シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第1章 考古学を手がかりに

 

2 アーリア人、サカ人の移動と影響

 アーリア人はもともと、西はヴォルガ川から東はカザフスタンの広々とした南ロシアの草原地帯にかけて、水草を逐う遊牧生活を送っていた。主要畜類は牛、羊、犬、馬などだった。現代の言語学、民族学の分類でいえば、彼らはインド・ヨーロッパ語のなかのインド・イラン語族に属する。アーリアンとは、高貴な人、貴族を意味する。

 紀元前2000年頃、アーリア人部落は分離しはじめ、のちのインド・アーリア人とイラン・アーリア人の雛形ができた。紀元前2000年―1500年頃、アーリア人は中央アジアを南下したが、一部は東南に進路をとり、ヘラートやカンダハールを通り、最後はインダス川河谷地域に落ち着いた。元来ここに住んでいた先住民は南方に追いやられ、インド南部のゴール人やドラヴィダ人になったといわれる。ほかの一派は、マルギアナやパルティアを通り、イラン高原にたどり着いた。彼らはそれぞれ先住民と融合し、インド・アーリア人とイラン・アーリア人を形成した。

 注目に値するのは、アーリア人が大規模に南へ移動するとき、その主要路線はチベット高原西部、北西部に接し、一部の集団はチベット高原に入り、定住した可能性が高いことだ。

 アーリア人南下後、おなじインド・ヨーロッパ語族に属するサカ人も同様のルートをたどって南下した。サカ人の活動範囲はきわめて広く、現在の中国北西の甘粛、新疆などにも痕跡があり、とりわけイリ川とチュー川が中心だった。

 ペルシア・アケメネス朝ダリウス1世(前521−486)のベヒスタン碑文には、ペルシア領域内で活動するSaka人についての記述がある。学者(余太山)はつぎのように述べる。

「紀元前7世紀、イリ川、チュー川流域に出現したサカ人は東方からやってきた可能性がある。SiiGaianiTtochariSacarauliなどは秦の典籍に見られる允姓の戎、禹知、大夏、莎車であろう。その活動地域は黄河の西、アルタイ山の東である。前623年、秦穆公は西戎に覇を称え、千里を切り開いた。それによりサカ人は西方へ移動した」

 サカ人は西へ移動してシル河に到達し、それから南下してパミールやインドへ達した。これによりチベット高原西部や北西部との間に密接な関係が生じた。

 漢文史書に言う。

「昔、匈奴が大月氏を破ると、大月氏は西へ行って大夏に君臨し、サカ王は南へ行ってJi-bin(ケイヒン)に君臨した。サカ種は分散し、往々にして数カ国に及んだ。疏勒以西の休循、捐毒はみなサカ種である」

 休循、捐毒はパミール高原に位置するが、Ji-bin(ケイヒン)の位置に関しては学界の定説はない。一説にはカブール河上流域のパロパミサスで、コペンやカピサをも含むという。一説にはカブール河中下流域のガンダーラで、プスカラヴァティやタキシラも含むという。

 中国の学者の考証によると、漢代のJi-bin(ケイヒン)国はガンダーラ、タキシラを中心とし、その勢力範囲にはカブール上流域やスワート河も含まれたという。この地域とチベットの阿里地区とは接し、往来があり、古代より密接な関係があったと考えられる。

 ヘロドトスの『歴史』にもインド西北やチベット高原西部のサカ人の活動が記されている。彼によればスキタイ人(サカ人)は一種の高帽子を被っていた。帽子はまっすぐ立ち、硬く、頭頂部は尖っていた。彼らはズボンをはき、自家製の弓と短剣を携えていた。またサカリスという戦闘用の斧を持っていた。彼らはアミルジオイ・スキタイ人だが、サカ人と呼ばれる。ペルシア人はすべてのスキタイ人をサカ人と呼ぶのだ。彼らは遊牧民族であり、最強の騎兵とみなされる。

 メガステネス(紀元前350−280?)の『インド誌』によれば、インド北方、エモドゥス山脈の向こう側はスキタイ人地域だという。彼らはサカ種(Sacae)のスキタイ人といわれる。エモドゥス山脈とは、ヒマラヤ山脈のことである。つまり、スキタイ人地域とはチベットのことなのだ。

 プトレマイオスの『地理学』の記述によれば、サカ人(Sacara)地域の西の境界はソグディアナ、北はスキタイ、東もまたスキタイである。パミール高原およびその周辺は広範囲にわたってサカ人の部落が分布していた。スキタイ人地域の南部はガンジス河と接し、東部はヒマラヤ山脈西部だった。つまりヒマラヤ山脈もまたスキタイ人の居住区だったことになる。

 ある研究者によると、古代アーリア人は中央アジアからインダス河に沿って移動しているとき、最初に留まったのはラダックだった。前世紀中葉、人々はヒマラヤ山脈の雪峰の下にワディ(訳注:所在地特定できず。白人に近い見かけで有名なのは、以下に述べるダ・ハヌ地方、すなわちダ村・ハヌ村のブロクパと呼ばれるダルド系の人々だが)という純アーリア人の後裔の村を発見した。彼らの肌は白く、鼻梁は高く、古代アーリア人のように神を崇拝していた。

「今日まで、風俗習慣、儀式典礼、宗教信仰、生活観念、どれをとってもモンゴロイドの特徴が顕著なラダック人とはおおいに異なっていた」

 前世紀前半、ドイツの学者フランケは、ラダックのレーにかつてはダルド人が住んでいたと結論づけた。彼はさらに調査をして重大な発見した。

「ラダック王国にはふたつのダルド人の部落があった。ひとつはドラス(Dras)であり、もうひとつはダ(Da)だった。彼らはもともとの言語を保持していた。このふたつのうち興味深いのは後者だった。ドラスのダルド人は3世紀前にモスレムになり、本来の風俗習慣のほとんどをなくしてしまった。ダ村の人々はイスラム化していないうえ、ラマ教も完全には受け入れていないため、風俗習慣のほとんどを残していた」

