シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第1章 考古学を手がかりに

 

3 チベット高原北西部の民族移動

 古代、アーリア人が中央アジアから南下し、サカ人もまた南下したあと、中国西北や中央アジアの多くの遊牧系民族もまたおなじルートをたどって南下し、中央アジア南部、南アジア、西アジア、はてはヨーロッパにまで至った。彼らの生活はどれもだいたいおなじだった。民族も似ていて、チベット高原との関係も程度の違いはあれ、似たようなものだった。どれも、しかし、民族文化の交流という面では重要な役目を負った。

 サカ人の西への移動は民族大移動の一こまだった。もともと彼らはイリ河、チュー河流域にいたが、紀元前177−176年頃、モンゴル高原に移り住み、長い間月氏の匈奴に服従した。冒頓単于に率いられ、敦煌や祁連山地区の月氏を撃破した。月氏は北西に向かって移動をはじめ、サカ人が住んでいた土地に入り、占拠すると、イリ河・チュー河地域の新しい主人となった。匈奴の老上単于のとき、月氏王を殺し、その頭蓋を飲器としたという。前漢王朝は匈奴を挟み撃ちすべく、殺された王の仇を取りたがっている月氏と連合を組んだ。このとき西域に使わされたのが名高い張騫だった。サカ人は南下するとき分派し、一派はシル河北岸から大夏に侵入した。別の一派はパミール各地に散居し、その一部はJi-bin(けいひん)に入った。

 紀元前130年、匈奴の支持する烏孫人が大月氏を攻め、その地を奪い、イリ河、チュー河地域に定住した。大月氏は西へ移動し、大夏(バクトリア)を征服した。大夏人(Tochari 吐火羅)はもともと現在の河西走廊地区にいたが、紀元前7世紀にイリ河・チュー河地区に移り住んだあと、ふたたびアム河流域に移り、ギリシア系バクトリア王を滅ぼした。その境内には5人の翕侯(きゅうこう)があった。すなわち葉護(Yeghut)、休密(Kumidae 現在のWakhan)、双靡(Syamaka パキスタンのチトラルとマストゥジの間)、貴霜(Kushan)、頓(Badakhshan)、高附(Kokcha)である。

「百年あまり後、貴霜翕侯(きゅうこう)丘就却(クジューラ・カドフィセース)は残り4翕侯を攻めて滅ぼし、自ら立って王となり、貴霜王と号した。安息を攻め、高附を取った。また濮達、Ji-bin(ケイヒン)を滅ぼした。丘就却は八十余歳にして死んだ。子の閻膏珍(ウェーマ・カドフィセース)が代わって王となった。また天竺を滅ぼし、将軍を置きこれを監督させた。月氏はこれ以降強勢になり、諸国は貴霜王と呼んだ。漢は族その故号ゆえ大月氏と言う」(後漢書)

 その勢力範囲がチベット高原西部にまで及んでいたことがわかる。

 注目すべきは、上述のサカ人、月氏族などはイリ河、チュー河流域から西遷、南下した遊牧民族であり、一般にはインド・ヨーロッパ族・語族と考えられ、アーリア人とほとんど同一、おそらくインド・イラン語族東部支部イラン語支なのである。

 これらの民族は共通の起源地、共通の移動経路と目的地を有し、活動する地域もよく似ていて、文化関係も密接だった。そして強勢を誇ったアケメネス朝の政治的軍事的統治と深遠なる文化の影響を強く受けた。

 アレクサンドロス東征以降、中央アジアではギリシア化が進んだ。それとインド北西のガンダーラ美術の発展とは関係があった。とはいえもともとは、その流行はペルシア国内の話であり、ゾロアスター教を中心とする文化が維持されることで、影響を発揮しつづけた。この後セルジュク朝、大夏(バクトリア)、安息(パルティア)などの統治期、ゾロアスター教中心のペルシア文化は中央アジアの諸民族に多元性の文化を与えた。とくに大夏の全盛期、ここがゾロアスター教の起源地であったこともあり、その布教の一大中心地だった。

 前後二度にわたってアーリア人が大規模に南下したことによって、遊牧民の南下ルートが開発されたといえよう。彼らがどの程度チベット高原と関係を持ったかはともかく、古代インド北西部が彼らにとっての落ち着き先だった。アーリア人も、サカ人も、大月氏もこのようだった。

 こののちクシャーナ帝国は勢力をヒマラヤ山脈西部やインド北西部に伸ばしていく。その創立者はクジューラ・カドフィーセス(在位後25−30年頃)だった。彼は出兵し、インド北西のパロパミサスやガンダーラ、タキシラなどを征服する。彼のコインは大半がパンジコーラ河(Panjkora)流域の夏都カピサで鋳造された。

 クシャーナ帝国以降、サーサーン朝帝国のほか、相次いで中央アジアの雄を称し、チベット高原以西やインド北西を制圧したのはエフタルと突厥だった。前者は1世紀はじめにサカ人地域の北部に興った。4世紀70年代にはアルタイ山脈を西に越え、ソグディアナに入り、何度もペルシア帝国の領土を侵犯し、トハリスタンを占領することでペルシアの領土を奪取した。まもなくヒンドゥークシ山脈を南に越え、ガンダーラを占領し、インド・グプタ王朝との絶え間ない戦いがはじまった。

