シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

2章 シャンシュン及びその位置

 

2 シャンシュン、羊同の意味と女国との関係

 唐代の文献に出てくる「羊同(ヤントン)」はあきらかに音訳だが、元のチベット語が何かといえば、じつはまだ定説といえるようなものはない。ある人は、「羊同」は「シャンシュン」、すなわちチベット語の「Zhang zhung」の一種の音訳と考える。もし「羊」と「zhang」の母音が同じで子音が近いならもっともな説だが、「同」と「zhung」は母音が近いとはいえ、子音はかけ離れている。「羊同」=「Zhang zhung」には多くの研究者が賛同しているのに、音訳説は支持されていないのが現状なのである。

 佐藤長は、吐蕃の「dbus」に対し羊同は「gtsang」と認識している。ニャンチュ川(訳注 Myang chu)がツァンポ(gTsan poすなわちヤルツァンポ川)に注ぎ込む地点(シガツェ)から南は「Myang po」と呼ばれるが、これはもともとモンゴル語支の吐谷渾語であり、発音は羊同(iang dung)、ときには年同(nien dung)だという。

 佐藤長はまた大羊同国の中心地は現在のギャンツェ、すなわち「rGyal mkhar rtse」と考えた。その王姓は「姜葛(kiang kat)」であり「rGyal mkhar」に相当する。王は羊同の豪族ブロ氏(’Bro)の国ツァントゥ(gTsang stod)に属するとした。

 山口瑞鳳は、「羊同」はチベット語の「yar stod」だとした。キェンツェ・ワンポは『ウー・ツァン古跡指南』でラツェ(Lha rtse)より西を「yar stod」と呼んだ。しかしこれは地名ではなく、方位や地域を表す一般的な名詞だ。羊同国はチベットの西北、グゲ、チョグラ(Cog la)あたりに相当するだろう。

 「秣邏娑」の「洛護羅」はラフル(Lahul)であり、ペリオが言うとおり、ラダック地区の範囲内に見出せる。フランケは「秣邏娑」を「Mar sa」すなわち「Mar yul」地区と考えた。それはマユル・ラダック(Mar yul La dwags)とも呼ばれる。現在のレーを都とする地域である。

 中国の史書によれば、「秣邏娑」は大羊同にあり、ヒマラヤ山脈の北にある東女国の西に位置する。『ラダック王統記』(La dwags gryal rabs)は「秣邏娑」の東、あるいは北に有名なセルカ・グパ(gSer kha ’god pa)という場所があり、金を産すると記している。

 山口瑞鳳の結論は、ここは「金を産出する地」の「大羊同」であり、「東女国」の一部ということである。その西には「金人の戸口」(gSer po sgo)があり、南には「Gyin ’god (rgod)」があった。後者は『通典』「大羊同伝」の姜葛という名と関連があるかもしれない。

 下シャンシュン(zhang zhung smad)はグゲ(Guge)、チョグラ(Cog la)、チデ(Ci de)といった千戸部落にチツァン(sPyi gtsang)、ヤルツァン(Yar gtsang)などの千戸部落ツァントゥ(Tsang stod)が連なっていた。これはブロ氏の羊同国だった。

 上シャンシュンの境界はマルユル(Mar yul)であり、南の境はワムレ(Wam le或いは Han le)だった。これはラダックである。このように大羊同と東女国はほぼ同じ位置にあった。

 羊同のチベット語の原型を考えるとき、それがZhang zhungを指すのはまちがいないが、その音訳ではなさそうだ。しかし音を考えることによって合理的な解釈が可能かもしれない。山口説のほうが佐藤説よりも事実に近いのではないかと思える。「yar」は上部、あるいは西部を意味する。「yar stod」はヤルツァンポ川(Yar lung gtsang po)上流を指すのである。

あるいは羊同のチベット語の原型はyar stong(sdong)かもしれない。「stong」族は「蘇pi」(田ヘンに比 Sum pa)で、「sdong」族はチベット高原原始四部族のひとつである党項だった。その勢力、影響は甚大だった。彼らと羊同は同じ地域、あるいは隣り合って住み、密接な関係を持っていた。羊同(シャンシュン)の東、あるいは下部、すなわちチベット語のmarと、西、あるいは上部、すなわちyarとの間には境界があり、その結合点に「stong(sdong)」部族があることは唐の人々にもよく知られていた。羊同、蘇pi、党項の間には事実上密接な関係があった。トン(ドン)に方位詞のyarを加えることで、新しく朝貢をはじめた国を「Yar stong」あるいは「Yar sdong」すなわち羊同と呼ぶようになったのだろう。ただしZhang zhungの位置は「stong(sdong)」の上方であり、「stong(sdong)」族ではない。チベット語の文献ではこのあたりはまだ確かめられていない。「yar sdong」と「zhang zhung」を同一視するまでにはなっていないのだ。

羊同と女国とシャンシュンの関係を見るとき、われわれは羊同とシャンシュンは同一だと考えがちである。女国と羊同となると、もうすこし複雑だ。

史書が示すごとく、チベット高原にはふたつの女国があった。東の女国(史書では東女あるいは東女国)はチベット高原の東にあり、西の女国(史書では東女国あるいは女国)はチベット高原の西にあった。両者とも女王の姓は「蘇pi」で、風俗、物産、制度はまったく同じ、ただし地形は異なっていた。

前者は「その境まで東西九日、南北二十日ほど行く。大小の八十余の城がある。その王、康延川に居住し、中に弱水があり南に流れる。牛皮で舟を作り渡る」。

 後者は「東西に長く南北に狭い」。

 本題とより関係が深いのは後者である。複数の中国の史書が記すだけでなく、カシミールの古書もそれについて書きとめている。その方位はヒマラヤ山脈より北、ラダックより東、ホータンより南である。大羊同国と女国の領域について書いた史書を読むと、たとえば『釈迦方志』は両者を完全に同一として扱っている。ただしチベット語の文献となると、羊同とシャンシュンは同一視しているが、「蘇pi」(Sumpa)の女国は異なるものとして扱っているのだ。中国の史書の記述となると、同一とする場合もあれば、同一でないとする場合もある。

 

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