光と闇の神話>

マニ教からボン教、そしてトンバ教へ

 

世界の初めに二つの存在があった。

その一つは光、他は闇であった。註1

 

 

 あまりにも謎めいていて、それが謎であることさえわからなくなってしまったものが、世の中には多々ある。

 たとえば、中国西南のナシ族の祭司であるトンバ(註2)が一種の象形文字であるトンバ文字(註3)によって伝承するあまたの神話のうちでも代表的な「白と黒の戦争」(ドゥ・ア・ス・ア)とよばれる神話がそうだ。比較的入手しやすい「納西東巴古籍訳注(三)」(雲南民族出版社)というトンバ経典アンソロジーにも入っているポピュラーなものである。

 なにが謎めいているかといえば、これがベルシア型創世神話である「光と闇の神話」のヴァリエーションであるようにおもえることだ。光と闇、白と黒、善と悪……かくもベルシア的な二元対立モティーフがなぜこんなところにあるのだろうか? しかし、不思議なことにそのことはあまり問題視されてこなかった。

 ナシ族の神話は、ナシ族出身を含む中国や日本、欧米の数々の研究者によって取り上げられてきた。そのなかでももっとも研究対象となる頻度の高い創世神話が、卵生モティーフ、(牛の)死体化生モティーフ、天柱モティーフなどを通じた世界形成、近親相姦の懲罰として発生した大洪水とつづき、始祖ツォゼリウ(男、地上)とツェフボンボ(女、天上)の婚姻から人類が繁栄していく物語「人類遷移記(ツォバトゥ)」だった。

 そこにも白と黒のシンボリズムがあらわれるが、それに農耕民と牧畜民の対立をあてる見解を諏訪哲郎が示した。「黒と白の対立関係から協力関係への変化は、牧畜民による農耕民の支配・融合を反映している」(註4)というものである。中国西南のチベット・ビルマ語諸族(古代羌族系といいかえてもいい)は黒と白の系統(烏蛮と白蛮)に分れ、それが牧畜民と農耕民にあてはまる傾向があるのはたしかだし、それがなぜそうなのか、というのはとても興味深い点ではある。

しかし、神話のなかで白と黒が農耕民と牧畜民をあらわす要素があるとは言い難く、この定式を杓子定規的にあてはめるには無理がある。

 「人類遷移記」はほとんどすべての儀礼のなかでよまれる(儀礼の種類を問わずよまれるのはこの経典くらいのものだろう)もっとも重要な経典のひとつである。いろいろなモティーフが盛り込まれているため、神話学的な観点からみると興味深いが、てんこ盛りの感がある。いっぽう白と黒の対立をドラマ化した「白と黒の戦争」は、きわめてシンメトリーな構造をもっており、ナシ族のトンバ教に入ってきて二元対立的な鋭さが鈍ったとはいえ、もともとのベルシア的な原型がみえてくるようにおもえる。

 英国のアンソニー・ジャクソン(註5)をはじめとする西欧の学者は、ナシ族の宗教をボン教(註6)から派生したものとして説明しようしてきた。トンバ教開祖トンバシャラはボン教開祖トンバ・シェンラブから、イァマなどの神々もボン教神ウェルマなどから、というふうに、神々の相関関係がはっきりとみてとれるし、衣裳や道具などもあきらかにボン教起源だ。神話もまた、その多くがボン教からもたらされたと考えるのは当然だろう。ナシ族の白と黒は、ボン教の白と黒から来たものなのだ。

 唐代には吐蕃・唐・南詔の三大国間に紛争が絶えず(同盟を結んだり敵対したりしたことは、敦煌文書にも記されている)、吐蕃軍がボン教徒を連れて頻繁に南詔を攻撃しているので、この時期、国境に近い南詔側のナシ族の地域にボン教が伝播したことは十分に考えられる。ややこしい話だが、この地域のいくつかの村には、仏教と見分けがたいタイプのボン教(いわゆるギュル・ボン)が現在もボン教として残っている。

 トンバ教を世に知らしめたトンバ文字はボン教とはまったく関係ないではないか、という批判もあるかもしれない。しかし、四川・甘粛省境界に分布する白馬族はボン教を信仰するが、チベット文の経典にはタッチこそ違うものの絵が多用され、各家の入り口にも占星術の絵が描かれている。(註7)文字が十分に浸透していない地域に教えを広めるために、ボン教はトンバ文字や白馬族の絵を創出したのかもしれない。

 トンバ教はボン教そのものか、という点は繰り返し論じられてきた。二十年代から四十年代にかけてナシ族の地に暮らしたトンバ教研究の権威ジョセフ・ロックが、これぞ失われし古代ボン教だ、とたからかに宣したとき、チベット学の大御所ジュセッペ・トゥッチも太鼓判を押したものである。(註8) その後はトーンダウンして、なにか曖昧なままになってしまったが。前述のジャクソンはそれを蒸し返してロックの主張した点を推し進めようとしたが、やや強引すぎる印象を免れえない。

 トンバ教が、ナシ族古来の民間倍仰にボン教が混入した、あるいは大きく変容させてできたシンクレティックな宗教であるのは間違いない。しかし、ボン教そのものが十分に明らかにされていないため、どうしても決め手を欠いてしまう。サムテン・カルメイもため息をつくように、創世神話ですら異説が多く、明確なボン教像を描くことができない。(註9

 つぎに、ボン教がはたしてマニ教の影響を受けているか、というもうひとつの論点に移っていきたい。少数派ではあるが、ボン教はマニ教にほかならない、と主張する研究者もいるのだ。(註10

 いままでボン教については、聖地や寺廟巡りの時計廻りを反時計廻りにしたり、トンバ・シェンラブの一生を仏陀の一生と似せたり、ボン教版大蔵経を作ったりといった、宗教らしく見せるため仏教から借用したとされる表層的な面ばかりが強調されてきた。そのためにボン教はチベット学者からなにか下等なえせ宗教のような扱いを受けてきたのである。

 それは異宗派・異教徒にたいする攻撃としては当然なのだろうけれど、ボン教のグノースティックな面、あるいはベルシア的な面は見落とされがちだった。たとえ認識されたとしても、ボン教を確立された宗教らしく見せるために仏教以外から盗用したアイデアとみなされた。

 十八世紀の高僧トゥクァン・チューキ・ニマはボン教を、ドゥル・ボン(現れたボン)、キャル・ボン(派生したボン)、ギュル・ボン(変容したボン)の三段階に分けた。これは仏教側による分類でボン教側からの反発もあるが、便利なのでここではその観点から見ていきたい。

ドゥル・ボンは古代のニャティ・ツェンポにはじまる26代の王によって採用されたものだが、魔を鎮め、天神を祀り、生活の祭事を司るなどのわりあいシンプルなもの。

キャル・ボンはカシミール、プルシャ、シャンシュンから三名のボン教徒が招かれたときにもたらされたもので、巫術や呪力を示した。シヴァ教の影響を受けているという。

ギュル・ボンは仏教の経典などを改竄してもっともらしく見せかけたが、弾圧を恐れてそれらをテルマとして秘匿したとトゥクァンは記している。

 二番目のドゥル・ボンは、これこそベルシアからの波だったのではないだろうか。トンバ・シェンラブ・ミウォの存在と教えはこの時期に到来したものと推定される。シェンラブ・ミウォは、シャンシュン、あるいはタジク(註11)のオルモ・ルンリンからやってきた。タジクは、ベルシア系国家タジキスタンに名を留めることからもわかるように、ベルシアのことである。ボン教徒が来た三つの場所にしろ、すべては西方、ベルシアのほうを向いている。

 マニ教はかつて仏教、キリスト教とならぶ世界的大宗教であったといっても過言ではなく、西はスペイン、アフリカ北岸から東は中国東岸まで広がり、千年以上もの命脈を保った。それだけの信徒を獲得したのには、それだけの教義、哲学、世界観があったはずだ。中味についてはあとで吟味するが、マニ教の根本原理である光と闇の二元対立というシンプルでドラマティックな構図が人びとの心をとらえたのだろう。

 二元論というのは、とくに一元論を正統とするユダヤ・キリスト教社会では悪魔の囁きに似て、魅惑的だ。二元論側が、ひとりの神のみが世界を創ったとするなら、なぜ世界には悪が存在するのか、悪は神が創り賜うたのか、と問うたとき、カトリックは答えに窮することになる。アウグスティヌスがどのようにこの間題を乗り超えようとしたかは、のちほど触れたい。

 マニ教はライバル宗教そっくりにメタモルフォーゼし、核となる魅惑的な二元論コンセプトだけは残して、キリスト教や仏教を侵蝕していった。聖アウグスティヌスとマニ教司祭フォルトゥナトウスの公開討論(註12)では、マニ教司祭はおのれをキリスト教徒と称し、聖書を手に持って巧みに引用しながらディベートをしているのだ。また中国では、マニ経典を仏典や道教の経典(註13)のようにみせかけたりもした。チベットのボン教経典が仏典そっくりに編纂されるのは、あるいはそのような融通無碍なマニ教方式だったのではないか?

