シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

3 ユンドゥン・ボンはタジクから来た

 ボン教の文献によれば、シャンシュンのボン教はタジクから、ボン教開祖シェンラブもまた西方のタジクから、矢の道を通ってやってきたという。そうするとわれわれはつぎのように言わざるをえない。ボン教はタジク(ペルシア)から来た、と。このことは、まったく根拠がない、というわけにはいかない。

 その一。ユンドゥン・ボンの起源地はタジクのオルモルンリンである。伝統的にオルモルンリン('Ol mo lung ring)のオルは「誕生しない」、モは「永遠で衰えない」、ルンは「シェンラブが授記したところの」、リンは「シェンラブの永遠の慈悲」を表すと解釈されている。

 オルモルンリンはひとつの具体的な地点である必要はなく、ある種の象徴的な場所であろう。おそらくそれはボン教聖地であり、タジクのなかと考えられる。

 伝説によればオルモルンリンは世界の面積の三分の一を占め、八弁の蓮華の形状をしていて、これに対応して天空にも8個のスポークの輪形が現れ、大地には九層のユンドゥン山がそびえる。

 山麓から四つの方向に四つの川が流れる。東のガンジス川は獅子形の岩から流れ出す。北のパグシュ川は馬形の岩から流れ出す。西のシタ川は孔雀形の岩から流れ出す。南のインダス川は象形の岩から流れ出す。

 聖山付近には、百余りの寺院、城市、園林などがある。山の東にはシャンポラツェ廟、南にはパポソギャル宮(これはシェンラブ生誕の地)、西にはチマンギェルシェ宮(これはシェンラブの妻ホルサ・ギェルシェマ居住の地であり、息子のドプ、チャプ、ネポウチェン誕生の地。北にはコンマ・ネウチョン宮、シェンラブの別の妻ポサ・タンモチュの地。シェンラブの別の3人の息子、ロンリ、チュリ、ネウチョンはここで生まれた。

 九層のユンドゥン山とこの四つの中心がオルモルンリン内の内部洲を形成した。これらの地名を地図の上に確定するのは困難をきわめるが、現在の西チベット(ンガリ)か、はるか西方のどこかと見て間違いはないだろう。

 ボン教歴史家サムテン・カルメイは推測として断りながら、つぎのような考えを示した。すなわちンガリ地区のボン教聖地であるティセ山(カイラス山)こそがユンドゥン山であり、シャンシュンの中心である。

14世紀の重要な著作『根本論日光明灯』(rTsa rgyud nyi zer sgrom me)はオルモルンリンをティセ山と同定していた。この書によると、東には中国、南にはインド、西にはウギェン(ウッディヤーナ)、北にはリユル(ホータン)があった。

 1964年、ボン教学者テンズィン・ナムカは一冊の小冊子を出版した。それにはチベット語とシャンシュン語の対照辞典と年表、オルモルンリンの地図が付録としてついていた。ソ連の学者B・L・クズニェツォフらはこの地図を深く研究し、それが古代チベットの地図であることを知った。地図中の位置関係から、それが紀元前のキュロス統治下の中東とペルシアに非常に似ていることがわかったのである。地名や宮殿名がペルシア語の転写であることを認識し、地図の最西部がエルサレムであることを理解した。これらのことはカルメイ本人に言わせれば、「この研究はボン教の伝説と符合する」のである。

 ボン教史と伝説からその聖地をタジク、すなわちペルシアのオルモルンリンとみなす仮説については、ボン教研究者らがさまざまな角度から分析を行なってきた。

 サムテン・カルメイは言う。

「その世紀以来、ボン教徒はオルモルンリンがタジクにあったと称しはじめた。それはシャンシュンにあったのか? その根拠は何なのか? 発見された文献や碑文からは、10世紀以前にその地名があったのか、それがどこにあったのか、確たる証拠を見つけることはできない。別の角度から見ると、チベットでは考古学の発掘も進んでいないし、文献収集も遅れを取っているという面がある。チベットの王ランダルマが暗殺され、それに伴い吐蕃王朝が崩壊して以来、10世紀初頭までは、チベット史上もっとも暗澹とした時代だった。

 人々は何が起こったか、事態を把握していなかった。その時期のチベットに政治宗教ともそろった国家があった形跡はまったくなかった。10世紀はじめ、チベットでふたたび仏教興隆の機運が盛り上がると、インドから新しい仏教の教義が入り、経典の翻訳もされるようになった。

 これらのことはボン教徒を刺激し、自分たちの地位を見つめ直すきっかけになった。ボン教の起源地は、特別の場所でなければならなかった。彼らは、7世紀以来のチベット人は賞賛すべき存在だと考えた。シェンラブ・ミボの生まれたオルモルンリンを領土内にもつ、古代文明の栄えたタジク(ペルシア)という国がふさわしかった」

 カルメイはつづける。

「ともかく、経典によると、オルモルンリンのなかには川が流れていた。現代の地理の知識からすると、ティセ山からそれらの川は流れ出していた。これはまさに9層のユンドゥン山である。ティセ山はシャンシュンの中心であり、ボン教の文献とも合致する。ボン教とボン教に似た信仰・宗教はここを起源とするといえるだろう。

