ウイグル族の歴史の深淵(2)

カシュガル郊外の香妃廟

カラハン朝、最初のトルコ系イスラム王朝

 歴史は謎だらけだが、ウイグルがいかにしてイスラム化していったかは、ある程度、あとをたどることができる。 

すでに述べたようにカラハン朝がどのようにできたか、はっきりしたことはわからない。ウイグル国が840年に壊滅し、西方へ逃れた人々、たとえばアルタイ山南麓のヤグマ人が当地のカルルク人を支配したのかもしれないし、カルルク部落の連合国家だったのかもしれない。

 カラハン朝がきわめて重要なのは、その言語が現在のウイグル語と似ていると考えられるからだ。ウズベク語と現代ウイグル語は似ているが、それはカラハン朝のテュルク語から分派したためだろう。中国の歴史家が無理やり「カラハン朝は中国の地方政権」と主張するのも、現在のウイグル問題と無関係ではない。

 王朝の始祖はビルゲ・チュル・カーディル汗で、バラサグンを都とする遊牧国家を築いた。このビルゲ・チュル・カーディル汗こそ『旧唐書』中、西方のカルルク領地へ逃げたとされる、ほう(广+龍)特勤、すなわちパン・デギンではないかという説があるが、確認することはできない。汗の死後、あとを継いだ長男パトゥルが都バラサグンを守り、次男オグルチャク・カーディル汗がタラスを治めた。893年、ブハラを都とするイラン系スンニー派国家サーマーン朝の君主イスマーイールがカラハン朝の領域に侵攻し、オグルチャク汗と激しく戦った(一説にはタブガチュ汗)。この時点ではカラハン朝はイスラム化されていないので、サーマーン朝にとってはジハード(聖戦)なのである。オグルチャク汗はカシュガルに後退し、兄(パトゥル汗)が援助してくれなかったことを恨みながら、カシュガルを新しい都に定めてカディル汗を自称した。

パトゥル汗を継承したオグルチャク汗の甥サトゥク・ボグラ汗(在位942−955)は12歳の頃、サーマーン朝の王族ナスルに会い、感化され、イスラム教に興味をもつようになった。サトゥクは25歳のとき、先に改宗した50人の部下やフェルガーナから来たイスラム教徒3千人とともにカシュガルを攻略した。サトゥク汗は伝説色の濃い人物だが、テュルク系の最初のイスラム教徒の王として名高い。

960年には20万帳のユルト(テント)すなわち数十万人の突厥人がイスラム教徒になったという。これはサトゥク・ボガラ汗の長男ムーサーではないかと考えられる。これだけの集団改宗は過去に例がなく、宗教史上においても画期的なできごとである。以降カラハン汗は間断なくホータンを攻め続け、新疆のイスラム化を推し進めていくのである。

なぜ彼らはイスラム教徒になったのだろうか。

サトゥク・ボグラ汗が兵力を敵のサーマーン朝から借りたこと自体、すでにイスラム教徒になっていたことを意味しないだろうか。

 サーマーン朝は新疆にまで版図を広げようという狙いがあったかもしれないが、結果的に999年、首都ブハラがカラハン朝によって陥落する。恩を仇で返されるはめになったのである。

 ちなみにサーマーン朝もカラハン朝もスンニー派だった。宗派間の争いではなかった。

 

ホータン陥落、一部の難民チベットへ

 イスラムの激しいジハード(聖戦)の波に最初にさらされたのは疏勒(カシュガル)に比較的近くて大きな都市であるホータンだった。ホータン・カシュガル戦争は10世紀半ばにはじまり、11世紀初に終結したと思われる。

 そのときのことは敦煌で発見されたホータン王・李聖天(Visa Samgrama)が沙州(敦煌)の王・曹元忠に当てたホータン文書簡であきらかになっている。ちなみにチベット人はホータンのことをリ・ユル(リの国)と呼ぶが、そのリは李である。唐代に朝廷から李姓を下賜されたのではないかと考えられる。

 書簡からわかるのは、969年に大石(Tazik)すなわちカシュガル軍が攻撃をしかけてきたことである。このときはホータンが勝利を収め、戦利品としてタジク・ツン・ヒエン(カシュガルの将軍か)の宝、妻子、象、馬などを得た。そしてすぐ宋の朝廷に報告をしている。ホータン王はカシュガルに傀儡政府を建てようと考え、帰義軍の長であり河西節度使である沙州の王に同意を求めたのである。

 『四人のイマーム』という民間に伝わる書がある。

 七人のイマーム(四人のイマームとは違う)がマダイン(現サウディアラビア)を出発し、ホータンとカシュガルへ聖戦のために向かった。イマーム・スマイは3万人の兵士とともに帰還したが、イマーム・イブラヒムはカシュガルに残った。一部のイマームはホータンで殉教した。そのことを知った四人のイマームはすぐさまホータンへ向かいたかったが、周囲に押しとどめられた。