 博覧強記のトゥクァン・ロサン・チューキニマも、マニ教のことは知らなかっただろう。仏教のメガトン級の波が押し寄せる前に、マニ教の波がチベット高原に届いていた可能性はないだろうか。もし上述の三名のボン教徒がマニ教徒であったと仮定するなら、それはマーニーの生存した3世紀からの数世紀の間に起ったことにちがいない。マーニー自身、シンドやバルーチスタンまで行って布教をしているので、カシミールやプルシャでもマニ教のことは知られていたかもしれない。通常、マニ教は国教として受け容れたウイグル人によって西域からチベットにもたらされ、その存在は知られていたと考えられているが、そうだとすると、7、8世紀のこととおもわれる。

 このように、光と闇の神話がマニ教ボン教トンバ教と送られてくる可能性を吟味し、その背景を焙り出してきた。しかし、マニ教の二元論的哲学がトンバ教に受け渡されたかといえば、かならずしもそうとはいえない。マーニーはこの世の苦しみは肉体が悪魔によって造られたことに起因していると考え、光の国への魂の解脱をめざすことから二元論を展開した。しかしナシ族は形而上的な思考法には馴染みがなく、魔を跋除し、災いを防ぐためによむ百近くの経典のなかに二元論的神話を取り込んだのだ。日常的には二元対立的なものは見当らず、白、清浄への志向性がナシ族の特徴である。

 「白と黒の戦争」では、戦いにおいてつねに光、白、善の側が勝利を収める。物語としてはマンネリかもしれないが、そうして精神のホメオスタシスが保たれるのだ。ひとが重い病に臥したとき、トンバがやってきて儀式をおこない、そのなかでこの物語をよむ。それは物語の形式をとった祭詞・呪詞であり、炉辺で語られるたのしい神話・伝説の類とは意味合いがまったくちがうのだ。

 さて、マニ教が直接トンバ教に影響を与えたかについても、いちおう吟味してみる必要があるだろう。洛陽や泉州をはじめ中国各地に拡がったマニ教も、中国西南まで達したという証拠を見出すことはできない。

 ただ気になるのは、年代すらも曖味な伝説的なトンバ教中興の祖阿明(アミ)だ。その名前からしてマニ教を彷彿とさせる(中国東岸のマニ教は明教とよばれた)が、二元対立というより、光、白、善、清浄を志向する伝道者(ボン教徒だったかもしれない)であり、あるいはナシ族は無量光仏アミターバ(阿弥陀仏)とダブらせて考えてきたかもしれない。アミターバもまた中央アジア起源(註14)とも、ゾロアスター教起源(註15)ともいわれるのだ。

 

 

 

註1 アラビアのイスラム学者イブン・アン・ナディームが十世紀末に著した『フィーリスト』等術書目録)のマニ教に関する一節。ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教』(人文書院)より引用。矢吹慶輝『マニ教と東洋の諸宗教』大貫隆『グノーシスの神話』などにも訳がある。

註2 チベットの仏教伝来以前(から存在する)ボン教の開祖トンバ・シェンラブが訛ってトンバ教開祖トンバシャラとなったが、その精神を伝える導師という意味でトンバとよばれるようになったとおもわれる。ブプ、ブンブ(ボンポの訛り)とよばれることもある。

註3 トンバ経典がなくても祭詞や呪詞を暗誦できることからすると、それは一種の記憶のための記号と考えるべきだろう。トンバ文字辞典の類がいくつか出ているけれど、じっさいにトンバ経典を読もうとしても、それはほとんど役に立たない。新入りトンバは、何年もベテランのトンバ(父や叔父のことが多い)のもとで経典と儀礼について学ばなければならない。その意味で(師資相承という点で)トンバ教は密教的であり、コミュニケーションを目的としないトンバ文字は神聖文字だといえる。

註4 諏訪哲郎『西南中国納西族の農耕民性と牧畜民性』学習院大学

註5 Anthony Jackson 'Na-khi Religion' 1979

註6 ボンと表記することも多いが、チベット文字を慣習的に表記したbonを日本語に写したものとしてボンをここでは採用した。poenがもっともラサ口語音に近いが、そもそも特殊化したとされるラサの口語音に合わせるべきかという別の問題が発生する。

註7 最近雲南省麗江に白馬族の絵入りボン教経典がもたらされ、それをトンバが読むことができた、とされるが、文字通り受け止めることはできない。

註8 J.F.Rock 'The Nakhi Naga Cult and Related Ceremonies' 1952

註9 Samten GKarmay "A General Introduction to the History and Doctrinesof Bon"

註10 ラサの社会科学院研究員コンチョク・ジャは、四部医典などの古い医学書にペルシャ起源とおもえる要素を見出しはじめている。そういえばマーニーがシャープール一世に医者と呼ばれていたことを想い出した。

註11 カイラス山近くのシャンシュンか、ベルシアかはっきりしないのはなぜか。シャンシュンだとしても、ベルシアの影響を強く受けた場所にかわりはない。

註12 『アウグスティヌス著作集第七巻・マニ教駁論集』。

註13 仏典のような「摩尼光仏教法儀略」、道教経典のような「老子化胡経」。

註14 浄土経典の翻訳者が唐代以前は西域や北インド出身が多いことから言われてきた。矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究』)

註15 光明神という点で共通する。岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』

 

 

 

2

 二元論の元祖といえばゾロアスター教だろう。註16

 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の年代には諸説があり、前630年頃生まれたとする説が有力だが、ゲラルド・ニョリは前10世紀頃の可能性が高いことを示唆した。(註17) ゾロアスター教を取り入れたアケメネス朝ベルシアがオリエントを統一したのは、前6世紀のことだった。イラン高原からメソポタミア、小アジア、シリア、エジプトへと版図を広げていく過程で偶像崇拝などを取り込むかたわら、各地に拝火殿をつぎつぎと建立していった。前330年にマケドニアのアレクサンドロス王がアケメネス朝を倒し、ゾロアスター教は、表面上は停滞状態に陥るが、前3世紀にパルティア人が打立てたアルサケス朝のもとで、2世紀までその火は絶えることがなかった。

3世紀、あらたに起ったサーサーン朝によってゾロアスター教ははなばなしい復活をとげる。ここで留意しておくべき点は、マニ教が起ったのも三世紀ということだ。その後サーサーン朝ベルシアは七世紀までつづいたが、新興のイスラム勢力に滅ぼされ、ゾロアスター教も命運を伴にした。それでも今日まで、インドのパールシー教徒を含め、15万人の信徒を維持している。

 ゾロアスターの原初の宇宙は、明快で、劇的で、ダイナミックだ。そもそもの初めから、対立する善と悪の二原理が存在し、永遠の抗争がはじまる。善とは光であり、生命であり、創造主アプラ・マズダー(オフルミズド)である。いっぽう悪とは闇であり、非・生命であり、破壊主アングラ・マインユ(アフリマン)である。

 アフラ・マズダーは天(望ましい統治)、水(完全性)、大地(献身)、植物(不死)、動物(善なる心)、人間(聖なる霊)、火(秩序)という七段階を経て世界を創造した。それに対し、悪の霊は天に穴をあけ、水を汚し、大地を砂漠化し、植物を枯らし、植物や動物に死をもたらし、火を消した。

 ゾロアスター教はこのような宇宙観にしたがい、死体を悪に打ち負かされたものとみなし忌避することはあったものの、マニ教のように生きているじぶんの肉体を嫌悪することはなかった。マニ教のこの(霊にたいする)物質否定・現世否定は神学上の重大な論点であり、同時代のキリスト教やグノーシス主義、のちのカタリ派などの異端に大きな影響を及ぼした。

 マニ教(摩尼教)はとくに中国において、しばしばゾロアスター教と混同されてきた。しかしゾロアスター教が古代宗教的、民族宗教的性格をもち、布教活動を積極的にはしなかったのに比べ、マニ教はカリスマ的開祖による「創唱宗教」であり、燎原に火が燃え広がるように勢力を拡大した。その中味もゾロアスター教だけでなく、仏教、キリスト教、新プラトン派、ピタゴラス派などの教義や要素を取り入れた宗教のごった煮のような宗教だった。そのようなものが生まれたのには、マーニーが文明の十字路とよべるバビロニアに生まれ育ったことが大きく作用しているだろう。

 マーニーの父パーティクはメディアの都ハマダンのベルシア人だが、何らかの理由でベルシアの首都クセノフォンに移ってきた。あるとき「偶像の館」(偶像崇拝の寺院)で、肉、酒、女を遠ざけよという神の声のようなものを聞き、それから「沐浴を実践する人びと」という宗教(イラクからイランにかけて現存するマンダ教か)を信仰するようになった。この啓示があってから間もなくの216年4月14日、妻マリアムはマーニーを産んだ。

 マーニーは12歳のとき、双子の精霊から父の宗教を離れよという啓示を受け、24歳のときには伝道をせよという啓示を受けた。まずはインドへ向い、シンドやバルーチスタンに到達した。なぜインドへ向かったのかはわからないが、このときに仏教やバラモン教の影響を受けたことは十分に考えられる。

 マーニーはバビロニアに戻り、シャープフル一世(在位240〜272)の弟ぺーローズを改宗させた。それがきっかけで王宮に呼ばれ、「シャープフラガーン」という預言書を提出し、王から寵愛されるようになった。このあと「生ける福音書」「いのちの宝」「プラグマティア」「秘儀の書」「巨人の書」「書簡」などの七巻の教義書(ほとんど題名のみ知られるが、トルファン文書の断片などから一部は復元された)のほか、「讃美歌と祈祷集」「宇宙図と注釈」を著したという。また弟子たちによって「ケファライア(講話集)」が編纂された。

 仏教経典や聖書が弟子や使徒によって書かれた、あるいは(言葉を)書き写したのにたいし、マーニーはみずから教義を記し、伝教しようとしたのは特筆すべきことだろう。しかも各言語で明示し、辺境の国々まで広まることを望んでいる。またマーニーはブッダ、ゾロアスター、イエスにつづく使者としておのれをとらえていた。さまざまな点でマーニーのアイデアは斬新であり、一種の宗教革命を起したといえるだろう。

 マーニーは高弟をローマ帝国に送り、布教させ、成功を収めた。ディオクレティアヌス帝からカトリックなどとともに弾圧を受けたものの、その後も布教活動はうまくいき、北アフリカにまで教えを広めることができた。しかし国内ではゾロアスター教勢力の抵抗にあうなかでシャープフル一世が没し(272年)、後ろ盾をなくしたマーニーは投獄されるはめになった。そして26日後の277年2月24日に獄死した。連体はふたつに裂かれ、首は門に吊るされたという。

 サーサーン朝およびゾロアスター教は、マーニーの勢いに恐れをなしたからこそマーニーを死に至らしめ、また死後も禁令を発布したのである。しかしその死によってマニ教は奇妙な展開をみせることになる。マーニーは自らの殉教を予想していたのか、多くの教義書を著したほか、教団組織(註18)を組み立て、教団の確立と発展のお膳立てを整えていた。その結果、ベルシア内では勢いを失ってしまうものの国外に活路を見出し、西方はガリアやスペイン、東方は中央アジアから中国へと伝播していったのである。

 とりわけ中国東岸の福建では長く生き延び、14世紀初頭までその活動を確認することができる。「夷堅志」に書かれた喫菜事魔とはマニ教のことだったのである。「摩尼光仏教法儀略」「下部讃」「摩尼教残経」などのマニ経典は、根本義を二宗三際と表現している。二宗とは明暗の二原理、三際とは原初、中間、終末のことであり、宗義はほぼ原型のまま伝えられたと考えられる。清代に入ると、福建のマニ教は次第に秘密結社化していき、解放(1949年)前まで存続したともいわれるが、その実態はあきらかになっていない。(註19

