中華シャーマニズム

呉越巫(1)蒋子文

宮本神酒男

 

 書をひもとけば、中国の古代シャーマニズムの姿が見えてくる。

 「漢代の巫には北方系の胡巫と南方系の越巫との別があった」(澤田瑞穂)という。澤田氏はまた、南方系の巫として越巫のほかに呉巫にも言及している。呉巫とは「蘇州地方の巫」という意味だという。呉越は地理的にも、文化的にも識別しがたいので、呉巫と越巫はだいたいおなじようなものと考えてもさしつかえないだろう。

 呉越地方の巫から私が思い浮かべるのは三国時代の呉の蒋子文だ。この地方は昔から迷信風俗がさかんなところで、いわゆる雑神が多かったが、蒋子文もそのような地方神のひとつだった。

 それでは『捜神記』をひもとこう。

 後漢の末期、蒋子文は広陵に生まれ、秣陵(現在の南京)の尉(警察署長)という官職についた。あるとき賊を追いかけて鐘山まで来たところ、賊に逆襲され、そのときの傷がもとで死亡した。

 呉の孫権が帝位についた年(229年)蒋子文の部下が、白馬に乗り、白扇を持ち、従者を連れて道を行く蒋子文の姿を見た。彼が逃げると蒋子文が追いかけてきて、こう言った。

「おれはここの土地神になって民を守りたいと思っている。おまえはみなに知らせて、祠を建てさせろ。でないと、たいへんな災難がやってくるぞ」

 その年の夏、祠が建てられなかったためか、疫病が発生し、多くの人が死んでしまった。人々はひそかに蒋子文を祭った。するとこんどは巫祝(みこ)の口を借りてつぎのように言った。

「わしは孫氏に力を貸そうと思っている。だから祠を建てるのだ。もしそうしないなら、虫を発生させて人の耳に飛び込ませるぞ」

 するとあぶのような虫が人々の耳に飛び込み、その者たちはみな死んだ。医者もどうしようもなかった。人々はいっそう恐がった。孫権はしかしまだ疑っていた。蒋子文は巫祝に降りて言った。

「もしまだわしを祭らぬというのなら、今度は火事を起こそう」

 はたして各地で火災が発生し、火は孫権のいる宮殿にまで及ぼうとした。そこで孫権は使者を遣わして蒋子文を「中都侯」に封じ、弟子の緒を長水校尉に任じた。そして鐘山を蒋山と改名し、蒋廟を建てた。

 生前の蒋子文は俗な人物だった。『捜神記』によれば、「酒は飲む、色事は好き、その上軽率で何をしでかすかわからない人物」だった。しかも「おれの骨は神聖だから、死んだらきっと神になるぞ」と吹聴していた。およそ神聖にはほど遠い人物だったのだ。

 それなのにどうやって神になったのだろうか。

 自信過剰気味ではあったが、おそらく仕事のできる有能な人間ではあった。そんな彼が不条理ともいえる事件で死んでしまう。殺人だが、不慮の事故といってもいいだろう。このような死から生じる怨念から、地方神のような低級神(雑神)が生まれるのだ。経緯は道真公のそれと似ているといえるだろう。

 タイプ的には荒ぶる神である。慰撫しなければ、この手の神はつぎつぎと災難をもちだしてくる。人々はこの神のために祠を建て、たいせつに祭らなければならなかった。

 

 この逸話のなかで孫権の反応が鈍いのは注目すべき点だ。孫権(182252)は三国時代の呉の礎を築いた父孫堅、兄孫策が相次いで死んだことにより、孫氏の当主となった。この時代ではめずらしく半世紀にもわたって(200252)当主の座を守り、黄龍元年(229年)には初代皇帝の位についたのである。おそらく迷信や巫祝(みこ)の神託といった類のことにはまったく無関心だったのではなかろうか。そんな孫権でさえ祠を建てた、というのが話のミソだろう。

 古代シャーマンに興味のある私にとっては、巫祝がどのような存在であったか、気になってしまう。当時の南京周辺にはどのくらい巫祝がいたのだろうか。集落にひとりやふたりはいただろう。彼らには死者が降りてきたのか、それとも神(雑神)が巫祝の身体を借りて神の言葉を述べたのか。いずれにしても、蒋侯廟が建てられたあと、巫祝は祠廟に常駐していたかもしれない。

 『捜神記』には蒋子文に関する逸話が五つ収録されているが、「神に愛された女」には巫祝のもうすこし詳しい描写がある。会稽郡に望子という十六歳のかわいい娘がいた。おなじ村に「太鼓を叩いて舞を舞って神おろしをする者」があり、その者が彼女を招いたという。望子は蒋侯(蒋子文)に気に入られ、望んだものは何でも手に入れることができた。たとえば鯉が欲しいと思うと、空からぴちぴちした鯉が落ちてきた。

 望子はからだからえもいわれぬ香を発し、また予言能力も得たので、人々からあがめ奉られた。ところが三年後、ふと他の男に心を動かしたため、蒋侯は二度と現れることはなかった。

 ここでわかるのは、村には「太鼓を叩いて舞を舞って神おろしをする者」すなわちシャーマンがいたということだ。太鼓を叩くシャーマンはシベリアをはじめ世界の多くの場所の典型的なシャーマンのスタイルだ。太鼓はシャーマンの魂をのせる交通手段だといえるだろう。

 また望子自身がシャーマンになり、神(蒋侯)が降りてきて神託を述べたようである。「えもいわれぬ香」が何かは興味深い点だ。白檀のようなものか、あるいは入手しがたい西域からきた乳香のようなお香か、それとも(これがもっともありえるが)杜松(ねず)を焚いたお香なのか。このようなお香のなかにいる望子はまちがいなく巫祝であったろう。

 ところが若い男が現れ、男に恋してしまった瞬間、あらたかな霊験はなくなり、ふつうの娘になってしまった。もう男遊びするなり、結婚するなり、勝手にしてくれと蒋子文は思っただろう。聖なる存在は俗な存在に堕してしまったのだ。

 

 東晋のはじめ、元帝渡江のとき、蒋山の頂上が紫金色の彩雲に囲まれているのをある者が発見した。そのとき以来蒋山(鐘山)は紫金山と呼ばれるようになった。紫金色に見えるのは頁岩のせいではないかといわれている。

 現在、紫金山は南京市の東北に位置し、麓から二千m以上の長いリフトに乗ってその頂上へ行くことができる。中腹には紫金山天文台がある。残念ながら蒋侯廟はあとかたも残っていない。蒋子文はとうの昔にこの地を守護する役目を終えていたのだ。