シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

2 タジクはペルシア

 チベット語の文献のなかで、とくにボン教文献中、つねにチベット高原西方の国家あるいは民族が言及される。タジク(sTag gzig)である。「sTag」のチベット語の意味は虎、「gzig」は豹。クエルネらはその見方をし、『王統明鏡』の記述からタジクは有名なオルモルンリンとみなしている。

 現在一部の学者は両者を区別しているが、オルモルンリンと(綴りの違う)「rTag gzigs」は同一だと考えている。

 われわれの観点は異なり、「rTag gzigs」は同一音だが、縁起のいい綴りを借用したにすぎないとみる。

 一部のボン教学者はこの綴りをそのまま訳して「虎豹」の意味とし、タジクは「虎豹の地」と解釈している。

 われわれはこの「sTag gzig」を「虎豹の地」とする見方には賛同しない。というのは第一に、チベット語の2語をみるに、ひとつの地名を指しているからである。第二に、これは音訳の地名であること。すなわち「sTag gzig」は音訳であって、チベット文字を解釈することはできないのだ。たとえば『敦煌本吐蕃歴史文書』のなかでは「ta chig」という綴りになっていて、これの意味を解釈することはできない。第三に、「sTag gzig」はペルシア語の音訳であること。その原形は「Tajiks」あるいは「Tazi」である。イラン種族の名称である。第四に、タジクは中央アジア、西アジアの歴史的にも重要な大国家であり、チベット高原とも遠くなく、つねにチベット人やその先人の念頭にあったはずであり、タジクと「虎豹の地」を混同することはなかった。

 チベット語文献をみると、チベット文字が規範化されて以来、タジク(sTag gzig)ははイスラム教を奉じるアラブ帝国か、アラブ人が征服する以前のペルシアを指した。チベット人にはその両者とも密接な関係があった。

 『王統明鏡』によれば、大臣ルトンツェンが唐の文成公主を迎えに行ったとき、タジク財宝王(sTag gzig nor gyi rgyal po)もまた求婚をしていた。このタジクはペルシアである。タジクを虎豹の地と解釈したことから、われわれはチベット人の西方に対する知識が十分でなかったと考えるべきだろうか。実際は、彼らはタジクがペルシア人であり、のちアラブ人を指すようになったことをよく理解していた。

 ペルシア語の「Tajiks」や「Tazi」は民族を指しているが、それははるか古代からあったことばで、漢文の文献中にも見出される。それは『後漢書』「西域伝」の現在のイラク領にあった「条支」である。前漢の和帝永元九年(後97年)、西域都護班超は甘英を大秦(東ローマ)に派遣したが、条支の抵抗にあい、海のルートで戻ってきた。

 また『魏書』「波斯国伝」は「波斯国、都は宿利城、ニュミシの西にあり、古の条支国なり」と述べる。

 唐代、滅亡したサーサーン朝にかわって中央アジア、西アジアの雄となったアラブ帝国を「大食」あるいは「多氏」と呼んだ。これはチベット語文献中、ペルシアやアラブ帝国をタジクと呼ぶのと軌を一にしている。タジクは大食であり、波斯なのだ。