った。

 

 夜明け前、ジェイソンとギャレスは、船を海に押し出そうとしている漁師たちの言い合いの声に起こされた。少年と猫はいてつくような青い霧のなかに出た。玄関先にすでに出てすわっていたのはドルシネアだった。そのとなりにおごそかにならんでいたのは、子猫たちだった。アーウィンもそこにいた。彼女の視線の先にはビートゥンがいた。

 水際にモーゴールドが立ち、娘に向かって手を振っていた。「あんたにもさよならをいわなきゃな、お嬢さん」とドルシネアに向かって言った。「帰りを待っていてくれよな。みなに幸運よあれ!」

 ドルシネアはからだをふるわせながら、前かがみになった。しかし玄関先から動こうとはしなかった。

 浜辺まで下りたビートゥンはアーウィンに向かって手を振った。

「ぼくにはないのかい?」彼は叫んだ。「アーウィン、ぼくには幸運を望んでくれないのかい?」

 アーウィンはおずおずと手をあげた。「ビートゥンに幸運を」ささやくように言った。それから突然エプロンがとんだかと思うと、彼女は浜辺のほうに駆けていき、ビートゥンの腕の中にとびこんだ。

「想像するに」ジェイソンはギャレスに言った。「アーウィンはかわいらしくいようと決めたようだね」

「みんなそうですよ」とギャレスは言った。「じぶん自身にチャンスを与えられるなら」

 そのとき灰黒色のものが弾丸のようにジェイソンの足元をかすめていった。ドゥルシネアだった。モーゴールドに向かって、その足がもつかぎり速く走っていったのだ。子猫たちも全速力であとを追った。それぞれが異なる船にとび乗った。

 小さな漁船の艦隊がそれぞれ猫をのせて波のあいまに出ていった。モーゴールドの舟にはドゥルシネアがほこらしげにすわっていた。ふたたび海の猫になったのだ。

 潮が浜辺に満ちてきた。少年と猫が立つ場所にあった足跡に、海が満ちてきた。

 
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