テルマの風景
聖地サンサン・ラダク
宮本神酒男
テルマとテルトン
私がこれまで出会った現役のチベットのテルトン(gTer ston 埋蔵宝典発掘者)といえば、わずかひとりにすぎない。別の角度からみれば、たとえひとりでも、会ったのだからすごい、ということになるかもしれないが。
テルトンとは何か。何百年も前、たとえばチベットに仏教をもたらしたタントリスト、パドマサンバヴァは、時代があわないなどの理由から、経典(巻物)や仏像などのテルマ(gTer ma)を、岩穴や地面、ストゥーパのなかに隠した。テルトンはそれらから、あるいはときには夢の中や心の中でテルマを発見するのである。
テルトンといえばニンマ派の伝統という印象があるが、ボン教にもその伝統は受け継がれてきた。他の宗派、とくに最大宗派のゲルク派はしばしばこのテルトンの伝統をいかがわしいとして排除し、攻撃した。しかしパドマサンバヴァの『蓮華遺教(パドマ・カタン)』やいわゆる『チベット死者の書(バルド・トドゥル)』など、チベット文学の逸品の多くはじつはテルマなのである。前者を発見したテルトンはオギェン・リンパであり、後者を発見したのはカルマ・リンパだった。彼らをテルトンとみなせばいかがわしく見えなくもないが、見方を変えれば彼らは一級の文学者である。
私は数年前、西チベットのパンタという洞窟群のある地域で、断崖絶壁を這い登り、洞窟に入って古い経典を「発見」したことがある。この洞窟は、絶壁上の百以上の洞窟のひとつだった。洞窟内にばさりと落ちていた朽ちた経典の横には、小さなストゥーパの土台らしきものがあった。登るのも、降りるのも命がけの危険な洞窟だが、かつては修行窟として使われていたらしい。そして岩壁を這って近くの洞窟に移動すると、その内部の四面と天井にはぎっしりと仏画が描かれていた。めくるめくような体験だった。
しかし私はテルトンではないし、経典も一部は読み取れたが一般的なものにすぎず、テルマではなかった。おそらく数十年前にこの洞窟で修行した僧が何らかの理由で戻れず、読経に使用した経典がそのまま残されたのだろう。しかしこのことから、乾燥したチベット高原では紙でできた経典がかなり長期間残りうるということがわかった。もっとも、だからといって数百年前に隠匿された経典がそううまいぐあいに発見されるとも思えないのだが。
かつてアウサン・スーチーさんの夫であったチベット学者の故マイケル・エアリス氏は、ブータンの著名なテルトン、ペマ・リンパ(1450−1521)をペテン師扱いし、王族と血のつながりがある偉人を侮辱したとして、ブータンの人々から非難されたことがあった。あまり厳密に信憑性を問うなら、たとえば大乗仏教の経典はすべてブッダの名をかたった偽書といわれてもしかたないのではないかと思う。
テルトンがテルマを発見する場に遭遇するという機会は、そうそうあるものではない。その稀な報告が『チベットのタントラと民間宗教(Tantra and Popular Religion in Tibet)』(1994)に収録された「空のように大きく(Vast as the Sky)」(Span Hanna)である。ハンナ氏は東チベット・ニンティのボン教の聖山ボンリ山で、ボン教の女性テルトンとともに山に登る。彼女は衆人の前で、岩の下からアミターユス(無量寿仏)の小像と九尖金剛杵(ヴァジュラ)を取り出してみせた。トリックがあるのかどうか、とやかくいうのはヤボというものだろう。
さて、私が会ったテルトンの話にもどろう。四川省成都で、ニャロン出身の60歳代前半のボン教徒のテルトンにひきあわせてくれたのは、作家で、ケサル王物語研究所の代表でもあったリンチェン・ワンギェルさんだったかと思う。
