シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第3章 ペルシア文明とシャンシュンの関係

 

1 色とりどりのペルシア文明

 チベット高原の西方には広大な中央アジアと西アジアが広がっている。ここは人類文化の繁栄の地であり、東西文化が交流する結節点かつ融合帯である。人類史上名を馳せる四大文明のひとつ、両河(チグリス・ユーフラテス)流域のバビロニア文明もここにあった。この文明と黄河流域の華夏文明、ガンジス河流域のインダス文明の間には縦横に血脈のような通路が通り、三大文明をつなげ、中央アジア、西アジアの沃土を潤した。

 中央アジア、西アジアの文化はきわめて複雑で、世界に影響を与えた宗教もみなここに誕生した。その歴史もまた複雑きわまり、無数の民族が登場しては雄を称し、ほどなく消えていった。しかし古代にはひとつだけ多大な影響をもたらした帝国とその文明があり、六、七百年にわたって中央アジア、西アジアに君臨した。それがペルシア人によって建立されたアケメネス朝ペルシアとサーサーン朝ペルシア、およびペルシア文明である。

 インド・ヨーロッパ語族イラン語支に属するペルシア人は、紀元前二千年代末に中央アジアの草原地帯からイラン高原西南のファルス地区に移動してきた。そのときは四つの遊牧部落と六つの農耕部落から成っていたという。それら外部から来た部落と現地の部落が混合し、アーリア人を形成し、アーリア人国家ができあがった。イランという語もアーリアンから派生したのではないかとみる学者もいる。

 ヘロドトスの『歴史』等の史書を見ると、紀元前10世紀から9世紀頃、イランでもっとも古い、ペルシア人によるメディア国の記述がある。メディアは前605年、アッシリア帝国を滅ぼし、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス河地区)北部を占領し、ウラルトゥ国(アルメニア)を征服し、小アジアに侵入した。しかし前550年、ペルシア人部落の首領キュロスによって滅ぼされた。

 メディア王国を滅ぼしたキュロスは前550年にアケメネス朝を樹立、都をスーサ(現イラン・フーゼスタン省)に定めた。その後国外に向かって拡大し、小アジア、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス河)、シリアを占領した。さらに前549年から539年にかけて、キュロス2世治世のとき、イラン東部から中央アジアに侵入し、バクトリア(大夏)、ソグド、ガンダーラ、カピシーなどを攻めた。そのなかでもカブール河下流域のガンダーラは、パンジャブ北部のペシャワールやラワルピンディを含み、プルシャプラ、すなわち現在のパキスタン・ペシャワールを都とした。カピシー(カピサ)は唐代のけいひん(けいは四+厂+炎+リ、ひんは賓)あるいは劫国。いまのアフガニスタン・ベグラム。かつてクシャン朝の夏の都であり、サーサーン朝ペルシアの属地だった。

 これらの地方は、カシミールやインド北部、チベットを結び、古代において交通・文化の要衝の地だった。ダレイオス1世(558486)の統治期がアケメネス朝の最盛期で、前517年にはインド西北部に派兵し、インド行政省を設置した。彼は中央集権体制を整備し、行政省と総督を置き、常備軍を作って守衛にあたらせ、貨幣を鋳造し、道を建造して駅を置いた。

 外に向かって領土を拡大し、東はインダス河、西は黒海北岸のトラキアまで攻め、ギリシア・ペルシア戦争を起こした。半世紀近くつづいた戦争に敗れ、以後ペルシア帝国の勢力は衰えた。

 前333年、ダレイオス3世はマケドニアのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王に破れ、前331年殺され、ここにペルシア帝国は滅亡した。

 ペルシア帝国瓦解後、ペルシア人はマケドニア(アレキサンダー)帝国、セレウコス朝(シリア王国)、アルサケス朝(安息、パルティア)の統治下にあった。226年、アルダシール1世(?−241)はパルティアを滅ぼし、クテシフォン(現在のバクダッド付近)を都とするサーサーン朝を建てた。その後東へ向かい、シースターンのホラーサーン(イラン北東部)やメルブ(現在のトルクメニスタン)などを征服した。