 またこの地域はシャンシュン語とチベット語によって書写されたボン教経典を擁する。一部の学者によれば、シャンシュン語はボン教徒自らが創った言語だという。現代のラダック、キナウル、およびチベット西部にはふんだんにシャンシュン語が残っていて、この点は注目に値する」。

 われわれはボン教の起源地がタジク・オルモルンリンだとするボン教史文献や伝説を軽視することはできない。ティセ山がボン教において重要であることは、シャンシュン・ボン教においてのみ言われてきたことだが、後世、シャンシュン・ボン教が特有の状況のなかで発展してきたことを反映していて、それとボン教がタジクから来たという説と矛盾しないし、否定されるわけでもない。

 別の角度から見ると、チベット史においてシャンシュンは広大な領土をもち、パキスタンやアフガニスタンの一部もまた含まれていた。つまりペルシアの領域も蚕食していたことになる。この意味からも、ボン教がシャンシュン内に生まれたということは矛盾していない。ただしシャンシュンと現在のチベット自治区阿里とを同一とする説とは矛盾してしまう。

 その二。伝説によると、シャンシュン・ボン教開祖シェンラブ・ミボはタジクから来た。チベット語史書にはある種の流行があった。すなわち、ボン教開祖シェンラブ・ミボはタジクのオルモルンリンに生まれ、シャンシュンに来て教えを広めた。そればかりかチベット中央部まで、つまりヤルルン谷まで行った。

 時期の早いものでは『デウ教法史』や『王統明鏡』もこの説を踏襲している。後者いわく、吐蕃国王(ツェンポ)プデグンギェル(sPu de gung rgyal)、大臣ルラキェ(Ru la skyes)のとき、すでにユンドゥン・ボンがあり、その教主はシェンラブ・ミボだった。彼はタジクのオルモルンリンの生まれだった。彼は天界八部などボン教の一切の教法をシャンシュン語に翻訳し、広めた。この時期はおおよそ紀元1世紀頃のことである。

 ボン教文献が明確に記述している史実がある。ボン教経典の『セルミク』(gZer mig テルマ。11世紀頃の成立か)やシャルザ・タシ・ギェルツェンの『嘉言庫』(Legs bshad rin po chei mzod dpyod ldan dga bai char)などに記されるのは、シェンラブ・ミボはタジクのオルモルンリンに生まれ、シャンシュンに来たあとチベットのコンポ地区へ至り、法を広めた。このことはシェンラブとタジクの関係が直接的であったことの有力な証拠といえる。少なくとも、簡単に否定することはできない。

 もちろんチベット史のなかには、シェンラブの故郷をティセ山(カイラス山)付近とする説も多い。ただしタジク説のような普遍性と広範性には欠けている。またもしチベット史中のシャンシュンがバダクシャン、バラク、ペルシアなどを領土に含むなら、シェンラブがシャンシュン人だと言って非難されるだろうか。

 われわれはつぎのことを指摘したい。チベット史のなかでシャンシュンについて述べるとき、それはペルシアを包括しているのである。ただし、ペルシアやタジクについて述べるとき、シャンシュンは含まれないのだが。つまり両者はある時期重複していたか、前後してひとつの地域を治めていたということなのだ。

 シャンシュンの領土は非常に広大で、前述のように、内、中、外に三分され、歴史の長い強大な王国をなしていたはずだが、中央アジアの国々の文献にその記載はなく、とくに権威あるペルシア語文献やサンスクリット文献にもなかった。

 人々はその誇張を疑い、記載もないことから、別の可能性を考えることになる。つまりシャンシュン、とくに広大な中央アジアのシャンシュン王国は、いわば宗教的概念であり、実体のある国家や政権ではない、あるいは完全に実体があるわけではない、ということなのだ。

 その三。シャンシュンのボン教経典もまたタジクからもたらされた。ボン教の教理と儀軌もタジクからもたらされた。『王統明鏡』に記されるように、タジク・オルモルンリンのボン教教主シェンラブ・ミボは天界八部のボン教の一切の教法をシャンシュン語に翻訳し、布教につとめた。

 ボン教の文献によると、ボン教の古代語の経文と、のちのボン教教義は、六人の各国の訳経師によって「同一でない文字に写され、永久の神の言語に翻訳された」。

 古代語とは教主のことばである。またボン教の教義には三種の表現方法があった。これはシェンラブがこの世を去ったあと、オルモルンリンで発達したものという。ムチョ(Mu cho)の指導のもと、ボン教の三大智慧に精通した六人の訳経師は、経典を持って家に帰り、翻訳するとまた戻ってきた。

 『経集』(mDo dus)や『根本タントラ日灯』(rTsa rgyud nyi sgron)によると、この六人の訳経師とは、タジクのムツァタヘ(dMu tsha Tra he)、シャンシュンのティドク・パツァ(Khri thog sPa tsha)、スムパのフル・パレク(Hu lu sPa legs)、インドのラダク・ンガクド(Lha bdag sNgags dro)、中国のレグタン・マンポ(Legs tang rMang po)、プロムのセルトク・チェチャム(gSer thog lCe byams)だった。彼らは師のムチョから真伝を伝授された。