武侯祠近くのチベット人街から20分ほど歩くと、おなじ形をした老朽化したアパートが幾重にも連なる巨大な団地があった。神秘的なテルトンはなんとアパート住まいだったのである。といっても住居スペースは一家には十分な広さで、日本でならアパートでなく、マンションと呼ばれるだろう。その一室は、プライベート博物館であるかのようにぎっしり仏像・神像が並んでいた。そのなかのいくつかは、テルマだった。
惜しいことに、このテルトンがテルマを発見する場面に随行することはできず、ふたたび訪ねるという希望もいまのところ実現していない。彼の姉は近年亡くなったが、かなり有名なテルトンであったらしく、この家系にはテルトンの伝統がひしひしと感じられるだけに、交流が途絶えてしまったのは残念でならない。
じつはその日、そのあと、武侯祠近くのチベット人街の小さなチベット書店で私はカメラやビデオカメラ合計35万円分の入ったナップサックを置き引きされてしまったのだった。あまりのショックで何も食べられず、夜一睡もできないという状態に陥ってしまった。そういうことがあったので、テルトン調査どころではなくなってしまった。
聖地サンサン・ラダクとボン教のテルトン・ヘールカ
さて、聖地サンサン・ラダク(Zang zang lha brag)について述べたい。
はじめてこの地に足を踏み入れたとき、まるで磁力場に入ったかのようにぐいぐいと引き寄せられた。写真を見てほしい。何かものすごい霊力が発せられるのを感じ取れるだろうか。パドマサンバヴァがここに立ち寄ったのは、たんなる伝説ではないと思う。だれだってこの山を見たなら、立ち止まり、山の上の洞窟で瞑想修行をしたいと考えるだろう。いや、つまり、私自身、この岩山を見た瞬間、ここに滞在できたらどんなに素敵だろうかと思ったのである。
この聖地に織り込まれたテルマをつぎつぎと発見したのはテルトン、リグズィン・ゴデムチェン(Rig ‘dzin rgod ldem can)だった。リグズィン・ゴデムは通常ニンマ派のテルトンとみなされる。ところがじつはボン教徒であったとか、ニンマ派であると同時にボン教徒でもあったという伝説があるのだ。
光嶋督の『ボン教学統の研究』によれば、有名なボン教のテルトン、テルトン・へールカがサンサン・ラダクで数多くのテルマを発見したという。このヘールカは、リグズィン・ゴデムと同一人物なのだろうか。出生地や父母の名前などを比較するとまったく違うのだが、共通点も多々あるのである。
ヘールカは14世紀頃、チテク(sPyi bgres khud)という国に、チュルボン・ドルジェ・センゲ(dByul bon rdo rje senr ge)を父、グリブモ・ギャカル・セルドン(Gu rib mo rgya kar gsal sgron)を母として生まれた。
興味深いのは、ヘールカ32歳のとき、大病を患い、治癒したあと「並外れて賢明な人になった」という。大病の七日目に、神から特別な啓示を受けたのである。これは人がシャーマンになるときの過程とそっくりである。私はネパールのタマン族のボンボ(民間宗教のシャーマン的祭司)数人から話を聞いたが、ほとんどの場合、大病を患ったあと啓示を受けてボンボになったということだった。テルトンは非常にシャーマン的であるといってもいいだろう。
またヘールカは9人の聖職者にボンの手ほどきをした。それ以来彼はキュング・ツェル(Khyung rgod rtsal)と呼ばれるようになった。キュングとはガルダの意味であり、ツェルは能力ある者、の意。すなわちガルダの力がある者ということである。
ヘールカと仲間ふたりは、はじめシェルサン(Zhal zang)山に登り、その頂上を掘ると、四角い黒い平らな石板を発見した。その下に壷があり、なかには巻物がつまっていたという。それらはゾクチェン・ツンドゥン・ロンヤン(rDzogs chen g-yung drung klong yangs)など20種近い経典だった。
その2年後、ヘールカらはギャン・ラカン(rGyang lha khang)でハヤグリーヴァ神の像の胸から典籍類を発見し、さらに4年後、ギャンヨンポ谷(rGyang yon po lung)で巻物を発見する。
