シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第3章 ペルシア文明とシャンシュンの関係

 

4 アレクサンドロス大王の東征

 アレクサンドロス大王東征は中央アジア史における一大事件である。古代ギリシアの作家アッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』によれば、アレクサンドロスのマケドニア軍はインドにまで遠征し、インダス河流域に達すると、ヒマラヤ山上の木を切り、橋を造って河を渡ったという。

 アラブの学者イブン・フルダーズビフによると、アレクサンドロス大王とチベットのあいだにはすでに密接な関係があった。

 

<チベット(Al-Tubbat)に至る。彼らは九姓ウグスの右側の南方に住んでいた。はじめアル・イスカンダル(アレクサンドロス)はインドの国王フル(Fur)を攻撃し、殺した。インドには7ヶ月駐留した。アル・イスカンダルはまたチベットと中国に向け軍隊を派遣した。大軍が通過した東方の諸国家の君主たちは、彼がペルシアやインドのダラ(ダレイオス)やフルに勝ったこと、彼が公正であること、またその名声を聞き、使節を送った。そして彼らは臣下として服従し、貢納することを知らせた。

 アル・イスカンダルは自分に忠実な兵士3万人をインドにとどめ、自分は軍隊を率いてチベットへ向けて出発した。チベットの諸王中の王は彼を歓迎し、敬意を表し、こう告げた。

「公正にして、敵に完全に打ち勝った国王よ。あなたが真主の意思に基づいて事業を成し遂げたことを存じています。あなたに敵対する意思はなく、すべてのものを献上いたしましょう。またあなたと戦うことは望みません。あなたと戦うことは、真主に反することになるからです。真主と戦った者はすべて失敗しております。われ、わが人民、ならびにわが統治する国家はすべてあなたのもの。あなたに差し出しましょう」

 アレクサンドロスはうまい言葉遣いを使って答えた。

「だれが真主の権威を知ることができましょうか。われらには真主を保護する責任があります。わたしはあなたがわが公正さと信義を見て満足されることを願います」

 彼はアレクサンドロスを突厥人の荒野に導いたので、諸城の突厥人はみな服従した。チベット王はアレクサンドロスに従い、贈り物を献上すると、アレクサンドロスはそれが多すぎて止めねばならなかった。彼はアレクサンドロスに4000ウィクルの金、また麝香を贈った。アレクサンドロスはその麝香の十分の一をペルシア王ラダ(ダレイオス)の娘である妻のルシャンクに贈った。また麝香のほとんどは仲間(自軍の将校)たちに与えた。金は彼の金庫にしまわれた。

 吐蕃王は進言し、中国に向かって進攻することができると言った。また王は息子のマダビク(Madabik)を王位の継承者に指名した。アレクサンドロスは近臣の者と吐蕃王に1万の兵を率いさせ、中国へ向かった。アレクサンドロスは大軍を率いて進んだ。

 (……)中国の国王は服従を表示し、要求を満足させるために国土の十分の一をアレクサンドロスに献上した。そのほかシルクや宝剣、器物を献上した。アレクサンドロスはいたく喜び、それら贈り物を受け取った。宝剣の数は百万柄、シルクは百万塊、白銀は百万マナもあった。

 アレクサンドロスはその地に駐留し、石の城砦を造った。この城砦に彼は5千人のペルシア人を置いた。首領は彼の部下の将軍でバヌクリディス(Banuklidis)という名だった。

 アレクサンドロスは中国のほうへ、つまり北方へ向かった。中国の首領とともにシュル(Shul)に至り、そこを征服した。二つの城砦を築き、ひとつはシュル、もうひとつはハムダン(Khamdan)と呼んだ。彼は自分の軍隊を率いる中国の首領にハムダンに駐留するよう命じ、また自分の部下の将軍にシュルに駐屯するよう命じた。

 そのあと彼は荒野に進み、突厥人を攻め、征服した。(……)突厥は諸城の主人であり、偶像崇拝者だった。

彼はまたソグディアナにやってきた。そこにサマルカンドを建て、ダブシヤフ(Dabusiyah)に治めさせ、遠方のアレクサンドリア(Iskandariyatu al-Quswa)と呼んだ。

 彼はそれからブハラ(Bukhara)へ行き、ブハラ城を建てた。またマルヴ(Marw)へ行き、マルヴ城を建てた。

 またヘラート(Harat)とザランジ(Zaranj)というふたつの町を建てた。またジュリアン(Jurian)に来て、ラッイ(al-Rayyi)、イスバハン(Isbahan)、ハマダン(Hamadhan)の建造を命じた。

 その後彼はバビロニアにもどり、何年間かをそこですごした。>

 

 この記事はいきいきと描かれているが、真偽を見極めるのはむつかしい。この文は何に依拠しているのだろうか。歴史的事実と符合するだろうか。これらには後世の憶測や想像が入り混じり、事実に欠けるように思われる。チベットの有名な麝香や金、中国のシルクなどは付加されたものだろう。中国の町、たとえばシュルは、漢代西域の疏勒、現在の新疆カシュガルである。これらからしても疑問点が多く、史実として信じることはできない。

 とはいえ、これらの記述には無視できない面もある。アレクサンドロスがインドおよび中央アジアにやってきたのは間違いなく、その勢いの波はチベット高原まで押し寄せただろう。チベットの先住民がアレクサンドロス軍に脅威を感じたのは当然だった。

 つぎに考えられるのは、アレクサンドロス軍東征によってチベット周辺のペルシア人やイラン東部の人々が周囲に逃げ、一部がチベット高原にやってきたかもしれないということだ。

 またゾロアスター教徒の目には、アレクサンドロス大王は極悪非道の悪魔と映り、史書上では「マゴスを殺す者」(mwrzt)と呼ばれた。マゴスたちは大王をアンラ・マンユとみなしていたのだ。

 アレクサンドロスがペルシアの大都市ペルセポリスを占領したとき、俘虜を処刑し、建築物は壊し、男は殺し、女は奴婢とした。同時に数多くのマゴイを殺害し、彼らが崇拝する聖火を消した。この巨大な軍事圧力のもと、チベット高原西部や西南部のゾロアスター教徒は活路を見出すべく、近くのシャンシュンに逃げ込んだかもしれない。