 19年後、カシュガルの人々がイスラム教を捨て、仏教徒になったという話が伝わってきた。チョ・クティリシデとヌ・クティリシデという兄弟王がそそのかしたのだ。その時点でイマーム・イブラヒムが死んでから11年たち、あとをイマーム・ヌルディンが継いでいたが、牢獄に閉じ込められていた。

 そこでユースフ・カーディル汗(?−1032 カラハン朝の王)が立ち上がり、4万人の兵士を率いてカシュガルへ進攻した。到着する前にカシュガルの人々へ向けて書簡を書いた。

「私ユースフ・カーディル汗はイマーム・ナスルディンら四人のイマームを奉じてカシュガルにやってきた。もしあなたがたがイスラム教に帰依するなら、4万人の武力を用いなくてもいいのだ」。

 カシュガルの人々は答える。

「もし預言者ムハンマドの後裔にお会いすることができるのなら、イスラム教に帰依いたしましょう」。

 その頃四人のイマームはカシュガルへ向かっていた。道中、一行に参加する人が増えていき、14万人にも達しようとしていた。彼らが城内に入ると、人々は武器を捨て、みなイスラム教徒になった。

 イスラム軍はさらに(カシュガルの東南に位置する)ヤルカンドへ向かった。人々はイスラム軍を恐れて洞窟に住んでいたが、軍隊が来ると暖かく迎え、イスラム教徒になった。

 つぎに向かったのはホータンである。チョ・クティリシデ王とヌ・クティリシデ王は500人の精鋭兵を砂漠のなかにひそませ、先遣としてやってきたイスラム軍のムハンマド・シャクルを捕獲し、殺した。

 しかし14万人の大軍はホータンに近づきつつあった。二人の王のもとにはひとりの凶悪な法師がいた。法師の手下は40人もいた。(もちろん凶悪というのはイスラム軍からの見方だ)

 彼らは王宮の前に緑色のテントを設営し、呪術的な儀礼をおこなった。すると忽然と王宮と池が消えた。(『トリック』劇場版2の村を消したシーンを想起させる……)

 イスラム軍はどこを探しても消えた王宮や池、王、家臣らを見つけることができなかった。

 そうしてある夜、王宮が徐々に姿を現わす。だが王宮の中には男ひとりが残っているだけだった。その男が言うには、食料が尽きたため、王たちは逃亡したというのである。それからイスラム軍とホータン人の追いかけっこがはじまる。詳細は省くが、何度か激戦を繰り広げ、「モスリムと異教徒(仏教徒)の血が混じり、川の水のように迸った」という悲惨な戦いとなったのだ。戦争は数十年も続いたが、イスラムの勝利で終わる。

 『皇宋十朝綱要』によると、偽キジル(クチャ)公主・青宜結牟や首領李阿温率いるホータン諸族は逃走して現在の青海西寧に亡命した。この時期、西寧には角斯羅(ジュスロ)のチベット王国(青唐国)があった。チベット(アムド)とホータンはかならずしも仲はよくなかったが、おなじ仏教徒として、イスラムにたいして危機意識を共有できたのではなかろうか。この半世紀のちには、ホータン生まれの養子アリク(阿里骨)が王位を継承する。おそらく相当数のホータンからの難民がいて、朝廷のなかでも大きな役割を担うようになっていたのではなかろうか。そもそも角斯羅(おそらくrGyal sras で仏の子。997−1065)は12歳のとき高昌で河州の商人に発見された吐蕃国王の後裔ということだが、当時からその出自には疑念がもたれていた。12歳といえば1008年頃のことである。

 チベットに亡命したホータン国の李阿温はその名前からしてもホータン王・李聖天の一族だったと思われる。しかし李一族がその後どうなったかは、わかっていない。ホータン国は1008年に滅ぼされ、それ以降はイスラム教の最前線となったのである。当時高昌や甘州のウイグル族はイスラム化していなかったが、孤立無援のホータンを助けることはできなかった。