それから4年後、ヘールカらはサンサン・ラダクでヤンサン・ツォドク(Yang gsang rtsod zlog)などの典籍を発見する。
その2年後、ボドン・チャグ・ション(Bo dong bya rgod gshongs)で毘沙門天の像の胸から、さらに2年後、マカル・チャグタン(Ma mkhar lcags ‘phrang)から、テルマの経典を発見した。彼らはその後、ふたたびハヤグリーヴァ神の像から数多くのテルマを発見した。この経典は仏教僧によって奪われ、グル・チョワンの手に落ちたといわれる。グル・チョワンは有名なニンマ派のテルトンである。ボン教のテルトンからテルマを奪ったというのは言いがかりのように思えるが……。*テルトン五王のひとりグル・チョワン(1212−1270)とは時代があわない。
このように、サンサン・ラダクはテルトン・ヘールカがテルマを掘った8つ、ないしは7つの聖地のうちのひとつである。ニンマ派よりも、ボン教徒のほうが先にこの地を見つけていた可能性は十分にあるだろう。
ニンマ派テルトン、リグズィン・ゴデム
しかし今現在、サンサン・ラダクはニンマ派の専有地といっても過言ではない。山の上の岩窟はパドマサンバヴァとリグズィン・ゴデムが瞑想修行を行なった場所であり、ボン教の出る幕はまったくないように思える。
リグズィン・ゴデムは1337年1月10日、トギョル・ナクポ(Tho gyor nag po)地区のリウォ・タサン村(Ri bo bkra bzang)のナモルン家(sNa mo lung)に生まれた。その日、奇瑞が多く現れたという。
父ロポン・ドゥンドゥル(Lob dpon)は呪術師であり、ヴァジュラ・キーラの修法を推し進めていた。またモンゴル王グルセル(Gur ser)の後裔だともいう。予言通り、11歳のとき頭に鷲の三本の羽が現れた。23歳のときには、五本の羽が頭上に現れるようになったという。 わかりにくいが、五仏冠のように五本の羽を頭につけている姿を想像すればいいのだろうか。いずれにしろ、ゴデム(rGod ldem ガルダの羽毛)の名はこれに由来する。
マンラム・サンポ・ダクパ(Mang lam bzang po grags pa)は、ギャンヨンポ谷でメンガク・ネキ・ドンドゥンマ(Man ngag gnad kyi don bdun ma)という題のついた「隠し場所(snying byang)」のリストを掘り出した。ギョンヨンポ谷はヘールカがテルマを発見した場所のひとつである。この谷にはパドマサンバヴァの修行窟があるという。マンラム・サンポ・ダクパはそこで8種の宗教論書も発見した。
彼はそのリストから、サンサン・ラダクでもテルマが発見されるだろうと考えた。そこでリストをトゥンパ・ソナム・ワンチュグ(sTon pa bSod nams dbang phyug)に手渡し、さらにリグズィン・ゴデムに渡すよう依頼した。
1366年、リグズィン・ゴデムは3つの重要なテルマと100の小テルマについて書かれたリストを手にすることができた。このリストはリウォ・タサン山(Ri bo bkra bzang)の頂上の下にあるゼンダク・カルポ(’Dzeng brag dkar po)という岩のところにある3柱のドリン(巨石)の近くで発見されたものである。この洞窟は現在も残っているという。
おなじ年の四番目の月の第四の日、ゴデムはサンサン・ラダクの洞窟から長方形の青い大箱を発見した。洞窟のある山はトグロを巻いた毒蛇のように見えたという。
大箱から彼は五蔵(mDzod lnga)のテルマを発見した。中央の暗い茶色の場所からはカタ(儀礼用の絹の布)に包まれた3巻の経典とヴァジュラ・キーラの論書3巻を見つけた。
東の貝のように白い場所からは、因果について書かれた論書を見つけた。その内容は天のように途方もなく広かった。