 しかし史書によっては情報が異なっている。たとえば『ダクジャン』(bsGrags byang)によれば六大訳経師の民族は違う。それによると、ジャンブー州には一千種の言語があり、ボン教はそのうち360種に伝わった。経典の伝授はつぎのように行なわれた。

 タジクの三人の訳経師、ムツァタヘ、ティドク・パツァ、フル・パレクは彼らの解釈をタジクのセ・プンドゥン(Sad sPungs dun)、ギェルサン・ツクプ(Gyer sangs gTsug phud)、ムツァ・ティンリム(dMu tsha Ting rim)、ムボン・テン(dMu bon brTan)、ムカ・ディンナム(dMu mkha lDing nam)、ムジェ・パルパ・グジュン(dMu rje sPal pa dGu byung)に伝授した。

 彼らはその教えをまた、シャンシュンのボンポ(ボン教徒)ムコ(Mu khod)、インドのシェンポ(gShen po)リシャ(Li sha)、カシミールのシェンポ・ダバ・メルツァン(Bra pa Me ru can)、吐火羅(Tho gar)のシェンポ・パヴァ・シャンシャン(Pa va Shang shang)、ギルギットのシェンポ・ゲテネ・ロギャ(Ge lte ne Lo rgya)に伝授した。

 レタンマンポ(Legs tang rMang po)は中国のシェンポ・ツグラ・パルゲ(gTsug lag dPal ge)とバゴル(Ba gor)のヴァイローツァナ(Vairocana)に経典の解釈を教えた。こうしてボン教の教義は中国に達した。

 またセルトグ・チェジャム(gSer thog lCe byams)は、教えをゲサル(Ge sar)のンガムパ・チェリン(rNgam pa lCe ring)、スムパのムプン・セタン(Mu spungs gsal tang)、チベットのシェリ・ウチェン(Sha ri dBu chen)、ミニャクのチェツァ・カルブ(lCe tsha mkhar bu)に伝授した。彼らは各自の言語に翻訳し、広く布教した。

 この『ダクジャン』の述べるところによると、開祖シェンラブ逝去後、ボン教経典はタジク国内にあり、国内で伝播したことになる。以後6人の伝教師によってティセ山から中央アジアにかけて、つまりインド、吐火羅、ギルギット、カシミール、シャンシュンに伝播する。さらにそれは中国、ゲサル、スムパ、チベット、ミニャク(Me nyag 党項)へと広がっていく。

 ボン教経典と教法が伝播していく路線は複雑である。タジクのオルモルンリンからインド、シャンシュン、中国に伝わり、そこからチベットに入る(『律集』bDal bum 『乗次第明灯』Theg rim gsal sgron)。あるいはタジクからシャンシュンに来て、シャンシュンからインドに入り、インドからギルギット、そしてチベットへ来るという路線もある(『倶舎集論』mDzod kun las btus pa)。

 またタジク・オルモルンリンからシャンシュン、シャンシュンからチベット、そして中国という路線もある。ゾクチェン系のボン教経典はシャンシュンとチベットから中国に入ったとする。また『乗次第』(Theg rim)によれば、ヴァイローチャナはギルギット文をチベット語に訳したという。

 ペルシアの葬送儀軌はシャンシュンを通ってチベットに伝わり、王室の葬送制度に大きな影響を与えた。『国王遺教』(rGyal po bkai thang yig)にはつぎのように記される。

「大王ディクン・ツェンポのとき、タジクとアシャのボンポが呼ばれた。彼らは二盛りの黒石とばらばらにした肉のかたまりを混ぜるべく、遺体の皮をはぎとった」

 これらのなかで根本的な点がふたつある。ひとつは、タジクのオルモルンリンがその拠点であり、あらゆるボン教経典がそこに生まれ、そこから四方に伝わったことである。

 もうひとつは、シャンシュンが、タジク・ボン教が四方に伝播するときの重要な中間点であることだ。『根本タントラ日灯』によれば、ボン教の経典やその他聖なる典籍、寺院や神壇などは、チベットに現れる前、すでにシャンシュンで広く見られたという。

 『ドゥルワ・リンタク(Dul ba gling grags)』によれば、『ドゥルワイ・ルン(Dul bai lung)』やいくつかの経典は、ズトゥル・イェシェ(rDzu phrul Yes shes)によってタジク文からシャンシュン文に翻訳された。

 これらだけでなく、チベット、インド、中国に伝来したボン教教義はほとんどがシャンシュンからのものであり、多くの経典がシャンシュン文字で書かれていた。その起源もこうして推し量ることができるだろう。

 もちろんインド、中国、スムパ、ミニャクなどの文字からチベット語に訳したものもあったが、シャンシュンから来たものには遠く及ばなかった。チベットに直接入ったタジク・ボン教経典に関していえば、チベットは人を派遣してタジクに経典を求め、学習をしたという史実があるが、それは下編で探求することにして、ここでは触れないこととする。