 と、このように彼らは南下してきたアーリア人にちがいないと考えたのである。

 スキタイ人の分布に関してプトレマイオスは記す。

Sacaraの西の境界は前述のようにソグディアナで、北の境界はスキタイと接し、境界線はJaxartes河(シル河)に沿って伸び、130度49分で止まる。東の境界もスキタイと接し、境界線はAscatancas山脈を越えてImaus山脈の140度43分に達し、そこからImaus山脈をふたたび越えて、北に伸びて145度35分で止まる。Sacaraの南側は、Imaus山脈を境とし、境界線は二点で接する。

 Sacaraは遊牧民を主体とし、城郭を持たず、穴居、あるいは林居である。Jaxartes河付近にあるのはcarataeComariであり、山岳に沿ってあるのはComediaeAscatancas山脈に沿って分布するのはMassagetae、その間にあるのはGrynaciScythaeToornae、その下にはImaus、その付近にはByltaeがある。

Imaus山脈の外側のScythia地区の西側からImaus山脈の内側のScythiaに至る。Sacae地区に沿ってその山脈を北に伸びていく。北側は未知の土地である。東側はSerica地区と直線で接し、150度63分と160度35分で止まる。南側はガンジス河でインドと接し、各連結点で止まる。

ひとつのScythia地区にはAuzaciis山脈の一部分があり、149度49分で止まる。いわゆるCasii山脈の一部分は152度41分で止まる。またEmodus山脈の西側は153度36分で止まる。Auzaciis山脈にはOechardis河の源流があり、位置は153度51分である。

このScythia地区の北部に居住するのはScythian Hippophagiであり、その下はAuzacitis Casia。その後ろの横にはScythian Chatae、その後ろはAchassa区、さらに下に進むと、Emodus山脈に沿って分布するのはScythian Chauranaeiである。この地区の都市は、Auzacia(144度49度40分)、Issedon Scythia(150度48度30分)、Chaurana Sotta(145度35度20分)」

 さらにつぎのように述べる。

Scythia北部には、Anthropophagi人が家畜を放牧している。その下にはAnnibi人が同名の山脈のなかに住む。Annibi人とAuzacios人の間にSizyges族があり、その下にDamnae人がいる。その後ろにはOechardes河の河畔のPialae人、その下には河と同盟のOechardae人。Annibi人の東にはGarinaei人とRhabbanae人。その下のAsmiraca区は同名の山の上にある。

Casius山脈の下にはIssedonesの大一族。その山脈がはじまるところにはThoroani人がいる。Thorioani人の下にはThaguri人。同名の山の横に住む。Issedones人の下には Aspacarae人がいて、その下にBatae人。また南へ行くと、Emodi山脈とSerici山脈のそばにOttorocarae人がいる」

 ある研究書はつぎのように述べる。

「すでにあきらかなように、イマウス山脈はパミール、エモダはヒマラヤ山脈、カシアは崑崙山、アウザキアは天山山脈、オイハルデス河の三つの河は、カシュガル河、ヤルカンド河、ホータン河である」

 これらはチベット高原上であったり、チベット高原の北や北西であったりで、古代チベットと中央アジアの往来の通り道であったことがわかる。

 プトレマイオスの時代、サカ人の活動範囲はソグディアナ以東、パミール(Imaus山脈の中心部)以西、シル河(Jaxartes)以南、ヒンドゥークシ山脈(Imaus山脈の西にのびた支脈)以北だった。

 いわゆる「Imaus山脈の外側のScythia地区」にはアルタイ山脈、天山山脈、パミール高原、およびそこから延びる各山脈、またタリム盆地やチベット高原の一部も含まれるのだった。

 これらは確定済みだが、プトレマイオスの言う「下のImaus山脈付近はByltae」の「Byltae」に関して、フランケは発音から「Bru zha」(勃律)ではないかとし、古代地理学家が留めた古代チベット人の名称ではないかと考えた。

 また「Issedones人の下には Aspacarae人がいて、その下にBatae人。また南へ行くと、Emodi山脈とSerici山脈のそばにOttorocarae人がいる」の「Batae」はチベット人だと考えた。

 スタヴィスキーはつぎのように述べる。

「アケメネス朝と奴隷のように酷使された各民族と同様、当時、中央アジアと、完全に異なる歴史文化を持ったスキタイ人とは、遊牧地域において、密接な関係を保持していた。この世界は、北から取り囲むいわば古典的オリエントだった。それはドン河の河岸からアルタイ山脈まで、広々としたヨーロッパ・アジア大草原を包括していた。

 中央アジアはヨーロッパ・アジア草原の遊牧部落国家世界と接する古代オリエントの諸専制国家のようだった。アケメネス朝や古代ローマの文献が示すように、当時の中央アジアの定住農耕民族と中央アジアの遊牧民族の民族の起源、言語、文化的特徴には近親関係が見られた」

 プトレマイオス『地理志』中のスキタイ人の地域にチベット高原の西部、北西部が含まれることは、間違いないと言える。チベット高原でサカ人やスキタイ人が生活していたということは、その文化や交流史に痕跡を留めているということだ。これを根拠にペルシア・イラン学研究者のアリ・マザヘリ(Aly Mazaheri)は断言する。

「サーサーン朝ペルシア人がスキタイ種族に属するのは疑いない」