中華シャーマニズム
呉越巫(2)王表
宮本神酒男
呉の孫権の時代(在位200−252)蒋子文よりも謎めいた存在であったのが王表だ。「ナマイキ孫権」(井波律子)と評されるほど自信に満ち溢れていた孫権も老いには勝てず、病に蝕まれていた頃、臨海羅陽県(現在の浙江省瑞安県)に王表と称する神が知られていた。そう、神なのである。自称神ではなく、神。方志によれば温州大羅山に王表廟があったという。王表はこの廟に祀られていた神ということになる。
王表はごく普通にしゃべり、飲食をし、一般人と変わるところはなかったが、その姿を見ることはできなかった。ここのところは、はっきりいってよくわからない。『三国志』の作者もよくわかっていなかった可能性すらある。王表には下女がいて、名を紡績といった。紡績という変わった名前の下女は、神である王表の言葉を伝える霊媒なのではなかろうか。紡も績も糸をつむぐという意味である。紡績は神の言葉をつむぐシャーマンとみなすべきだろう。
孫権は中書郎の李崇(りすう)を特使に任命し、「輔国将軍羅陽王」と書かれた印綬を持たせ、王表のもとへ派遣した。都の建業(南京)までの道中、王表は郡守や県令と論議を交わしたが、負けることはなかった。これも頭の中に情景を浮かべるのはむつかしい。形のない人とどうやって論議するのか。王表という神の降りた巫女である紡績と会話をかわしたというのであれば、ありえなくもない。
二ヵ月後、李崇と王表は都にやってきた。孫権は蒼龍門の外に王表のための家を造らせ、太監(長官)に酒や食事を運ぶよう命じた。そこに滞在した王表は、雨や日照りなどの小さな予言を当てた。これも王表が神であると考えるなら、門の外の家は祠のようなものであり、酒や食事というのは供え物である。
この年の八月、嵐がやってきて海は荒れ、川も増水し、地上は八尺の深さの洪水に襲われた。呉高陵地区の松はみな根ごと引き倒され、南門も吹き飛ばされた。そのようなことがあったので孫権は大赦を実施し、南郊で祭祀を行おうとしたが、そのとき倒れてしまった。翌年、高位の者たちが王表に助けを求めたが、手に負えないと思ったのか、王表は(つまり下女の紡績は)逃げ出してしまった。雨や日照りといった小さな予言(天気予報とあまり変わらない)を得意とする神には、皇帝の病状の改善にあたるのは荷が重すぎたのだろう。孫権がもし亡くなりでもすれば、責任を問われて処刑されても不思議でないのだ。この逃走は理解できるし、妥当な判断だったといえる。
実際、翌年の二月には皇后の潘氏が逝去し(多くの人に恨みを買っていたので、混乱に乗じて殺されたという)四月には孫権もこの世を去るのである。この死を避けることなど、王表にできるはずもなかった。