シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第1章 考古学を手がかりに

 

1 考古学的視点

 チベット高原およびその周辺地域の考古学調査により、古代チベットとペルシアの文化に往来があったのではないかということが次第にあきらかになりつつある。チベットの細石器が、華北細石器の南方へ伝播した支系で、その船底石核、楔形石核、錐形石核、柱状石核、および細石器中の石鏃、尖状器、彫刻器、辺削器などは、基本的に華北細石器に属している。

 この種の細石器は中国のほか、東アジアや北米に分布する。ヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、南アジアなどの幾何学細石器とは異なっている。

 ただしチベット高原と接する南アジア、中央アジアであるインド、パキスタン、アフガニスタンでは幾何学細石器が発見されると同時に、非幾何学細石器も発見されている。たとえば、インド・西ベンガル州のビルブハンプール(Birbhanpur)やウッタル・プラデーシュ州のレーカヒア(Lekhahia)、パキスタンのカルメル山洞窟(サンガオ洞?)、アフガニスタンのバルフ(Balkh)のアク・クプルク(Aq Kupruk)の岩陰遺跡などである。

 多くの学者は、南アジア、中央アジアの細石器は西アジアの細石器の影響を受けていると認識している。このように南アジア、中央アジアに出現した中国華北細石器文化と西アジア細石器文化との間には交流があった。すでに華北細石器文化の影響を受け、また自身のチベット独特の細石器文化があり、上述のように東西交流のなかで重要な役割を負うことになったのである。

 考古学者によれば、カロ遺跡(訳注:Kha rub rig gnas kyi rjes shul)の石器のなかで、多くはないが一部のものは、石核の外側を削れば必要な外形が得られ、器物の形状に合致させられる加工をすることができた。たとえば梯子形切割器、平柄端削器、窄柄端削器などである。

「この種のあらかじめ整えておいた石核を削ってあてはめていく方法を、ヨーロッパではラヴァロワ(Levallois)と呼んだ。旧石器時代にはヨーロッパ、北アフリカ、近東などで広く見られた技術である。それらの地区の石器とカロ遺跡の石器は同じではないが、技術は同一なのである。この技術は中国内地や東南アジアではまだ見つかっておらず、われわれが注目している点である」

 インド国内のヒマラヤ山脈地区でも、旧石器時代後期にはこの技術を導入していた。チベットと隣接するカシミールのブルザホム(Burzahom)の石器時代遺跡でも、黄河流域文化の影響を受けた半地下穴居式家屋や長方形の双孔石刀などが発見されている。

 このほかカロ遺跡から出土した長方形の骨片は、その両端に横の溝が刻まれているが、これはイラン西部ケルマーンシャー州(Kermanshah)ガンジ・ダレ(Ganj Dareh)の新石器時代遺跡から出土した骨片と類似している。それは西アジアとチベットとの間に早くから交流があったことを暗示しているようだ。

 フランス(*訳注:正しくはオランダ)の考古学者ヘンリ・フランクフォート(Henri Frankfort)はパキスタン・スワートの遺跡について語っているが、手製の彩陶は見たことがないが、輪製彩陶は発見されていると述べている。遺跡は多く黄土層に見つかっている。ほかにも縄文陶、半地下式居住家屋、骨製のかんざし、凹型石刀、小型玉石器などは中国古代文化の影響を受けているかもしれない。それらは紀元前6千年から2千年にかけての考古文化で、カシミールからも同類の遺跡が出土している。

 パミールのサカ人の遺跡となると、円形堆石、竪穴墓、単人葬あるいは双人葬、屈肢葬、円底器の陶器、手製、あるいは素焼きの陶器といった特徴が見られる。

 チベット人は人種的にはモンゴロイドに属する。しかし20世紀前半、西側の考古学者や探検家はチベット北西部で非モンゴロイドの人頭骨を発見した。たとえばレーリヒ(リョーリフ)はチベットの辺境で「長頭型」の頭骨を発見した。それはチベットやモンゴロイドのラダック人の「短頭型」とは異なっている。ラダックの彼らの墓は、現地の人々からは「遊牧民の墓」と呼ばれているという。レーリヒはこれらの墓は「ホルパ」と呼ばれる遊牧民の特徴を示していると考えた。彼らはここで活動していたか、あるいはインド・ヨーロッパ人が移動してきたのかもしれない。アーリア人の南遷と関係があるかもしれない。

 1925−1928年の間、レーリヒの中央アジア探検隊はチベット高原北部や中部の河谷地域で石丘墓やさまざまな巨石墳墓を発見した。ホルやナムル、ナグ・ツァンなどの石丘墓では、墓主は「長頭型」だった。墓からは青銅の三尖やじりや葉形鉄やじりなどが出土した。

 巨石遺跡には三種ある。独石(メンヒル)と石圏(ストーン・サークル)と列石(アリニュマン)である。たとえばチベット南部大塩湖南方50キロで発見されたドリン(巨石)は東西に18列も並ぶ石柱である。列石の西端にはふたつの同心円の石圏があった。石圏の中央には高さ2・75mの三つの巨石が並び、その前には祭壇があった。列石の東端からは石を使ったやじりが見つかっている。

 ほかにも類似した遺跡が多数発見されている。トゥッチはチベット西部のプ(sPu)やガルチャン(Gar byang)で円圏石丘墓や巨石遺跡を見つけた。彼はこれとアフガニスタンのカフィール(Kafir)人の石圏やラグマン(Laghman)地区の石圏とを比較している。