 5世紀になると、エフタル人と何度も戦火を交えた。7世紀、勢力が衰え、アラブ人の侵入を許した。637年、都クテシフォンが陥落し、651年、滅亡した。

 ペルシア帝国といえばその軍事力で名を馳せるが、文化事業においても称えられている。ペルシア帝国の文化は、彼ら自身の文化の基礎の上に、チグリス・ユーフラテス河地域の爛熟した文化を吸収し、形成されたものだ。バビロニアの農業、手工業、建築、宗教、芸術、文字等の卓越した文化に、アケメネス朝の栄養分を加えて、肥沃な土壌の文化が成り立った。

 前6世紀から5世紀頃に建てられたペルセポリス(現在のシーラーズの北方)の巨大王宮にはダレイオス1世の謁見の間、クセルクセス1世の百柱の間、翼のついた聖牛像の宮門などが残り、また白雲石のアッシリア式浮彫などは壮麗で雄大である。

 帝国の都はスーサ、ペルセポリス、バビロン(バグダッドの南)、エクバタナ(現在のハマダン)だった。メソポタミアの楔形文字はアケメネス朝にも継承され、有名なビヒストゥーン岩のダレイオスの碑文にも楔形文字が用いられている。

 中央アジアの民族、たとえば大夏(バクトリア)人、ホラズム人、ソグド人、サカ人などはアケメネス朝の輝く文化の創造のなかで大きな役目を担った。ペルシア文化はこのように多彩で、輝きを放ち、発展した。

 かつてソ連の学者ギャフロフはつぎのように述べた。

「中央アジアの諸民族の文化はイラン西部の諸民族に重大な影響を与えた。人はアケメネス文化を賞賛するが、それはペルシア人だけが創造したのではなく、多くの民族が創造したものといえる。そのなかにはバクトリア人、ソグド人、ホラズム人、サカ人も含まれている」

 このように、これらの民族の文化はペルシア帝国の文化の成分だったのである。

 ペルシア帝国の文化のなかでもっとも特徴的であり、影響力が大きかったのは、その宗教、ゾロアスター教(拝火教、パールシー教)だろう。伝承によると、その創始者ゾロアスター(前628551)、古代ペルシア語のツァラトゥストラ(ザラスシュトラ)の原意は「老いたラクダ」だという。

 ゾロアスターの出生地に関しては、2説ある。すなわち西部説と東部説である。前者はアゼルバイジャンを指し、宗教の伝統的な見方である。後者はイラン東部のバルフを指し、ここで生まれたとする。ただし、前者の説では、アゼルバイジャンで生まれたが、「神主」の啓示はバルフで現れ、国王ウィシュタースパを説服し、教義を広めたともいう。

 いずれにせよ、ゾロアスターの宗教が発達した地域は、バクトリア(大夏)の都バルフ、あるいはイラン東部のシースターンだった。ゾロアスターは神権代表のマグス(マゴイ、司祭階級)の迫害にあいながら、中央アジアのバクトリアに来ると、国王ウィシュタースパの礼遇を受け、大臣たちは彼の女を娶った。国王、大臣の庇護のもと、ゾロアスター教は急速に広がり、ペルシア東部から西に向かって伝播した。

 紀元前6世紀後半、ダレイオス1世はゾロアスター教をペルシア帝国の国教と定め、ならびにアフラ・マズダーを主神として崇めた。ダレイオス1世のナクシ・ルスタムの碑文やスーサの碑文中には等しく「偉大なる神アフラ・マズダーによって大地と天空が創造された。また人類と人類の幸福が創造された。またダレイオスを王、王のなかの王、号令者中の号令者とした」と書かれている。

 ダレイオス1世の子クセルクセス1世のペルセポリスの碑文もそれを踏襲し、つぎのように書かれている。「偉大なるアフラ・マズダーは、大地と天空を創造し、人類と人類の幸福を創造した。またクセルクセスを王、唯一の王、唯一の号令者とした」

 パフラヴィー語文献、たとえば『ザードスプラム選集』やイスラム期のアブー・ライハーン・アル・ビールーニーによると、ゾロアスターの生没年はおよそ前660−583年で、これはイランの学者の伝統的な観点である。

 もしこの説が間違っていなかったら、この宗教が勃興したあと、ペルシア帝国以前にすでに150年にわたって流行していたことになる。

前4世紀にアレクサンドロス大王がペルシアを征服すると、ギリシア化がはじまり、ゾロアスター教は大きな打撃を受けてしまう。とはいえ、依然として紆余曲折を経ながらも、発展をつづけた。