 5世紀70年代、ガンダーラに残存するクシャーナ朝の勢力を一掃し、ヒンドゥークシ以南の地を完全制覇した。全盛時にはクシャーナ朝の領土を超える広大な土地を支配下に収めた。

 6世紀半ば、かつて柔然の鍛奴人に治められていた突厥がアルタイ地区で立ち上がり、柔然を撃破し、その地を奪った。またたく間に強勢化し、西隣のエフタルに攻撃を加えるようになった。

 6世紀50年代末から60年代はじめにかけて、突厥・ペルシア連合軍はエフタルを挟み撃ちにして滅ぼし、両国はアム河を境界としてエフタルの国土を分割した。チベット高原以西とインド西北は突然、突厥の支配下に入ったのである。

 エフタル、突厥ともインド・ヨーロッパ族であり、インド・イラン語族東部イラン語支の異なる語族だったが、ペルシア文化を継承した中央アジアの民族であることでは一致していた(訳注:突厥語、すなわちテュルク語はインド・ヨーロッパ語には含まれないだろう)。このことは古代ペルシアとチベット高原の関係に影響を与え、相互交流を促したと考えられる。

 古代、チベット高原北部と北西部はインド・ヨーロッパ語系東イラン語族のサカ人の活動範囲だった。『漢書』「西域伝」は比較的詳しくサカ種について記述している。これらの国には、休循国、捐毒国、烏孫国などが含まれる。

 のち、前章で述べたように推移する。

「昔、匈奴が大月氏を破ると、大月氏は西へ行って大夏に君臨し、サカ王は南へ行ってJi-bin(ケイヒン)に君臨した。サカ種は分散し、往々にして数カ国に及んだ。疏勒以西の休循、捐毒はみなサカ種である」

 パミール地区とホータン地区はチベットと中央アジアを結ぶ重要な通路だった。この地域こそがサカ人の居住区であり、生活の場なのだった。

「言語学および研究成果から、ホータンや新疆のその他の地域の人々が話していたのはインド・ヨーロッパ語族イラン語東支のサカ語であることがわかった」(張広達、栄新江)

 彼らはチベット高原の古羌人や移り住んでいたサカ人と特別な関係にあっただろう。匈奴うあ大月氏に圧迫されて新疆からJi-bin(ケイヒン)に至ったサカ人も、チベット高原の民族とも密接な関係を維持していただろう。

 このほか、イラン語族で、チベット高原北部から高原に入ってきた民族は、漢文史書上では小月氏と呼ばれる。

 『史記』につぎのような記述がある。

「大月氏は大宛の西二、三千里にあり、ギ水(ギは女ヘンに為。オクソス河)の北に住んでいる。南は大夏、西は安息、北は康居で、遊牧民の国である。家畜を追って移動し、匈奴とおなじ習俗をもつ。弓を引く者は10万から20万ほど。

以前は強国で匈奴をあなどっていたが、匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を破った。老上単于の時代になると、匈奴は月氏の王を殺し、その頭蓋で酒を飲むための器を作った。最初月氏は敦煌と祁連山脈の中間にいたが、匈奴に敗れてからは遠くへ逃れ、大宛を通って西へ向かい、大夏を攻撃して支配した。

こうしてギ水の北に住み、そこを本拠地とした。その他の逃げ遅れた連中は南山の羌族地域を確保し、小月氏と名づけられた」

 西へ移動した大夏の5部落の首領のひとりとして、のち中央アジアの雄を称し、クシャーナ帝国を建立し、チベット高原にも多大な影響を与えた。

また直接チベット高原に入った小月氏は、チベットの各部落と密接な関係をもち、最後にはチベット人や他の民族のなかに融合してしまった。

 以上をまとめると、古代よりアーリア人(一部はすでにチベット高原に入っていた)が南下して以降、中央アジア・西アジアには多くの強国があいついで興った。「国家は主を替えやすし」という現象が一般化し、文化は豊富で複雑になった。

 しかしアラブ人のイスラム軍が中央アジア、西アジアを征服する以前、この広大な地域において、インド・イラン語族東部イラン語支、すなわち北方の草原から南下した遊牧民や、多かれ少なかれ二度の大規模移住をしたアーリア人が、突出した地位を占めていたことは明確である。

 つぎに彼らの文化は、ふたつのペルシア帝国(アケメネス朝とサーサーン朝)と同族の樹立した政権を通して、より強まり、長期間にわたって周辺地区や民族に影響を与えつづけた。

 このほか、チベット高原西部や北西部の周縁地域に居住したサカ人はアーリア文化の伝播者であり、同時に後世のチベットとペルシア文化の交流の中心的役割を負った。このように中央アジア、西アジアのペルシア文明はさまざまな方法でチベット高原との関係を維持したのだった。