 マニ教の神話はゾロアスター教の系譜につらなる光と闇の神話である。『フィーリスト(学術書日録)』の冒頭部分は宇宙開聞からはじまる。(註20

 マ二は教えている……世界の太初を成すのは二つのもの(本質)、すなわち光と闇である。この両者は互いに分れている。その光は第一の大いなる栄光の存在であって、いかなる数による限定も受けず、神そのもの、光の楽園の王である。彼は、柔和と知識と理知と奥義と洞察の五つの分身註21から成り、さらに、愛と信仰と誠実と高潔と知恵という五つの霊的属性から成る。

マ二がさらに主張するところでは、この光の神はこれらの属性とともに、初めを持たない存在である。この神と同時に初めなきものがさらに二つあって、その一つは大気の圏(光のエーテル)、もう一つは大地である。マ二はこれに付け加えて言う、その大気の圏は柔和と知識と理知と奥義と洞察という五つの分肢を持ち、大地は低層の空気の流れ、風、光、水、そして火という分肢を持つ。闇はこれと別の存在であり、その五つの分身は霧と火炎と熱風と毒と暗黒である。

 マ二は教えている……かの光の本質は闇の本質に直接鐘を接していて、両者の間には何の隔壁もない。光は上方と右側と左側に向かっては無窮であるが、その(下方の最も低い)部分では闇に接している。同じように闇も下方と右側と左側に向かっては無限である。

 このあとの展開は以下のごとく。

 暗黒の大地からサタンが生じる。その頭はライオン、身体は竜、翼は鳥の翼、尻尾は魚の尾鰭、足は地を遣う動物の足のごとくだった。このサタンは、イブリース(註22(ギリシア語デミウルゴスの転靴。時間の上で永遠なる者、原悪魔)という名のもとに闇から生じたあと、万物を呑み込んで、破滅を広げながら深淵に向かって下降していった。

 そのあとサタンは高い所を欲すと、光の大地(プレーローマ)はそれに気づき、洞察、知識、奥義、理知、柔和の世界を送った。

 光の楽園の王は、右手の霊、5つの世界、12の要素から原人を招喚した(生み出した)。註23原人は五大要素(大気、風、光、水、火)の神を鎧のごとくまとい、敵の領域と接する場所へ向かった。

 サタンも濃煙、炎、闇、熱風、霧という五大要素の種族をまとい、原人と立ち向かった。やがてサタンが原人にたいして勝利を収め、原人の光を呑み込むとともに監禁した。(*神的自然の一部が物質に捕らわれたことの象徴)そこで光の楽園の王はもうひとりの神を送り、サタンを打ち破った。彼は「光の友」と呼ばれた。

 それから「喜悦」と「生命の霊」が境界に至ると、奈落で原人と天使たち(五大要素)がサタンや「倣慢な押し迫る者たち」、「闇の生命」に取り囲まれているのを瞥見した。「生命の霊」が稲光のごとく大声で叫ぶと、原人は別の神になった。

 原人とサタンが闘ったとき、光の5つの部分と闇の5つの部分とが混じりあった。すなわち濃煙が静かな大気と、炎は火と、光は闇と、熱風と風は、霧は水と混じりあったのだ。(*現実世界は対立する要素が混じりあって形成されている)

 光の楽園の王はこれら混じりあったものを素材にして世界を造るよう命じた。

それは光の敵分を闇の部分から解き放つためだった。王は10の天と8つの大地を造り、一人の天使には天を支え、別の天使には大地を保つよう命じた。各天には12の門を設けた。各門の玄関に6段の階段を設け、その一段ごとに30の通路を、各通路に12の列を設けた。

 王は世界の廻りに溝をこしらえ、分離した闇を投げ込もうとした。それから世界の光を抽出して太陽と月を造った。

【評注蒐集によれば】大いなる父は求めに応じて第三の使者を呼び出した。使者は12人の処女を呼び出した。船(太陽と月)が天の真ん中に達したとき、使者は自分の姿をあらわした。それは男でもあり、女でもあった。男のアルコーン(闇の子)は女の姿を見て、女のアルコーンは男の姿を見て、情欲でいっぱいになった。その情欲のなかで彼らは呑み込んでいた光を漏らしはじめた。その漏れた光にアルコーンたちの罪も、パン生地に混じった頭髪のように、闇の大地から昇る月に混じり込んだ。(註24

 アルコーンたちと星辰の一人、押し迫る暴力、所有欲、肉欲、罪が互いに性交し、最初の人間アダムが生まれた。そして第二の性交からハヴァー(エバ)が生まれた。

 5人の天使は、神の光が汚辱のなかにあるのを見た。そこで彼らはイーサー(イエス)を送り出した。二人のアルコーンは、イーサーと付き添っていた神の二人を監視し、二人(アダムとエバ)を釈放した。

[評注蒐集によれば】イエスは彼(イエス)の魂が万物になかにあって猛獣の歯牙、象の歯牙の前に投げ出されていること、呑み込む者たちの口に呑み込まれ、吸い込む者たちのロに呑み込まれ、犬たちに食われ、すべて存在する物のなかに捕らえられ、闇の汚物のなかに繋がれていることを明かした。(註25

 アルコーンは彼の娘であるハヴアー(エバ)と寝て、その結果容貌の醜い赤い男、カインが生まれた。つぎにカインは母親と寝て、その結果白い男、ハービール(アベル)が生まれた。カインがまた母親と寝ると、二人の娘、「世界の賢女」と「所有欲の娘」が生まれた。カインは「所有欲の娘Lを要り、「世界の賢女」はハービールに与えた。「世界の賢女」は光と神の知恵から流出してきたという。その後ひとりの天使がやってきて彼女と交わり、「助けに来りませ」と「助けを与えたまえ」を産んだ。ハービールはこのことを知って怒り、母ハヴァーに告発した。カインは逆上してハービールに襲いかかり、石で脳髄を打ち砕いて殺した。そして「世界の賢女」を妻とした。

 もし死が一人の真実な者に近づくと、原人が光の神を指導的賢者として派遣する。また三人の神々と真実な者の魂に似た乙女も到来する。サタンもあらわれるが、神々によって追い払われる。神々は真実な者の手をとって月の領域へ、原人のもとへ、生ける者たちの母であるナナハのもとへ登っていき、最初に光の楽園にいたときの状態に戻る。太陽と月と光の神々が彼の身体からもろもろの力を引き出し、残りの部分は闇に属するので、奈落へと投げこまれる。

 人間の魂が分れる三つの道がある。それは真実なる者の道、真実なる者を助ける者の道、罪人の道である。

 太線は炎熱のサタンと混じりあった光を、月は寒冷のサタンと混じりあった光を賛美の柱に沿って抽出する。月はこの光を太陽に手渡し、太陽はさらに上なる賛美の世界の光に手渡す。もはや(光と闇が)分離することができなくなったとき、(大地と天を担う)天使たちが手を引き、その結果至高のものが最下層のものと混じりあい、激しく燃え盛り、光が解き放たれるまで燃え尽きることはない。この大火は1468年つづく。

 この期間のあと、闇の霊は光が解放されたことを知って意気阻喪し、用意された墓のなかに入っていく。光の楽園の王はこの世の大きさほどもある岩で墓を封鎖する。

 マニ教の創世・終末神話はこのように大胆でダイナミックな展開を見せ、しかもかなり異端的な匂いをぷんぷんと漂わせている。しかし、マニ教の特徴はそれだけでなく、形而上学的な存在論もまた人びとを魅了させ、あるいは論争を引き起こしてきたのだ。

 時代を飛んで、12、3世紀、南フランスを中心として数十万人とも数百万人ともいわれる信徒を獲得した、異端ですますにはあまりにも大きなカタリ派に目を転じてみよう。彼らはみずからも宣するように、マニ教そのものといってもいいほど、マニ教の教義に基づいていた。パウロ派(註26)、ブルガリアのボゴミール派(註27)を経由して(上述のフォルトゥナトゥスが仏シャンパーニュに逃れ、それ以来マニ教が伝承されてきたという言い伝えもあるが)、ここにマニ教が蘇ったのだ。

 カタリ派が勢力を拡大したのは、当時のカトリック教会の聖職者が聖職売買を行うなど、腐敗堕落しきっているのを目の当たりにし、人びとが幻滅させられていたところへあらわれた禁欲的な宗教だったからである。カタリ派の完徳者(パルプェ)は粗末な衣裳をまとい、托鉢しながら放浪生活を送り、祈りと瞑想に耽った。人びとの目には、その清貧さはカトリックの聖職者以上に、使徒たちの姿に近いと映ったのだ。

 上に述べたように、マニ教徒は、現世はサタンが造った(正確には光と闇の混合物から造った)悪しき世界とみなし、ひたすら悪しき肉体を離れて天に昇ることを欲していたので、カタリ派がこういう清貧生活を送るのは当然だった。

それに対抗するには、似たような生活を送るのがもっとも有効な手段だった。そこで聖ドミニクス及びドミニコ会が無所有と断食の生活を標棟し、カタリ派撲滅に尽力をそそぐ。ドミニコ会からは多くの異端審問官が輩出された。

 しかしいっこうに衰える様子のないカタリ派にたいし、教会側はついに1209年、アルビジョア十字軍を派遣する。兵士の数は30万人ともいわれ、フランスの南北戦争とでもいうべき大戦乱となった。しかし、最終的には1244年、難攻不落のモンセギュール要塞の陥落で幕を閉じた。これ以降二元論は欧州の表舞台から姿を消す。

 カタリ派はフォルトゥナトゥスの伝統を受け継ぎ、聖書を多用した。彼らは聖書のつぎの一フレーズにこだわった。

  万物は言(ことば)によってつくられた。言によらず無がつくられた。

これは「ヨハネによる福音書」(1章3節)のカタリ派のラテン語からオツク語への翻訳である。(註28) 日本聖書協会発行の聖書の訳では、つぎのようになる。

  すべてのものは言(ことば)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(言)によらないものはなかった。

 そう、これは四世紀後半のアウグスティヌスとマニ教徒フォルトウナトクスとのあいだの論争の再燃なのだ。

一見するとカタリ派の解釈はこじつけのようにおもえる。しかし無(nihil)は副詞であるとともに、名詞でもあり、アウグスティヌスもしばしば名詞として用いていた、とネッリは言う。「何も作らない」ではなく、「無を作る」というふうに。このほか聖書では「コリント人への第一の手紙28章4節と13章2節でのみ「無」と訳されるが、他のすべては「……でない」と副詞として訳されている。