 3世紀、サーサーン朝ペルシアが建てられると、ゾロアスター教はふたたび勢いを取り戻し、国教の地位を築いた。サーサーン朝の国王は教主を兼任し、アフラ・マズダーの祭祀長および霊魂の救世主を自称した。その主張は、教会と国家はひとつの母体から生まれたというものだった。このようにゾロアスター教は新国家の精神的支柱となり、文化の面貌にも大きな影響を与えた。

 7世紀、サーサーン朝はアラブ人によって滅ぼされ、ゾロアスター教徒はイスラム教への改宗を迫られた。ただし宗教そのものは滅亡したわけではなく、イラン南部のヤズドやケルマン、インド西海岸のムンバイなどにはゾロアスター教の信仰組織が残っているのである。

 ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』は、さまざまな時代の経典を集成したものである。そのなかでももっとも古い経文はガーター(神歌の意)であり、『アヴェスタ』の中心を成すのはヤスナ(賛歌と祈祷集)だった。それらはアケメネス朝以前の古代ペルシア語で書かれ、古代インドのヴェーダに近かった。

 後期になると経典、すなわち『ヴェンディダード』(祭祀儀軌典籍)や『ヤシュト』(賛歌)、『ヴィスプラト』(長老への祷詞)などは中世のパフラヴィー語で書かれていた。

 『アヴェスタ』のなかでももっとも後期の経文はバンディッシュだった。そのなかには創始者ゾロアスターの生涯と世界の終末の予言が書かれていた。

 『アヴェスタ』が成立したのは、前7世紀から6世紀にかけてといわれる。古代ペルシア人は金液を使って1万2千枚の牛皮の上に記し、宝庫に保管したという。しかし前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王はそれらをすべて焼いてしまった。

 3世紀、パルティア国のバラーシュ1世は残存している経文を収集するよう命じた。(訳注:バラーシュ1世の在位は484488で、サーサーン朝)

 3世紀、サーサーン朝国王アルダシール1世(在位226240)は経文を収集・整理し、ゾロアスター教祭司によって21巻のパフラヴィー語(34万5千700字)の『アヴェスタ』が完成した。

 7世紀半ば、イスラム教徒のアラブ人がイランに侵攻し、サーサーン朝を滅ぼした。ゾロアスター教の聖典も難を逃れることはできなかった。現在残るのは、わずかに14万字にすぎない。聖典はクルアン(コーラン)にとって替わったのだった。

 『アヴェスタ』の主旨は、本源である光と闇の真っ向から対立する二元論である。前者の化身は光明であり、善の神、すなわちアフラ・マズダー。後者の化身は闇であり、悪の神、すなわちダエーワ。

 光明神の首領はアフラ・マズダーだが、それと対立する悪神の首領はアンラ・マンユ。このふたつの神によって世界の万物は創造された。

 アフラ・マズダーは光明、清浄、理知、沃土、家畜などを創造する一方、アンラ・マンユは不潔、邪悪、痩地、猛獣、毒蛇、害虫などを創造した。

清浄なる元素は土、水、そしてとくに火である。これはアフラ・マズダーが創造した。一方、疾病、死亡、不妊などはアンラ・マンユの発明。両者の戦いがやむことはない。

 『アヴェスタ』の呼びかけ人は光明や神霊に帰依し、アフラ・マズダーを崇拝し、ダエーワやその創造したものに対抗する。

 後期ゾロアスター教の神話中、闘争のために、アフラ・マズダーは大天使、小天使のほか、属神や守護神を創造した。それには日、月、土、風、星、空などのほか、忠誠、公正、信義、勝利、寛大、貞節、安寧、智慧、真言、教法なども含まれた。

 牛は善思、火は天則と正義、金属は王国と理想の境界、水は完善、植物は不朽を象徴した。

 ゾロアスター教は善悪応報、霊魂の転生、末日審判、および天と地獄の説を主張した。キリスト教やイスラム教などのちの宗教に深く影響を与えた。

 ゾロアスター教は中国にも入り、唐朝の都長安およびその近辺に教堂を建立し、古代中国人の精神生活に多大な影響を与えた。それはチベットにも入った。おそらく南北朝の時期とされる中原よりも早かったと考えられる。