南の金のような場所からは真言を唱え、観想を試みる瞑想修行について書かれた論書を発見した。それは月と太陽のように輝いていた。
西の赤銅のような場所からは、吉祥のしるし(rten ‘brel)について書かれた論書を発見した。その経典は白檀のようだった。
北の鉄のような場所からは、毒樹のように有害なゲクタル・バルロク・パイチュー(bGegs thal bar rlog pa’i chos)という題の論書を発見した。
中央からは、多くの聖物(dam rdzas)とともにクンサン・ゴンパ・サンタル(Kub bzang dgongs pa zang thal)という重要な論書を発見した。
ゴデムはこれら五蔵をさらに100に分けた。彼は基本的な巻物を編集し、その理論をわかりやすく伝えようとした。こうして秘密の教えはチベット中に広まったのである。もっとも、正確にいえば、その年と翌年だけ秘密の教え(sab gter)の真髄はあきらかになったのである。
ゴデムは北伝学派(byang gter)という系統の祖となった。このゴデムの衆生に利益をもたらす行いによって、戦争は避けられ、疫病はやみ、反乱は終結し、悪しき者は放逐され、交易や農業は促進され、ニェン魔によって起こされた病気や疾患は癒された。西はキュンルン高原の銀城(Khyung lung gNgul mkhar)から、東は低地のメカム(sMad khams アムド・カム地方)のロンタン・ドルマ(kLong thang sgrol ma)まで、幸福がもたらされたのである。
ゴデムはまた7つの重要な秘密の地域(sbas yul)とその他多くの秘密の場所(thems byang)について知っていた。こうして彼はパドマサンバヴァのように有名になった。
中年を過ぎて彼はデモション(’Bras mo gshongs)に行った。そこで隠されたテルマを発見することができ、グンタン(Gung thang)の王チョグドゥプデ(mChogs sgrub sde)は彼を教師に任じた。
リグズィン・ゴデムが没したのは、71歳のときだった。
彼が遺した論書はつぎのようなものである。
「bLa ma zhi drag」「’Thugs rje chen po」「’Gro ‘dul rdzogs chen dgongs pa zang thal」「bKa brgyad rang shar」「rTen ‘brel chos」「bsTan srung gi skor」
私はたまたま四川省康定(タルツェンド)やインド・シムラのニンマ派の寺院を訪ねる機会があった。これらはともにリグズィン・ゴデムの興した北伝学派に連なる寺院だった。東西にこれほど離れた地域にリグズィン・ゴデムの教えが広がっているのを実感できたのは、幸いなことだった。サンサン・ラダク(Zang zang lha brag)を遠くから眺める。エネルギーがたぎっているように思えた。毒蛇が蹲っているかのよう、と表現されることも。
さらに聖地に近づく。岩壁に菩薩の姿が見えることがあるが、それもまた一種のテルマである。
パドマサンバヴァもリグズィン・ゴデムもこもって瞑想したという洞窟。腕時計の海抜表示は4700mを示していた。息切れするのも当然だろう。
洞窟から寺院本体を見下ろす。このあたりは草木の生えない荒涼とした地である。
寺院のケンポ(住持)はナチュ出身だった。
しかし岩の合い間から泉が湧き出ていて、わずかに生えた草を求めてブルー・シープが集まってくる。
洞窟へ向かう急斜面の道端にあった石板レリーフ。
洞窟内のグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)八変化。
左はリグズィン・ゴデムチェンの像。右は護法神。
サンサン・ラダク寺の僧たち。ほとんどがこの界隈の出身者だった。僧衣だかなんだかわからない、いい加減な(?)衣はいかにもニンマ派らしい。
みな屈託なく、善良な人々ばかりだ。