 カタリ派の解釈によって、「無」が存在感をもつようになる。ひとたび存在と非・存在という二元対立を認めてしまうと、悪も実体化してしまう。唯一の神が万物を造ったとするなら、悪をも造ったということになるではないか。

 マニ教徒がアウグスティヌスにたいして攻めたポイントもここだった。そこでアウグスティヌスは考え方の転換をはかった。

「悪は何らかの実体であるというマニ教徒に反論して、われわれはつぎのように主張しよう。悪は実体ではなく、存在性の高いものが低いもののほうへ向かう性向であると」(『セクンディヌスへの反論』)

 しかしまさにこのアウグスティヌスのことばから、カタリ派は悪しき実体という概念を借用したのではないかと、ネッリは指摘する。アウグスティヌスのいう価値の低下した実休を、歴史的にそうなったと考えるのではなく、超時間的に捉え、原理として捉えればそれでよかったのである。アウグスティヌスはマニ教徒から反・マニ教徒の側にまわったわけだが、ある意味ではことばの転換ですむようなものでもあった。

 もう一度「ヨハネによる福音書」に戻ろう。カタリ派の視点からすると、正統派の訳にも疑念がなくはない。「すべてのものは言によってできた」の一節ですむのに、なぜ「できたもののうち……」と同じ意味の一節を加えなければならなかったのだろうか。

 ネッリも言うように、「ヨハネ」にはおびただしく光ということばが登場し、「人々は光よりも闇を好んだ」(23章19節)というようなフレーズもある。また物質世界を否定する箇所も多い。なぜか「ヨハネ」は二元論的な傾向を多分にもち、そんなほのかな異端の匂いを、真正な異端派は逃さなかったのだ。青葉(ロゴス)と神を同一とするヨハネの見方は神秘思想家、たとえば近年では神智学のシュナイダーらの共感を呼んだ。

 

註16 バビロンにはゾロアスター以前に光、善を代表するベル・マルドゥク(Bel Marduk)と暗闇、死、地下を代表するネルガル(Nergal)という神がすでにあったという。(Yuri Stoyanov 2000

註17 バングエスト、ニョリ『ゾロアスター教論考』(平凡社)

註18 すべてを統括する教長(サーラール)の下に二大の教師(ハモージヤグ)、その下に72人の監督(イスパサグ)、その下に360人の長老(マヒスタグ)、その下にすべての選ばれた人(アルダワーン)というヒエラルキーを作った。アウグスティヌスはマニ教徒だった頃、「選ばれた人」 ではなく、一般信者である「聴聞者」だった。もし「選ばれた人」だったら歴史は変っていた?

註19 Lin Wushu 'On the Spreading of Manichaism in Fujian, China'

註20 大貫隆『グノーシスの神話』

註21 シェキナー。神の肢体、アイオーンとも。矢吹訳では寛容、知識、知性、不知覚、識別力の五眷族。

註22 アラビア語。ベルシア語でアーリマン。シリア語やコプト語の資料ではギリシア語の質量、ヒュレーをあてる。プラトンやアリストテレスのヒュレーとは異なり、能動的な邪悪さをもつ。

註23 グノーシスの流出原理。ベルシアでは光の神をあらわすオルムズドの名でよばれた。

註24 マニ教徒が地上で回収した光は、讃美歌に載せて月に送られる。月がそうして満ちて満月になると太陽に手渡し、欠けていく。

註25 マニ教の教理「受難のイエス」を示す。受難とは光の捕縛のこと。

註26 ユスティニアヌス帝に追放されてブルガリアに住みついたマニ教の一派。物質および物質と結びついた生活は悪であり、悪事をおこなう神が創造したと考えた。

註27 ブルガリアがビザンツ帝国の支配下にはいると一挙に帝国内に弥漫した二元論的異端宗教。修道士バシレイオスが創始。パウロ派を受け継ぎ、教義や組織はマニ教に酷似している。ボゴミール派の子孫はサラエボあたりでイスラム教徒として生き残っているという。(Paul Kriwaczek “In Search of Zarathustra”

註28 ルネ‥ネッリ『異端カタリ派の哲学』 

 

 

3

 ボン教の起源地は、シャンシュン、あるいはタジクのオルモ・ルンリン(Ol-mo -lung -ring)とされると先に述べた。しかしこれらの場所の特定は容易ではない。(註29)仏教のシャンバラに相当するものとして、ボン教徒はオルモ・ルンリンを理想郷ととらえる。

シャンシュンはティセ山(西チベットのカイラス山。タジクのティセ山という場合はベルシアの須弥山にあたるハラ山のことか)一帯の国。ボン教の伝承によれば、西はギルギット(パキスタン北部)、北はホータン(天山南路)、南はムスタン(ネパール)、東はナムツォ(チベット自治区東北部)に広がる大きな版図をもっていたという。別の伝承では、現在の四川金川まで広がっていたともいう。これらの伝承は誇張されたものとはいえ、吐蕃を建立したヤルルン王朝と競い合うだけの国力はすくなくとももっていたことを示しているだろう。歴史がしばしば勝者によって書かれるということを鑑みれば、シャンシュンが領土の広大な国であったとしても不思議ではない。しかしソンツェン・ガンポ王(7世紀)やティソン・デツェン王(8世紀)の時代の吐蕃と戦って破れ、歴史の表舞台からシャンシュンは消えていく。

 オルモ・ルンリンとシャンシュンはセットで考えられることもあるが、トンバ・シェンラブの伝記を中心とする三大経典のひとつ、「ドンディ(mDo ‘dus)」(11世紀に発見されたテルマ)(註30)ははっきりとそれらを区別し、オルモ・リン(オルモ・ルンリン)はユンドゥン・グツェグ(ティセ山)の北西方向にあると述べている。

 オルモ・ルンリンのルンリンは「長い谷」の意。オルモはそれにあたるチベット語はないが、マーティンはシャンシュン語の語彙によっても説明できないと述べている(チベット語で説明できない単語をシャンシュン語に帰してしまう傾向がチベット人にはある)。するとベルシア語か? クスネツォフはベルシア南部のエラムと関連付けようとしたが、ヘブライ語の世界を表すオラムもまた考慮にいれるべきだ、とマーティンはいう。しかしこういった語源探しは永遠に立証不能であり、徒労に終わる可能性が高いので、これ以上の深入りはやめよう。

 ボン教において仏教のカンギュル、タンギュルにあたるのが、カンギユル、カブテンである。ノルウェーのクエルネの調査によれば、それぞれ122巻、293巻を数えるという。カンギュルはまたド(仏教のスートラにあたる)、ギュ(タントラにあたる)、ブム(プラジュニヤー・パーラミターにあたる)、ゾ(ゾクチェンにあたる)に分類することができる。

 これらのうちドに含まれる「シペゾプグ(Sridpa’i mzod phug)」の宇宙開闢神話はよく知られている。カルメイの翻訳によって読んでみよう。 

 原初に五元の滓を有するナムカ・トンデン・チョスムジエ(Nam-mkha' stong-ldan phyod-sum rje)がいた。父なるティギャル・クグパ(Khri-rgyal khug-pa=シェンラ・オカル gShen-lha 'Od-dkar)はナムカ・トンデン・チョスムジェから五元の滓を掻き集め、やさしく「ハー」という声を発すると、それは風となった。

 風がすみやかに旋回しはじめ、光の輪を形作ると、そこから火が生まれた。そして風が強く吹けば吹くほど、火が熱くなった。火の熟と風の冷たさから露が生じた。露の滴の上に原子が群がった。これらは風によってかき混ぜられ、宙をさまよううちに堆積して山を形成した。世界はこのようにして父なるティギャル・クゲバ(またの名をンゴンゾク・ギャルポ)によって造られた。
 
 五元の本質から光の卵と闇の卵が生まれた。光の卵はヤクほどの大きさの立方形、闇の卵は牡牛ほどの大きさのピラミッド型だった。父なるものは光の輪で光の卵を壊した。輪と卵の衝突から光の火花が飛び散り、トルセ神('thor gsas 飛散の神)が生まれた。下方を照らす光線からはダルセ神(bdar gsas 矢の神)が生まれた。卵の中心から、ターコイズ・ブルーの髪の白い男、存在界の王、シバ・サンボ・ブムティ(Srid-pa sangs-po 'bum-khri シェンラブ・ミウォの友)が現れた。
 
(父なるティギャル・クグパの向いに)ケパ・メンブム・ナグポ(bsKal-pa med-'bum nag-po)が現れ、闇の卵を闇の領域で破壊した。黒い光が上昇し、無知と霧を生んだ。黒い光は下降し、愚鈍と狂気を生んだ。卵の中心から、黒い光の男、非・存在界の王、ムンパ・セルデン・ナグポ(Mun-pa zer-ldan nag-po)が現れた。この二柱は神と悪魔の父なるものたちだった。

 五元から露と雨が生まれ、これらは海となった。風が吹いて海の水が動くと、テントほどの大きさの泡が水面に現れた。そのなかには青い光の卵があった。それが破裂すると、ターコイズ・ブルーの女が現れた。サンボ・ブムティは女をチユチャム・ギャルモ(Chu-lcamrgyal-mo 別名サティグ・エルサン Sa-triger-sangs 原初の母なるもの、大母神、ユム・チェン yum chen)と名づけた。
 
 彼らは頭を垂れることなく、鼻を触れることなく交わったので、野生の動物や獣、鳥が生まれた。また彼らは頭を寄せ、鼻を擦ってひとつになったので、9人の兄弟と9人の姉妹が生まれた。(
註31

 このあと、さらにつづく。

 シバ・サンボ・ブムティ(以下、存在界の王とよぶ)から生まれた9兄弟、9姉妹のうち、長男から三男まではチャシ・コスム(phyva srid skos gsum)と呼ばれ、区別される。

 長男シジェ・ダンカル(Srid-rje 'Brang-dkar)の役目は、世界の継続を堅固なものにすること。長男から9人の息子(天の9神)と9人の娘(天の9女神)が生まれた。天の9神はム氏(dMu)の祖先。この氏族からシェンラブ・ミウォが生まれた。