 例のごとく、イスラム教徒は仏教を徹底的に破壊した。こんな詩が残っている。

われら洪水のごとく

城市を駆ける

仏寺を壊し

仏像にかける、糞尿を。



『幸福の知恵』と『トルコ語大辞典』

 カラハン朝の東の都、カシュガルは東トルキスタンの文化の中心地でもあった。その象徴的存在といえるのが『幸福の知恵』と『トルコ語大辞典』である。

 『幸福の知恵』(Kutadgu bilig)は1069年頃、バラサグン生まれのユースフ・ハース・ハージブ(1019−1092年)によってハーカーニヤ語(中世ウイグル語)で著わされた長編の哲理的な詩集である。マスナウィ形式(双行詩)やルバン体(四行詩)が用いられ、総計で13290行にも及ぶ。多くはアフォリズム(箴言)であり、幸福に導くための善行と知恵を説いたものだという。その写本はウィーン本(アフガニスタンのヘラートにてウイグル語で書かれたもの。イスタンブールで発見)とカイロ本(アラブ語)、フェルガーナ本(アラブ語)がある。これを見ても、トルコ系社会だけでなくいかにイスラム世界で広く受け入れられ、愛唱されてきたかわかるだろう。
 

 カシュガルの街中にあるユースフ・ハース・ハージブ廟を訪ねると、たくさんの詩句が抽出され、壁に貼ってあった。それらは道徳的なアフォリズムばかりで、なにか説教でもされているような気分になってしまった。

 しかしそれは選び方に問題があるのだと思う。ユースフ・ハース・ハージブはあきらかにスーフィズムの影響を受けていて、二百年後のルーミー(ジャラールッディーン・ルーミー 1207−1273 アフガニスタン・バルフに生まれ、大半をトルコ・コンヤで過ごした神秘詩人。現在も欧米では絶大な人気を誇る。邦訳に『神秘と詩の思想家 メヴラーナ』)の先駆けともいえる神秘詩人という側面もあるのだ。

 全体を貫いているのは寓意詩である。「日の出」(国王)が賢者を求める。それに応じたのは「満月」だった。「満月」は王宮で国王にかしずき、国王の信頼を得て大臣に任命される。しかしほどなく「満月」は病気になり、いまわの際に自分の職を子の「賛美」に継がせる旨を国王に伝える。国王は補佐の重要なことを痛感し、ふたたび賢者を求める。国王は山の中で修行する隠者(スーフィー)の「覚醒」のことを聞く。「賛美」はなんどか山に足を運び、出仕するよう懇願するが、なかなかこたえてくれない。ようやく「賛美」の熱心さに心を打たれ、国王に尽くす決心をする。のち「覚醒」もまた病を得てこの世を去る。「賛美」は「覚醒」のあとをついで国王の補佐をし、国民は幸福な日々を送ることができた。

 難解な詩である。「日の出」は正義、「満月」は運、「賛美」は知識や知恵、「覚醒」は来世を象徴するのだという。この寓意詩がなにを意味するかよく考えてみよう……。

 別の詩では、目、耳、手、足などがふたつあるのは、ひとつはこの世のため、もうひとつは来世のため、とうたう。片方の足はこの世を踏み、もう片方の足は来世へと踏み出す。この世は旅籠であり、ひとは旅客にすぎない。ひとは塵にまみれたこの虚像の世界ではなく、来世に永遠の幸福を求めなければならない。

 この詩集は時の権力者タフガチ・ボグラ・ハンに献じられたものである。イスラム教の思想を表現した哲学詩集であるとともに、それは権力者とイスラム教の関係を説いたものとしても画期的な作品だった。

 『トルコ語大辞典』(ディーワーン・ルガート・アットゥルク)はマフムード・カーシュガリー(1005?−1102?)によって編纂された各地のテュルク語の語彙7500を集めた辞典であるが、そのほか四行詩、格言、地名、族名、家畜名、動植物名、薬名、暦法、鉱物名、人物名などじつにさまざまな名称や情報を収集した大百科全書なのである。

 知の巨人、マフムード・カーシュガリーは、カシュガル近郊のカラハン朝の夏宮、オパル(Opal)に生まれた。祖父は東カラハン朝を破ったマフムード・ボグラ汗、父はバルスハンのアミール(統治者 Amir)だったがカシュガルに移住したフサイン・マフムードだという。

 だが宮中で事変が起こり、父親は汗(ハン)の位を維持することができず逃走、マフムード・カーシュガリーもブハラに難を逃れた。その後サマルカンドやニシャプールなどを遍歴し、数々の学者に教えを乞い、情報収集に努め、晩年にバグダードに到達した。『トルコ語大辞典』はバグダードで1072年頃完成し、アッバース朝のカリフ、アブドゥラ・ムクタディーに献じられたという。時代背景を見ると、ちょうどセルジューク朝が躍進し、1071年にはマラズギルドの戦いで東ローマ帝国を破ったばかりである。テュルク系民族が一挙にアナトリア半島になだれこむのもこの時代。この戦争がなければ、トルコにトルコ人はいなかったのだ。

 1080年、マフムード・カーシュガリーは故郷のオパルに戻り、永眠する1102年までここで過ごす。村の近くの丘の上で墓が発見されたのは、それから900年近く後の1983年のことである。

(つづく)