 彼は主張する。なかに石柱や石碑がある円形、あるいは方形の建築物と、それらのない建築物は区別するべきであると。石碑などのない石圏の場合、陵墓である可能性が高い。石碑や石柱が見られる場合、建築物は宗教的な意味合いをもつと考えられる。

 レーリヒはサガの東2キロの地点に高さ4mの独石を見つけた。彼はこの遺跡はボン教の自然崇拝と関係があると考えた。

 これらの発見とともに、レーリヒやトゥッチは動物、すなわち鹿、馬、熊、鳥、猿などの飾りがついた青銅器を収集した。一部の研究者は、これらチベットの動物装飾はイランの古代文化と関係があるとみている。

 またある研究者は、文献を根拠に、チベットと中国北西の古代羌族、北東の鮮卑族との間には密接な関係があったとする。

「この種の文化要素は北東から入ってきた可能性がきわめて大きい」(童恩正)

 石丘墓、巨石遺跡、動物装飾、この三者は世界各地にどれだけ分布しているだろうか。相互関係や相互の影響を細心の注意を払って研究しないと、大きなミスをしかねないだろう。とはいえ、チベットとイランの間にはじつに多くの文化的なつながりがあるのは間違いないのだ。

 このほか岩絵の遺跡は、古代文化の関係を見る上で重要だ。最初に発見されたのは、インド・ラダックのサンガやパキスタンのラフルなどである。その後チベット各地で発見が相次いだ。岩絵の内容は狩猟、放牧、戦争、神霊崇拝、舞踏、動物、そのほか仏教信仰等である。

 時間の幅はあまりに大きいが、その主要部分は仏教のチベット伝来以前、すなわち7世紀以前である。原始的な先住民のいわばことばの形象化である岩絵は、地域や時間を越えた普遍性をもっている。文字記録の手段を持たない遊牧民にとって、岩絵は心を楽しませるとともに精神世界を豊かにし、文化を伝播する重要な媒体ともなるのだ。

遊牧民の岩絵は多くの共通性があった。たとえば原始的なシャーマニズム、自然崇拝、動物と遊牧生活などが岩絵の中核を占めた。チベットの岩絵は内容豊富で、その他の地域との関係や交流の痕跡を見出すことができる。たとえば内モンゴル陰山地区の岩絵との密接な関係、また、渦文様装飾、おおげさに変形した鹿角、対になった、あるいは前後に並んだ動物図案などは中央アジアの草原地帯のスキタイ動物芸術ときわめてよく似ているのだ。

 チベットの岩絵によく登場するユンドゥン(卍)は中国北方や中央アジアのゴルノ・バダフシャン(現アフガニスタン)、ヤズグレム、アクジルガ、パミール西部のサルミッシュ、セミレチエ、またタムガリなどの岩絵には、共通するものがある。西アジア、中央アジアに流行したゾロアスター教および太陽神崇拝、火神崇拝と関係があるだろう。

 古代では、中央アジアの広範囲にわたって、チベット高原も含め、スキタイ芸術が広がっていた。

「スキタイ文化の特徴の要素のなかで、もっとも人の注意をひくのは各種動物の形態が描かれた装飾図案だ。武器や容器、装飾品上に見る躍動感あふれる動物の姿(坐る獣、草食動物を襲う猛獣、取っ組み合いをする動物、身を丸くする獣など)などである」

「カザフスタンを中心とする中央アジア北部で発見された紀元前7世紀から3世紀頃の遺跡は、サカ人と関係があるというのが考古学界の一致した見方である」

 サカ人が、ヘロドトス描くところのスキタイ人であることは、学界でも異論の余地はないだろう。

「古代アルタイ諸部族の芸術は、主要なものは装飾芸術である。すべての製品上にそれは施されている。家の壁の上、壁の花模様のフェルト、服飾、一切の生活日常品、武器、馬鞍、木棺の上面、みな美しい装飾が施されているのだ」

「幾何文様図案の主題は植物界から取られているが、じつに多種多様である。そのなかで特殊な地位を占めるのが、いわゆるスキタイ式野獣文様だ。動物の造型は野獣や現地特有の動物の動きを模倣して造られる。なかには幻想的な動物も含まれる。現地の独創的な主題と思われるものでも、西アジアの主題を踏襲したものが多い。そのなかでも特別なのが獅子有翼人頭獣である。あるいは半鷹半獅獣である」

 初歩的な人類学もまた、チベット高原の人種には基本的な共通項があるものの、差異と多元性が存在していることを認めている。

「チベットでは、類似した種族が基本的にチベットの北東から南西に向かっている。この変異と趨勢は原始的な形態を背景としている」

「チベット族の種族がどこから来たかに関していえば、類型はあるものの、けっして単一的ではない。チベット族の起源と形成は、上述のふたつの基本的類型と密接な関係にあるのだ」

 実際、古代チベットの北西部の種族、民族、文化類別は、われわれがいま見るものと比べると、はるかに豊富なのである。

 考古学的な手がかりをもとに、以上の論点をまとめると、古代、チベット高原上のチベットの活動は、西アジア、中央アジアのペルシア帝国ならびにその属領のなかにあり、からまりあうような複雑な関係があった。その両文化の関係の重要な基本点について考察を進めたい。