 次男コジェ・ダンカル(sKos-rje Drang-dkar)の役目は、存在と事物に役割を割り当て、反するものに対すること、つまり病気に対する薬、人に対する悪魔など。次男からは8人の息子(地の8神)と8人の娘(地の8女神)が生まれた。

 三男チャジェ・リンカルまたはチャジェ・キェズィン(Phyva-rje Rin-dkar or Phyva -rje sKye-'dzin)の役目は、生きる物の世話をすること。三男からは4人の息子、4人の娘が生まれた。次男チャジェ・ヤラ・デドゥク(Phyva-rje Ya-bla bdal-drug)からチベット王の家系が生じた。

 (存在界の王の)四男ニェンルム・ナムカル(gNyan-rumgnam-dkar)は山神の先祖。 長女ナムチ・グンギャル(gNam-phyi gung-rgyal)は代表的な憤怒神ハグ・トゲパ(lHa rgod thog-pa)の明妃。

 次女ナムメン・カルモ(gNam-sman dkar-mo)は秘密の教えの守護者。ケサル英雄物語のなかでも重要な役をはたす。

 三女ミケン・マモ(Mi-mkhan ma-mo)と夫ズィワ・ドゥンチュル(rDzi-ba dung -phyur)から八つの家系が生じた。

 五女シェサ・ナマ(Shed-za Na-ma)は生命の女神。五女から12の家系が生じた。そのなかにはポラ・ミズィ(pho lha Mi-rdzi)マラ・ブズィ(malha Bu-rdzi)、シャンラ・デインチェン(zhang lha Drin-chen)、ダラ・ダルマ(sgra bla Dar-ma)も含まれる。この四神にソグラ・ニャムチェン(srog lha Nyams-chen)を加えてゴイ・ラ・ンガ('go yi lha lnga)と呼ばれる。

 七女チャツェ・ギャルモ(Phyva-tshe rgyal-mo)は馬、ヤク、羊、山羊、戸の神の母であり、牛、囲炉裏の女神である。

 第2章では、カタリ派が(つまりマニ教が)こだわった「ヨハネによる福音書」の冒頭部について論じた。ことば(ロゴス)によって万物が造られ、それ以外には何も造られなかったのか、それともことばによって造られた有の世界のほかに、無の世界が造られたのか。カタリ派は光と闇、明と暗、白と黒、善と悪‥‥‥のように、有と無もまた二元対立的に存在すると考えたのである。ボン教においても二元対立は顕著であり、光と闇の戦いや存在界の王と非・存在界の王との対立などもみられる。

 ボン教の原初の宇宙には、「存在」が擬人化されたものとしてナムカ・トンデン・チョスムジエが(超時間的に)現れる。それはボン・ク(bon sku)、仏教でいうところのチユ・ク(chos sku)、ダルマカーヤ(法身)である。そこに光と闇の擬人化されたティギャル・クグパとメンプム・ナグポが(超時間的に)現れる。ここに時間の観念を挿入すべきではなく、マニ教の神話のように、はじめから光と闇があった、と捉えるべきだろう。ティギャル・クグパは別名シェンラ・オカルが示すように、光り輝く神であり、活動的で、ロン・ク(longs sku)、サムボガカーヤ(報身)とみなされる。ティギャル・タグパは五元の滓を集め、悪や災難を撒き散らす破壊神メンブム・ナグポと闘う。この光と闇の戦いは、ゾロアスター教、マニ教ではおなじみのモティーフだ。そして世界を創造するが、それは生物のいない無機質世界にすぎなかった。そこでシェンラブ・ミウォは、ティギャル・クグパと光の卵から生まれるサンボ・ブムティに生けるものを造り、導くように促した。シェンラブ・ミウォはトゥル・ク(sprul sku)、ニルヴァーナカーヤ(幻身)とみなされ、ここに三身が揃ったことになる。

 マニ教やボン教では原初から二原理があったとするが、日本や中国、またナシ族の神話においては、はじめに混沌があり、それが分れて二元化(陰と陽)する点が異なっている。つまりはじめから「時間」があったのだ。

 比較のために日本書紀の冒頭を示そう。 

 古(いにしえ)に天地(あめつち)未だ割(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)のごとくして、ほのかにして牙(きざし)を含(ふふ)めり。其れ清陽(すみあきらか)なるものは、たなびきて天と為り、重濁(おもくにご)れるものは、つつゐて地と為るに及びて‥‥

 日本版宇宙開聞は日本のオリジナルとは言い難く、「准南子」からの借用とされる。ただ宇宙卵(鶏子)という概念は斬新である。「准南子・天文訓」の一節はつぎの通り。(意訳で) 

 天地がまだ形のなかった頃、混沌としたものが漂い、とらえどころがなかった。それを太始と名づける。やがて太始から茫漠たる広がりが生じ、それは字音を生じ、宇宙は気を生じた。気には清濁の区別があって、澄んだ気はたなびいて天となり、濁ってどろりとした気は凝固して大地となる。

 日本・中国タイプの神話は二元的という点においてベルシア型に近いが、出発点は二光的。また、陰と陽がベルシア型のように対立し闘争を繰り広げるのではなく、合一することをめざすことが大きなちがいだ。

 さて、ナムカ・トンデン・チョスムジェは絶対的な無ではなかった。五元の浮を有していたからである。五元とは何か?チベット人の考える五元はふつう地、水、風、火、空のことだ。これらは外的な現象であるだけでなく、身体内部の基本要素でもあり、堅固さ、流動性、動き、熱、エネルギーに相当する。これらはマニ教の五要素である光、水、風、火、大気とでは、地が光と入れ替わっている。しかしティギャル・クグパがこの五元を身につけるのは、マニ教の原人のようである。マニ教では五要素は神でもあったが、ボン教では明示されていない。また世界を創造するということにおいて、ティギャル・クグパはデミウルゴスと呼ぶこともできるだろう。

 ボン教神話では、無機質世界の段階と有生物世界のあいだに卵、すなわち宇宙卵が現れる。なぜ一方が立方形で、もう一方がピラミッド形なのかはよくわからない。立方形、ピラミッド形(角錐形)の卵という概念は我々には馴染みがなく、バビロニアやエジプトあたりの影響があるのだろうか。普通の卵をイメージした宇宙卵なら、世界中至る所に見出すことができるだろう。(南方系説とヨーロッパ起源説があるという)

 日本書紀にも前述のように卵(鶏子)が出てくる。日本神話に宇宙卵が存在するのは灯台もと暗しという感がしないでもない。

 エリアーデはつぎのように述べる。「宇宙創世の卵というモティーフが共通にみられるのは、古代インド、インドネシア、イラン、ギリシア、フェニキア、ラトヴイア、エストニア、フィンランド、西アフリカのバングウエ族、中央アメリカ、それに南アメリカの西海岸などである。この神話が伝播していく起点は、おそらくインドかインドネシアに求むべきだろう」(註32

 キャンベルもまた宇宙卵のイメージがギリシア(オルフェウス)、エジプト、フィンランド、仏教、日本の神話に現れると述べたあと、ヒンドゥーの『チャンドグヤ・ウパニシャド』を引用する。「初め、この世界には何もなかった。やがて存在が現れた。それは成長し、卵になった。およそ一年間置かれていた。それからまっぷたつに裂けた。片方の穀は銀色、もう片方は金色だった。銀色の殻は大地になり、金色の殻は空になった。中味の外側(自身)は山々になった。内側(黄身)は雲と霧になった……」。(註33

 ボン教の卵生モティーフの起源を遠くに求めなくても、チベット人がつねに顔を向けていたインドにあったのだ。しかしもっと近く、ヒマラヤにも卵生神話が分布しているという。ヒマラヤのチベット系民族(とくにタマン族)は儀式のときに卵を用いる。これは再生のシンボルであるだけでなく、宇宙創世そのものを表しているのだ。

エリアーデは言う。「卵の力は、卵に具現している象徴において根拠づけられる。その象徴は誕生により、宇宙創世的範型にしたがってくりかえされる再=生に結びついている」「卵は原初の行為、つまり創造のくりかえしの可能性を保証するものである」

 ボン教の宇宙卵の起源がヒマラヤかインド、ベルシアか断定するには至らないが、知りうる限りでは、マニ教にこのモティーフがあったとは思えない。

 さて補足として、グノーシス主義のバシリデース派の世界種子について述べたい。ヒッポリュトスの『全異端反駁』から知れるバシリデースの教説は以下の通りである。(註34

 世界の種子は自らの内にすべてを持っている。ちょうど芥子の種がすべてを一緒に混ぜ合わせて、きわめて小さな中に包括してもっているのと同様である。つまり芥子種は根、幹、枝、葉の他に、その木から生まれる数えきれない量の他の新たな種子を自分の中に持っており、その実った種がさらにまた他の木の種子となるというように度重なって行く、その可能性をすべて持っているのと同様である。

 絶対的な無としての存在しない神(原初の状態)から発生する世界種子は、宇宙卵と言い換えてもいいだろう。それは一種の可能体なのである。世界種子の概念はヒンドゥーにもみられ、ムーラプラキリティとよばれる。また現在のビッグバン理論の特異点もいわば世界種子といえるだろう。

註30 最近ではダン・マーティンの詳しい分析が参考になる。Dan Martin "Ol-mo ring, the Original Holy Place" 1999

註31 他の二つは、「シブジ(gZi brjid(14世紀)」と「セルミク(gZer mig)」(11世紀)。

註32 註9と同じ。

註33 『エリアーデ著作集3 聖なる時間と空間』

註34 ジョセフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』。またWillis Barnstone "The Other Bible" (2005)
   

 

 

4

 マニ教やボン教の神話と同様、トンバ教の「白と黒の戦争」も見事なシンメトリー構造をなしているが、あとで述べるように頻繁に(せっかくの構造を台無しにしてしまうような)破綻がみられる。それはおそらくボン教の教義とともに入ってきた壮大な象徴の神話が、次第に土俗化していき、本来の意味が見失われてしまったためとおもわれる。

たとえば黒側の美女が白い柔肌を見せて誘惑する場面があるが、これなどは話の展開を面白くするためにシンメトリー構造を壊してしまったのだろう。もっとも白い肌は偽りで、その下は黒肌かもしれないが。

 白と黒の対立を主題として描いたのはこの経典だけだが、そのエッセンスは前述の「人類遷移記」などさまざまな所に現れる。中国的な陰と陽の二元的アイデアはすでにナシ族に入り、浸透していたので、白と黒の二元はすんなりと受け容れられただろう。註35

