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 ハンプシャーのニュー・フォレストは現代ウィッチクラフトのリバイバルの歴史においてすでに有名だった。というのも、ジェラード・ガードナーが1939年にイニシエーションを受けた場所は、森の端にあるハイクリフだったからである。そして1940年の侵攻を止めるために、この森のなかで大きな儀礼が開催された。

 ペッカムはニュー・フォレストの一般的な姓だが、バリー・ペッカムの作品によって広く知られることとなった。ペッカムは、この魔術的な地の本質をうまくとらえた数少ないアーティストと呼ばれているのだ。

 チャールズ・ペッカムはドリーンの曾祖父だった。彼は1835年にフォレストの中心地リンドハーストに生まれた庭師だった。24歳のとき、近所に住む洗濯女シャーロット・グラントと結婚した。かれらはリンドハーストの森の中で生涯のほとんどを過ごした。かれらは5人の子宝に恵まれた。唯一の娘は1853年生まれのシャーロットだった。彼女は地元の屋敷の下女として働きに出ていたが、1878年にハリー・ドミニーと結婚している。ドリーンの祖父である。

 ペッカム一族のなかでもっとも興味深いのは、ドリーンの両親が「偉大なるグランファ(おじいちゃん)ペッカムと偉大なる叔母ナンス」と呼ぶふたりだった。つまり1800年生まれのドリーンの大曾祖父ジョージ・ペッカムと、1841生まれの彼の娘アンだった。かれらはリンドハーストのパイクズヒルに住んでいた。ドリーンはかれらについて述べている。

 

 (かれらは)幽霊を見ることができるとみなされていた。またフォレストでピクシーと呼ばれる妖精たちも見えるとされていた。これら小さな霊はおもにたそがれ時にあらわれることが多かった。しかし夏の盛り、日光があふれる真昼、熱の靄(もや)が地方全体を覆うとき、これらがあらわれることもあった。家族の伝承によると、それらは「木々のなかを動くたくさんの光」のように見えた。ニュー・フォレストにはモミの木の特別な輪があった。大叔母ナンスはピクシーと会うためにそこのコミューンのところへいつも行っていた。偉大なるグランファはミツバチを飼っていた。ミツバチを使って何でもできる人々のひとりだったのだ。かれらはミツバチに刺されることなく、両手いっぱいのミツバチを取り上げることができた。

 

 家族に伝わる、偉大なるグランファの教育に関する物語のひとつについてドリーンは語っている。

 

「キョーイク?」と、グランファは口にしたことがあります。「おれはキョーイクとやらについてそんな考えたことあないよ。イチゴを見てみな。このイチゴはキョーイクのおかげでターミットみたくでっかくなったんか。香りもびっくりするくらいにたくさん出るようになったんか」。ターミットとはターニップ(かぶ)のことです。陽光ふりそそぐ岸辺で、小さくて甘い野イチゴを摘んで食べる人ならだれでも、グランファが言おうとしていることを知っているでしょう。

 

 ドリーンの両親はこの「家族の暗黒期」のことを快く思っていなかった。このことについて論じるときは、ささやき声に声をおさえ、ドリーンの耳に届かないようにした。なぜなら「小さな水差しは長い耳を持っている」からである。言い換えるなら、ドリーンは両親が考える以上に理解することができたのだ。ドリーンはつぎのように述べる。

 

 もちろん「礼拝堂育ち」の両親は、この田舎者のふたりについて知ろうとすることを許すはずがありません。尊敬すべき人々とはこれっぽっちも考えていないのです。私が耳をそばだてていると気づくと、両親はあわてて話題をかえました。

 

 両親は「モミの扉の向こう側を見ることのできる人々」、言い換えれば、サイキックの力を持っている人々について話題にすることがあった。またドリーンが呪文とみなすことを実践することがあった。

 

 奇妙なことは……母は、手にイボができたとき、大きな豆のさやを持って、古い呪文を唱えたのです。それでうまくいきました。できれば月が欠けた夜、豆さやの内側の柔毛でイボをよくこすります。そのあと豆さやを庭に埋めます。呪文がきくまで、このことについてだれにも話してはいけません。母の場合はこんなふうにしたのです。

 

 ドリーンの祖父にはたくさんのロマニー(ジプシー)の友人がいたので、何かその文化と関係があるかもしれない。かれらはよくキャラバン(隊商)と馬を祖父の所有する草原に置いていったのである。かれらは祖父に言葉やその他「わざ」を教えたようである。そのとき得たものをドリーンの父に教え、それがドリーンに伝わったのかもしれない。

 

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