シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第3章 ペルシア文明とシャンシュンの関係

 

2 ペルシア帝国の東の境界

 ペルシア帝国の領土は現在のイランを中核としているが、所轄する地域となると、はるか遠くにまで及んでいた。シースターン山の高さ105mの崖の岩に古ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三種の楔形文字で刻まれた碑文があった。

<ダレイオスいわく、以下の地域、すなわちペルシア、エラム(フーゼスタン)、バビロニア、アッシリア、アラビア、エジプト、沿海(地中海)諸地域、サルディス(リディア)、イオニア、メディア、アルメニア、カッパドキア、パルティア、ドランギアナ(シースターン)、アレイア(ヘラート)、ホラズム、バクトリア、ソグディアナ、ガンダーラ、サカ(スキタイ)、サッタギュディア、アラコシア、マカ、総じて23ヶ所、これらはみなわれが所有する。アフラ・マズダーのご加護によって、われは彼らの国王となれり>

 ダレイオス1世がとどめたその他の碑文、たとえばペルセポリスの碑文、ナクシ・ルスタムの碑文、スーサの碑文、それらはどれもおなじ内容だった。それにはさらにあらたにインドなど新しい管轄地が加わった。

 ダレイオス1世の子クセルクセス1世のときのペルセポリスの碑文にはつぎのように書かれていた。

<クセルクセス王いわく、アフラ・マズダーの加護により、われはペルシアによって以下の国王と成ることができた。すなわち、メディア、エラム、アラコシア、アルメニア、ドランギアナ、パルティア、アレイア、バクトリア、ソグディアナ、ホラズミア、バビロニア、アッシリア、サッタギュディア、サルディス、エジプト、海辺のあちこちに住むイオニア人、マカ(マクラン)人、アラビア人、ガンダーラ、インド人、カッパドキア、ダハエ人、麻汁を豪飲するスキタイ人、とんがり帽子をかぶったスキタイ人、スクドラ人、アカウファカン人、カリアン人、エチオピア人の王である。われは彼らを統治し、彼らはわれに貢納する。われは彼らに命じ、彼らはそれを執行しなければならない。われは法律を制定し、彼らはそれを遵守しなければならない>

 その属する土地が広大で、その権威がとどろいていたことがよくわかる。

 上述の地域のなかで、ペルシア東部にあったのは、ガンダーラとインドであり、黒海・カスピ海から中央アジアにかけては、カッパドキア、パルティア、ダハエ、麻汁を豪飲するスキタイ人、とんがり帽子をかぶったスキタイ人、スクドラ人、アカウファカン人、およびバクトリア、ソグディアナ、ホラズミアなどである。

 これらの地域は、チベット語資料のなかの内シャンシュンの範囲であり、あるいは境界を接していたとも考えられる。

 新ペルシア帝国、すなわちサーサーン朝は安息国を滅ぼし、その上に建てられた国である。安息王朝(前247−後226)の境界は、最盛期には、西はイラン高原西部およびメソポタミア、東は大夏(バクトリア)のマルギアナやインド北西部を含んだ。それらはシルクロードの重要地点だった。この独特な位置および熟した文化は、サーサーン朝に引き継がれた。同様にペルシア帝国の東部は内シャンシュンの範囲内だった。これは5世紀のことであり、エフタル人が中央アジアやアフガニスタンに侵入してからは、情勢も微妙に変わる。