 「白と黒の戦争(ドゥ・ア・ス・ア)」は「ト・ク」とよばれる鬼やらい儀礼のときによむ91の経典のうちの二つ(上下巻)である。この儀礼は治病のときに執り行なわれることが多い。近代医学にはメディテーション療法と呼ばれるものがある。これはたとえば癌患者が、白い細胞が癌細胞を見つけ出し破壊する光景を想念のなかで描き出し、現実的な効果を導き出そうというもの。科学という衣を着ているか着ていないかの違いだけで、実質的にはほとんど変わらない。 (Philip Kapleau “The Wheel of Life and Death” 1989) 

 さて物語はこれから現れるものがまだ現われていない、起こることが起こっていないという未然形からはじまる。ポテンシャルを世界のはじめとするのは、バシリデースの世界種子を想起させる。


 太古の昔、天も地もまだなく、太陽も月もなく、星も星宿もなかった頃、山も谷もなく、木も石もなく、水も川もなかった頃、ジュナララ神山はなく、ハイバダ神樹もなく、ツエツエハルメ神石もなく、ムルダジ神海もなかった頃、ドゥ部族もス部族もなく、ジ族もツオ族もなかった頃、シユ竜王もこ竜王もなく、ハイバダ神樹もまだ葉が生えず、ドゥ部族とス部族の争いもなかった頃、戦死も死後の弔いもなく、刀や鎧兜の災いもなかった頃、白銀も黄金もなかった頃、クザナム(ムルスズの妻)がまだ酒を飲んだり飯を食べたりしていない頃。

 ジュナララ神山は須弥山(スメール山)にあたる宇宙の中心に聳える山のことと思われる。四川南部の山とみる説もあるが、神話のなかでは象徴的な存在。儀礼では鉄農具(犂の先)をこの神山に見立てる。

 ハイバダ神樹は宇宙樹、世界樹。白の世界と黒の世界の境界にある。 

 はじめに上方から原初の声が、下方から原初の気が現れ、混じりあって変化(プワ)し、白い露ができた。白い露が変化し、木、火、鉄、水、土の五要素が出現した。五要素は変化し、五つの白い雲と白い風が現れた。白い雲と白い風は変化し、白卵、緑卵、黒卵、黄卵、赤卵が現れた。それらからは何も僻化しなかった。

 そこで天と地の間で白い雲と白い風がやってきて孵化させた。

 上が声、下が気というのはわかりにくい。声は音であり、波長を意味し、気は粒子であり、エーテルのようなものか。中国的概念では、混沌が清濁などのふたつに分れるのであって、このようにふたつのものが交じるのではない。ナシ族の原初世界はきわめて二元的なのだ。

 五要素は中国的ともチベット的ともいえるだろう。マニ教とも中味はちがうが五要素という点ではおなじ。

 「変化」、プワはチベット語の変化を表すトゥルワ(sPrul ba)と同根だろう。転生ラマをトウルク(変化した御体)とよぶように、たんなる変化ではなく、ある状態から別の状態へ、エッセンスは変わらず、表層だげがらりと変わるのだ。プラトン主義の「流出」と近いものがあるかもしれない。

 まず白い卵が変化し、パ神の白い天と白い地、白い太陽と白い月、白い星と白い星宿、白い山と白い谷、白い樹と白い石、白い水と白い川、白いゾ(牛とヤクの中間種)と白いヤク、白い馬と白い牛、白い山羊と白い綿羊が現れた。何千何万ものパ神の男女の子が現れた。パ神は九人の男の子を育て、九つの村を建てた。パ神は九人の女の子を育て、九つの地方を拓いた。

  白い卵が変化し、サ神の白い天と白い地が……(このあとは前段と同じ)。

  白い卵が変化し、へ神の白い天と白い地が……

  緑の卵が変化し、ガ神の緑の天と緑の地が…

  黄の卵が変化し、シュ竜王の黄の天と地が……

  赤の卵が変化し、ツェ鬼の赤い天と地が……

  黒の卵が変化し、ス部族の黒い天と地が(…‥・)白と黒の接する境界(パナルカツ)が現れた。何千何万ものス部族の男女の子が現れた。ムルスズは九人の男の子を育て、九つの村を建てた。ムルスズは九人の女の子を育て、九つの地方を拓いた。

  もともと神も鬼も長寿だった。ドゥ部落もス部落も長寿だった。ドゥ部落とス部落の間に争いはなかった。戦争も殺人もなかった。戦死も死後の弔いもなかった。

 二元対立と五要素(中国的言い回しなら陰陽五行)を矛盾なく入れ込むために苦労したあとがうかがわれる。おそらく神話の原型は二元対立と五要素で五つの色はなく、それにチベット・中国的な五色が入ったのだろう。

 「パ」は神名であり、白色の意でもある。チベット語の吉祥を表すパー(dPal)と関連があるかもしれない。チベット族の神ともいう。開天神。

 「サ」は開地神。自族の神ともいう。

 「へ」は神の総称。

 「ガ」は戦神、勝利神。

 「シュ」は竜、ナーガなどと訳されるが、それらとはややちがう。山、谷、川などに棲み、自然や動物を管轄する。人類とは同父異母の関係。

 「ツェ」は鬼怪類の総称。

 もともと神・鬼・人も長寿だったが、「汚れ」によって短命になったというのは説話のひとつのパターン。

 はじめ上方に原初の声が現れ、下方に原初の気が現れた。声と気は変化して一滴の白い露になった。白い露は変化して三滴の白い露になった。三滴の白い露は変化してドゥ神の白い海になった。白い海から頭髪のような樹木が生えてきた。この神樹は神の地と鬼の地の境界にあった。神も鬼も神樹を手に入れようとして近づいてきた。ドゥ部族もス部族もやってきた。夜更けにス部族の頭目がやってきて神樹を切ることを話し合った。朝方ドゥ部落の頭目がやってきて神樹を 育てることを話し合った。神樹には金花、銀花が咲き、トルコ石の実がなっていたので、ドゥ部落もス部落もやってきて見とれた。双方ともわれらこそが神樹を保護しようと申し出た。ドゥ部落とス部落の間に神樹をめぐる争奪の戦いがはじ まった。これによって戦火が生まれ、死や弔いが起こった。部族間の戦いの歴史のはじまりである。(……)

 「神樹は神の地と鬼の地の境界」は前述のとおり。鬼は誤解を招きやすい語だが、ためしに魔と置き換えてみるといい。すると以下の筋はゾロアスター教やマニ教の創世神話と酷似していることがわかるだろう。

 ドゥ部族が神樹を育てたいと考え、ス部族は伐りたいと考える。建設者と破壊者という二項対立はきわめてベルシア神話的。 

  ジュナララ神山の頂の左側から金色の太陽が昇り、右側に回った。右側から銀 色の月が昇り、左側に回った。太陽と月は晦日に会った。そして朔日に別れた。一年の12ケ月はここにはじまった。(ムルダジ神海に生えた)ハイバダ神樹は12枚の葉をつけ、天地12年周期で回った。(……)

 はじめに上方から原初の声が現れ、下方から原初の気が現れた。声と気が変 化してきらめく緑色の光が現れた。緑色の光が変化して輝く白色の天地が現れた。白色の天地が変化してよき声とよき気が現れた。
 よき声とよき気が変化(プワ)してイグアコ神が現れた。イグアコ神が変化してサイウァテ神が現れた。サイウァテ神が変化してムルドゥズ神が現れた。ムルドゥズ神が変化してドゥ神の海が現れた。
 

 神々のヒエラルキーのトップ3がイグアコ、サイウァテ、ムルドゥズであることがわかる。これらの神から神への変化はまさに「流出」といえるだろう。ただし「流出」といえるには、絶対的な神の存在が必要となるが。この場合、絶対的な神は原初の声と原初の気、いいかえれば絶対的な二元対立となる。

  朝早く、ムルドゥズ神は白色の海の浜辺に来て手を洗った。そのとき海面に映る自分の面影を見ながら、「昼間は話し相手になり、夜は身体を貼りつけあう伴倍が、互いに助け合い、高原でともに放牧するような伴侶が必要だ」と考えた。そう思いながらこぼれおちてきた涙に金銀を捏ねあわせて、白色の海に注いだ。二日後の朝、白色の海のなかに緑色にきらめく女がいた。しかしだれも名づけようとしなかったので、ムルドゥズ神みずからがツツジムと名づけた。昼は話し相手となり、夜は寝床を伴にし、高原に行って綿羊を放牧するなど、よき伴侶となった。ふたりは一家をなし、ドゥゾアルが生まれた。……)

 「こぼれおちてきた涙に金銀を……」は少々わかりにくい。原文は「白い肉を出し、白い涙を出し、銀と金を捏ねて白いドゥ海に落ちるのを見る」で、あるいは白い肉というのは精液のことではないだろうか。イグアコやサイウァテは独り神、あるいは両性具有神であり、対の神がはじまるためには何かきっかけがなくてはならない。

 はじめ上方に原初の声が現れ、下方に原初の気が現れた。声と気が変化して輝く黒い光が現れた。黒い光は変化して塩蝮とした黒い天地が現れた。黒い天地は変化して悪しき声と悪しき気になった。悪しき声と悪しき気は変化してイグティナ鬼になった。イグティナ鬼は変化してミマサテ鬼になった。ミマサテ鬼は変化してムルスズ鬼になった。ムルスズ鬼は変化して黒い海になった。その黒い海から輝く黒い女が現れた。だれも名をつけようとしなかったので、みずからクザナムと名づけた。ムルスズ鬼は昼は話し相手となり、夜は寝床を伴にし、互いに助け合い、放牧に出た。ふたりは一家をなし、アセミウァが生まれた。……)

 マニ教文献にも「闇の光」という表現がみられる。「黒い光」は「闇のなかの光」ではなく、文字通り「黒色の光」なのである。ネガとポジのように、頭のなかで反転してみなければならない。

 黒が悪に変化している。話の展開でどちらが恵でどちらが善かわからなくなるが、あくまで黒が恵なのだ。

 前述のように、鬼は魔に置き換えられる。そして二元対立的に、イグアコ神V Sイグティナ魔、サイウァテ神V Sミマサテ魔、ムルドゥズ神V Sムルスズ魔と並べることができる。

  かつてドゥ部族は地の頭(一方の端)に住み、ス部族は尾(もう一方の端)に住んでいたので、白黒(互いのこと)を知らなかった。飛ぶ鳥も来ない頃。何ということか、ドゥ部落は白い鼠を飼い、何ということか、ス族は穴熊を飼っていた。神山の左側はス族の地、右側はドゥ族の地だった。神山の右側からドゥ族の白鼠が穴を掘りはじめ、左側からス族の穴熊が穴を掘りはじめた。(穴が貢通して)ドゥ部落の太陽光が辞を通るようにして抜け、シュ部落を照射した。突然腸光を浴びたため、目が見えなくなり、道も橋もわからなくなった。ス部族はドゥ部族の太陽と月を盗もうと策略をめぐらした。アセミウァが盗むべくドゥ地にやってきた。ドゥ地とス地の交わる丘の上で、ドゥゾアルと会う。

 ドゥ部族(白)とス部族(黒)の位置関係が明らかになる。ここでは上下ははっきりせず、おそらく大地は亀のようなもので、この亀は南を向いている。だから南側のドゥ地に陽光があたるのだ。しかしドゥ部落は天に近いという設定になっているので、やはりドゥ地が上、ス地が下ということになる。

 ス部族が太陽と月のある明るい世界があることを知り、それを盗もうと欲するというモティーフはきわめて重要だ。マニ教神話においても、光明世界の存在を知ったサタンがそれを欲し、攻撃をしかけてくるのだ。

 ふたりはマントを脱いで地面に敷き、サイコロ・ゲームをはじめる。両者とも勝ちを主張するが、実際はドゥゾアルが勝っていた。ドゥゾアルは天地などすべてが白色であることを、アセミウァはすべてが黒色であることを説明し、アセミウァは(羨ましく思って)ドゥゾアルに、金銀、トルコ石などの宝石を贈るので、ス地に来て(白色の)天地を拓いてくれ、と頼む。ドゥゾアルは請け合ってしまう。

 勝負の往生際が悪いという意味で、アセミウァが悪、いっぽうのドゥゾアルが善というふうにみえる。アセミウァが光明(白)を欲するのはマニ教神話的。

 ドゥゾアルは帰宅し、昼間起きたことを親に話す。母ツツジムは、ドゥゾアルが生まれたとき、左腕に三本の非命の紋様が、脚の上に三本の汚撥の紋様があったと告げ(このあとの運命の予兆?)、ス地に行くのを思いとどまるよう説得する。父ムルドゥズもまた、神と鬼はおなじではない、と言ってとどめたあと、もし行くのであったら、ス地の天地を斜めにせよ、山に植物を植えるな、谷に水を流すな、太陽と月を置くな、そしてス人が担いでいる金、銀、トルコ石、宝石を盗ってこい、白と黒の接する所(パナルカツ)にもどってきたら、銅の塊と鉄の塊を置き、その下に銅の棒、鉄の棒を挿せ、そうしたらドゥ地に帰ってきたらいい。ドゥゾアルはまさにそのとおりにして、ドゥ地にもどってきた。

 父ムルドゥズの指示はどう考えても正義とは言い難い。マニ教神話では悪が戦争を仕掛けるが、ここでは善(白) が仕掛けることになってしまう。それとも、白はつねに善であり、悪を懲らしめること自体が善なる行為ということになるのだろうか。

 「白と黒の接する所」は「現世と他界の境界」であり、マニ教神話においても重要なシンボルとなっている。

 三日後の朝、ス部族のアセミウァは白鉄の矛をもち、鉄頭の黒犬をつれて、ドゥゾアルのあとを追い、白と黒の接する所に至る。そこで銅の塊、鉄の塊の上を滑り落ち、銅の棒、鉄の棒に突き刺さって死んだ。

 黒の部族なのに白い鉄の矛をもつ。こういう不徹底さは随所にみられる。原型となる物語があり、トンバが伝承するあいだに変容したのだろうか。

 ドゥ部族は勝利の角笛を作るため、死体から頭と骨を切り取ろうとしたができなかった。神に供蟻として捧げるため、死体から心臓と肉を切り取ろうとしたができなかった。汚れをなくすため、死体から血を取ろうとしたができなかった。ムルドゥズは死体を黒い土に埋めさせ、黒土の上に糠を撒き、その上に水路を造り、水路に水を流した。ス部族の人や犬に見つからないようにと考えたのだ。しかし結局、穴熊と鷹がス部族の所へ行き、ムルスズ、クザナム、ナツゾブにアセミウァの死を知らせた。

 俊英な息子の死を聞いて、ムルスズは食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだ。そして復讐を誓い、ス兵、ドゥ兵、ツ工兵を召集し、ミマセテ、ナッツオブと話し合って出兵を決めた。三本の杉を伐って千万の矛を作り、三本の杜弘樹を伐って千万の刀を作り、三本の竹を伐って千万の矢を作った。ヤクを殺し、その角から弓を作った。ミマセテの心と気が変化すると、天上から九つの白い鉄鉱石が落ちてきた。鉄匠ラブクズが鉄を打つと、火花は鷹が舞うようだった。ミマセテの 心と気が変化すると、炭のように真っ黒な鶏が現れた。鶏の羽根から千万の矢が現れた。ス部落の兵馬はジュナララ神山が崩れ落ちるかのような大軍隊となった。

 ス、ドゥ、ツェも鬼(魔)。これらが現実世界において病気や災いを起こすので、退治しなくてはならない。ス鬼(発音はシュ。竜に似た山神王シュと発音が異なるが、カタカナにすると同じになるので、区別するためにスと表記)は仇鬼の意。黒い尾のついた人型で表され、西欧の悪魔のよう。ドゥ鬼は黒いとんがり頭で表される。ツェ鬼はわい鬼の意。

 ムルドゥズは悪い夢を見た。ドゥ部落が焼け落ちる夢を。ツツジムもまた悪い夢を見た。ドゥ部落が臭気に満ち、女はすべて殺さる夢を。夢のなかに黒いヤク、黒い豹、黒い虎、黒い鶴、黒い鷹……などが現れた。ムルドゥズは偵察すべく白い風と白い雲を派遣するが黒い風と黒い雲に撃退され、偵察隊を派遣すると蜂で目を攻撃され、白い鶴と白い鹿を派遣すると黒い鳥に阻止され……と、動きを封じられてしまった。

 ムルドゥズは言う、わが父は天族(ムツ)である、叔父も天にいる、山を上って(天上へ)行こう。ドゥゾアルは言う、わが母は海族(フツ)である、白い海にもぐって(海のなかへ)行こう。

 ムルドゥズが天孫であることがはっきりと示される。興味深いのは母方が海人であることだ。日本の海事山車伝説が想起されるだろう。またボン教神話において天の九神からム氏が生まれ、シェンラブ・ミウォが出たというのは注目される。チベット・ビルマ系諸語では天を表す語はチベット語などのナムよりも、ムのほうが一般的。ム氏も天と関わり深いことが名前に現われている。

 三日日朝、千万のス部族の大軍がドゥ地に辿りついた。しかしそこにはドゥ部族の兵馬は見当らず、ツツジムがいるだけだった。ムルドゥズはどこかと問われてツツジムは山の上を指差すだけ、ドゥゾアルはどこかと問われて白い海のほうをじっと見るだけ。

 ス部族の大軍が茫然としているとき、ムルスズの娘マタクザナムは自らドゥゾアルを誘惑しましょう、と申し出て、大軍はス地にもどるように言った。

 マタクザナムは白い海の浜辺へ行き、髪を梳りながら恋の歌を唄った。「すべての猟犬が獲物を追うように、男は女に恋するもの。ここにもうス部落の兵烏はいない(ので安心してください)。白鷹に変身して大空高く三度舞ってくださいな」。

ドゥゾアルは海のなかで歌を聴き、もどかしい気持ちになった。翌日、陽光の降りそそぐ白い海の浜辺でマタクザナムは髪を填る。手を洗うとき、真っ白な乳 房があらわになっている。脚を洗うとき、真っ白な太腹があらわになっている。

 そして唄う、「すべての猟犬が獲物を追うように、男は女に恋するもの……」。抑えきれず、ドゥゾアルの魂(ラ)は変身して白い鷹になった。マタクザナムの塊(へ)は変化して黒い鷹になった。彼らは天高く舞い上がり、奔放に交じった。太陽が沈む頃、ドゥゾアルは海にもどった。翌日は白と黒の虎に、つぎの日は白と黒のヤクに変身して愛を交わした。その夜は海にもどらず、ふたりは夫婦になった。

 ふたりが交わる場面は、経典ではほとんど猥褒画のように赤裸々に描かれる。私が知っているトンバたちはこんな直接的な描写は避けるようにしているので、これが一般的とは言い難い。それとも(私の推測だが)この経典は結婚式のときによまれることもあったのだろうか。

 マタクザナムは、ここでは開天闢地(ムトゥディク)ができないから違う場所に行きましょう、と言う。そこでは天はトルコ石のような藍色で、地は黄金の色。石には金の花が咲き、銀の犬が吠え、金の鶏が鳴くようなそんな素敵な所だという。ドゥゾアルは三代の先祖からも巫師からもドゥ地以外にそんな場所があるなんて聞いたことがない、と懐疑的。マタクザナムはその場所を目の前に出して見せる。トルコ石のような天、黄金のような地、樹上の銀花、石の下の金花……。マタクザナムは「さあ、銀の角の生えた白鹿、金の宜の生えた牛のいる所へ行って開天開地しましょう」と誘う。ドゥゾアルはなお懐疑的だ。彼女はまた「向こうには木が走り、岩がしゃべる所があるの」と言う。ほんとうにそういう場所を見せられたので、ついにドゥゾアルは三代の先祖の言うことが間違いで、彼女の言うことが正しいのだと考えるようになった。こうして罠にはまったドゥゾアルは ス地に、火鬼(ミ)の地に、汚れの地におびき寄せられたのだ。

 開天閑地というからには、彼らは人類の始祖という位置にあるのだろう。父ムルドゥズは神(祖先神)であり、人類の要素もあわせもっている。トンバの守護神でもある。

 すぐさまムルスズ、ミマセテ、ナツゾブ、クトゥタヤは話し合って、手の早い鬼(ツ)、走るのが速い鬼、力持ちの鬼、よく飛べる鬼、よく跳べる鬼、ドゥ兵、ツェ兵、ス兵を派遣した。ドゥゾアルは首根っこを捕まれてムルスズの面前に連れてこられた。ムルスズはドゥゾアルにびんたを三度打った。

 ドゥゾアルは厳しい拷問を受けるが、三年、三月、三日の間に、マタクザナムと交じって、白鉄白銅の窓の下で一男一女が生まれた。男の子はドゥゾハパ、女の子はスミサチャといった。

 神と鬼(魔)から人類は生まれた。マニ教神話において光と闇の混交から人類が生まれたのとよく似ている。マニ教はそこから闇をもつ肉体を忌避し、霊が光を求めるという教義を発展させていくが、ナシ族はそこまで哲学的な方向には進んでいない。深読みをすれば、ふたりの子供とも神と魔のハーフだが、女の子は母親に似るぶん魔性を強くもっていることになるのだろうか。

 マタクザナムがドゥゾアルに、ここでは開天開地ができない、牧羊の伴侶となれない、と嘆いているのを見たナイセトゥは、心を打たれた。彼はミマセテのもとに進み出て、仇も囚われて長くなるので、逃がしてやったらどうかと提言した。ムルスズとミマセテはそれも道理と思い、ドゥゾアルを面前に連れてこさせた。しかしドゥゾアルは、「殺すなら殺せ、殺さないなら帰ろうぞーこと言った。ムルスズらは協議のうえ、ドゥゾアルを黒い海の海岸に連行して殺すことにした。

 マタクザナムは、ドゥゾアルが殺されると聞いて、(顔がきれいだから)顔を血で汚さないで、鍬で首を軸ねないで、心臓を矛で乗かないで、と嘆願したが、鬼たちは矛で心臓を突き、ナツゾプは鍬で首を幼ね、クトゥタヤは矛で肋間を刺し、ナイセトゥは矢を首に射た。ドゥゾアルの死体は鳥に突っつかれ、蟻にたかられ、血は蝶に飲まれ、脳はドゥ鬼に食われ、肉はツエ鬼に食われ、骨は鬼たちにしゃぶられた。彼らは骨から勝利の笛を件り、心巌や肉を神に捧げ、復讐をとげたことを祝した。

 儀礼的殺人という慣習がかつてあったのかもしれない。ワ族やナガ族は近年までおこなっていた。

 ムルスズはドゥゾアルのふたりの遺児にどちらにつくか尋ねた。ドゥゾハパは父方のドゥ部族に、スミサチャは母方のス部族につくとこたえた。

 さてドゥ部落は何も知らずずっとドゥゾアルの行方を捜していた。消息がようやくわかったのは、遺兜のドゥゾハパによってであった。殺されたときの状況をつぶさに聞いて、ムルドゥズとツツジムは深い悲しみにとらわれた。

サイウァテ、ウァツファム、ムルドゥズ、ツツジム、イシュブゾの五人は協議して、ドゥゾアルの仇を討つことを決めた。ムルドゥズはパ兵、サ兵、ガ兵、ウ兵といった千万の神兵を派遣した。ムルドゥズとサイウァテが変化すると、天上から白い鉄鉱石が落ちてきた。鉄匠ガウァラドゥアはそれを鍛えて矛と矢、鎧兜を作った。ドゥ兵たちは杉から矛、杜鵠樹から刀、真竹から諌胸甲、白ヤクから弓、白鶏から弓の羽根などを作った。ドゥ部族の祭司イシュブゾはヤクと綿羊、酒と飯、肥肉と痩肉、杜松の香とバターを供蟻としてパ神とサ神、ガ神とり神、オ神とへ神に捧げた。

その頃ムルスズは村が焼き尽くされる夢を見た。クザナムもまた悪臭が漂う夢を見た。ムルスズとミマセテは協議して、千万の精兵で敵の襲来に備えることにした。81のス兵を村に潜伏させ、将軍チュティダニャと鉄頭の黒犬に村門を守らせた。白と黒の交わる所の最初の坂道には黒竜を、第二坂に黒虎を、第三坂に黒蛙を、第四坂にツェ鬼の赤目の射手を、第五坂に鉄頚黒犬を、第六坂には(積んだ白石のところに)ス兵を、第七坂に甲と刀で装備したス兵を、第八坂に黒角のヤクを、第九坂にドゥ鬼を配置した。また兼に九つの鬼村(木、黒虎)、南に九つの鬼村(火、黒竜)、西に九つの鬼村(鉄、黒熊)、北に九つの鬼村(水、黒犬)を建て、各鉄門を神将といえども破ることはできないはずだった。そのほか、鹿頭のタ鬼、牛頭のトゥ鬼、綿羊頭のム鬼り鬼、ゾ牛頭のブ鬼、山羊頭のツエ鬼、ヤク頭のドゥ鬼、犬頭のア鬼、鶏頭のタラ鬼、魚頭のス鬼、蛙頭のツア鬼などの勇将を備えた。

 さしものムルドゥズの千八百の軍隊も大敗を喫し、白石さえ黒石に変わった。そこで祭司イシュブゾに儀式を執り行なってもらった。イシュブゾは緑の杜松で祭壇を作り、白い敷物を神座に広げた。白米を撒き、金、白銀、トルコ石、宝石を捧げた。九つの木を伐ってパトゥ(木偶)を作り、育種の穀物を塊いてトルマ(面偶)を作り、これらをト鬼、ド鬼の地方へ、九つのス鬼の地方へむけて触った。それから白い松を伐り、チ鬼の大門を建て、手を展げた木偶と九つの仇の木偶を仇の地方へむけて軸った。するとそれらは黒豹・黒虎、黒熊・黒滝、黒鹿の姿で仇の地に突入した。

 祭司(プ)はトンバのことだが、プはボンの転化(ナシ語は語末鼻音が消える)ではないかと思われる。経典に書かれてある儀式は実際に行なっていたはずである。これがボン教の儀礼である可能性は高いが、もちろん確証はない。

 東西南北の鬼村には、東方鬼主、西方鬼主、南方鬼主、北方鬼主がいる。

 ムルドゥズ、サイウァテ、イシュプゾは協議した。もしイァマ神の力がなければス部族を打ち負かすことはできない。ムルドゥズは、シャグ(ガルーダ)に騎ったヘイジバパ(白蝙蝠)と白馬に騎った使者ラブラサを360のイァマ神のところへ派遣した。イァマ神が降臨すると、ムルドゥズはヤクと綿羊、酒と飯、肥肉と痩肉、杜松の香とバターを供えた。

 イァマ神はボン教のクエルマと同一で、鬼を鎮め、退散させる護法戦神。獅子頭の鳥として描かれることが多い。

 ヘイジパパは天と地のあいだを行き来するメッセンジャーとして頻繁に登場する。霊媒的な存在だともいえる。

 ガルーダはヒンドゥー教ではヴイシユヌ神の乗り物として知られる(するとへイジパパはヴイシユヌ?)。チベット仏教でもボン教でも人気のある神格。

 ムルドゥズはパ兵とサ兵、ガ兵とり兵、オ兵とへ兵を先陣としてイァマ神の前を行かせ、後ろには白鉄の斧をもち、千万の兵を率いた鶏頭の白猿将軍をつづかせた。ドゥ軍は九つの山を越え、九つの大樹を抜け、九つの大河を渡って、ス地に 到着した。イァマ神はドゥ鬼、ツエ鬼、チ鬼など敵の勇猛な鬼将軍をつぎつぎとなぎ倒していく。東、南、西、北の村々を攻略したあと、天地中央の九つの鬼村(土、?)を襲撃する。ムルドゥズが祭祀を行なうと、百千のイァマ神が天から降りてきて、長い角の生えた山羊、長い爪の生えた犬、長い鰭の生えた魚を殺し、ミマセテ、クザナム、クトゥタヤ、ナツゾブ、ナイセトゥを殺した。ムルスズ地の千万のムルスズ部族が殺された。ここにムルドゥズは勝利を得たのである。

 「ウ」は軍師神。「オ」はナシ族神。

 ムルスズが殺されたとは明示されていない。完全に決着がつけられたわけではないのだ。白と黒、明と晴の戦いに終わりはない。

 「白と黒の戦争」は舞台で上演されたこともあるほど、ドラマティックな筋書きをもっている。「ロミオとジュリエット」ばりの恋愛悲劇として捉えることもできるのだ。

 「昔々、自家と黒家というふたつの名門貴族の家があった。自家の長男はひょんなことで黒家の長男を殺してしまう。復讐を誓った黒家は長女が色仕掛けで自家の長男を黒に掛ける。ところが黒家の長女は自家の長男に恋をしてしまったのだ。禁じられた恋。ふたりの間には子供もできてしまう。しかしどうしようもなく、黒家の家臣たちは自家の長男を殺害する。息子の死の知らせを受けた自家の主は兵馬をあつめ、黒家を攻撃し、皆殺しにする‥…・。」

 逆にいえば、読んでおもしろいとおもえるような部分は、数百年のあいだにトンバたちがエピソードを挿入したり、改変したりしてできたものなのだ。もともとは神話の形式をとった祭詞のようなものだっただろう。上述のあらすじではかなり省略してしまったが、リフレーンがとても多く、紙芝居でも観るような感覚でいると、退屈で、期待は裏切られてしまう。そのあたりに祭詞であった頃の跡を留めているといえるだろう。

 いまある「白と黒の物語」からあとで加えられた要素を取り除くと、ベルシア型二元対立の象徴の物語が浮かび上がってくる。トンバ教はボン教そのものではなく、いわんやマニ教ではないが、この二元対立の物語にかぎっていえば、それらの宗教のあいだで受け渡されてきたといえるのである。

 こうしてナシ族には無縁と思われていたグノーシス(叡智)が、物語の衣裳をまとってひそかに潜入していたのだ。




註35 ナシ族の地域の南方、大理の白族には白竜が黒竜と戦って勝つという民話がある。かつて大理には18の川が流れ、それぞれ竜が暴れ、洪水を起こした。悪竜の親玉が大黒竜だった。見かねた小白竜は大黒竜の人間の妻、阿蘭に近づく。阿蘭はもとは善良な農家の娘であり、小白竜に協力し、大黒竜の金印を奪い、退治することができた。
 この話では白と黒は光と闇ではない。ただ単に善と悪を表している。
 ここで想起されるのはボン教の「十万白黒竜経」(白、黒、斑の三部作)だろう。この経典は大雨の害などがないよう祈願しながら読まれるものだ。大理・白族の民話もまた僧侶(アジャリ)が儀礼を行う際に読まれたのではなかろうか。








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