シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第4章 ユンドゥン・ボン、タジク起源説

 

7 タジク天書

 ボン教文献の伝説のなかでも、生き生きとして真に迫る部分。その経典や教義が、タジクからシャンシュン、中国、インド、そしてまたチベットへ。あるいはタジクからシャンシュン、そしてチベットへと伝播する部分だ。

 当然、文字のことが問題になってくる。

 シャンシュン文字やチベット文字はあったのか? もしあったなら、その関係はどうなっていたのか? もし文字がなかったなら、教義はどうやって伝わったのか? チベット史の著者は何のために文献と翻訳に言及しているのか? シャンシュン文字、チベット文字、古代タジク文字はどういう関係にあるのか? これらの論争ははてしなくつづき、結論には達していない。

 ボン教文献が一致しているのは、シャンシュン文字はタジク文字が変化してできたものという点である。ボン教の経典はこの経路を通ることによって伝播したのだ。ギェルミ(Gyer mi)の伝記はつぎのように述べる。

<われわれ三人、すなわちデボン・ギムツァ(lDe bon Gyim tsha)、ニャボン・リシュ・タグリン(sNya bon Li shu sTag ring)、私自身タン・ムツァ(sTang dMu tsha)は、ハゲタカや鶴を含む122の鳥(包み)をタジクからシャンシュンに運んできた。包みの中の経典は、公開伝授的、密伝的、ボン教秘伝的なもの、そして多くの密教諸神の儀礼に関するものが含まれていた。

 われわれは数多くの持明保持者や学者の助けによって、それを広く普及させることができた。そしてボン教の公開伝授的、あるいは密伝的な教義に精通し、われわれは多くの場所に瞑想施設を創立した。無数の人が覚醒を得た。>

 この一節は、シャンシュン文字のボン教経典がタジク文字から翻訳されたことを説明しているのだ。

 これにかぎらず、シャンシュン文字はタジク文字から発展したものだといえる。

 『ド』(mDo)は言う。

「30の子音がボン教経典の文章の基礎を成している。前符号と終止符が間隔を作り、ドットが意味を明らかにする。母音ieouと添付文字が必要に応じて付け加えられる。このようにしてタジク文字であるプンイク(sPung yig)は、神の諸文字によって形成されたのだ。それからそれらは発展してシャンシュン・イグゲン(Zhang zhung Yig rgan)となり、そしてマダク(sMar sbrag)となり、大小のマル(sMar)となった。大マルからウツェン・ナムサプ(dBu can gnam zab)が派生し、小マルからドゥマル(Bru mar)が生まれた。雑文字(Yig sna)はドゥマルから派生したともいわれる。

 具体的に言えば、タジクのプンチェン(spungs chen)とプンチュン(spungs chung)が発展してシャンシュンのマルチェン(smar chen)とマルチュン(smar chung)となり、そしてさらに発展してチベット文字のウツェン(dbu can)とウメ(dbu med)になった」

 ボン教文献のこの説明は、ソンツェン・ガムポの時代、大臣トンミ・サンボタ(Thon mi sambhota)がチベット文字を創設したという伝統的な説明とはまったく異なっている。チベット文字の起源の問題は、直接シャンシュン文字のあるなしに関わってくる。またシャンシュン文字とタジク文字の関係も問題になるだろう。

 シャンシュン語の問題は広く学者の注目を集めてきた。一般的にボン教史書は、ボン教がタジク、あるいはシャンシュンからチベットに入ってきたことを認めているが、シャンシュン文字に関しては疑問を抱いてきた。ただしシャンシュン語については、わりあい明確だといえるだろう。ボン教文献がシャンシュン語からチベット語に翻訳されたのは、6世紀から9世紀にかけてのことであり、つまり仏典のサンスクリット原典からチベット語に翻訳されたのと、ほぼ同時期である。

 チベットの文字創設以前に、シャンシュンとチベットの間に文献や経典の翻訳があったという証拠は一切ない。新疆や敦煌で発見された文献を通して、シャンシュン語の文献研究から断定できるのは、トーマスによれば、シャンシュン語はチベット西部方言の一種であるということだった。

 ボン教研究所が1965年に出版した、シャンシュン人の後裔ニマ・ダパ編集の『チベット語・シャンシュン語字典』は、シャンシュン語分類の第一歩だった。

 ボン教起源と関係のあるタジクとシャンシュンに関して言えば、両者の言語ともボン・ラ(ボン神)から伝来したものということだった。

 シャンシュン語は四つに分類される。すなわち内、中、外とパルパ(口語的)である。内シャンシュン方言は神の支系カピタの言語。それはチベット西部に位置し、内シャンシュン・タジクのオルモルンリンと接している。中シャンシュン方言はチベット北西部に位置し、サンスクリット語と関係がある。外シャンシュン方言はシャンシュン語のマル方言と解釈される。マル地区は、一般にインダス河上流のレーとガルトクの間と考えられる。場合によってはチベット西部、ラダック、ザンスカール、スピティ、キナウル、クマオン、ネパール、ツァン、このほかヒマラヤ山脈の湖区、ナチュやゴンポ以北まで含めることがある。パルパ方言は、ダルマ、ティルマ、ダルマティル、グゲ、パルプランの五つの下位方言に分類される。

 ダン・マーティンはシャンシュン語を三種に分類する。ひとつは、カピタ語。天から来た言語、すなわち神の言語。ひとつは、サンスクリットの三十三天の言語。ひとつは、ダラ(sGra blaあるいはsGra bla)の経典を基本とした言語。それは最終的に、マル語(sMar)となる。

 三大言語区が使用する言語はどれもおなじである。シャムポ・ラツェ(sham po lha rtse)はタジク語を使用する。貴族の荘園で用いられるのはシャンシュン語。キュンルン銀城で使用されるのはシャンシュン基礎語。

 シャンシュン基礎語は三つの地方で通用する。チベット西部の中心キュンルン銀城の上流地区のサトレジ語は、シャンシュン語の入門語(sgo)。中部シャンシュン語は中部地区(bar)使用の方言。タジク語(すなわちオルモルンリンおよびその皇宮のシャムポ・ラツェ語)の内部の言語(phugs)で、小さな範囲でのみ使われる。カピタ(カピサ)はアフガニスタンのカブールの北方でガンダーラの中心。初期のオルモルンリンと大体一致する。

 ペルシアのゾロアスター教の経典のシャンシュンやチベットへの影響に関して、ホフマンはボン教訳経師のなかでもシャンリ・ウツェン(shang ri au can)が突出しているという。彼は『十万竜経』の著名な翻訳者である。この『十万竜経』は「明らかに古い民間宗教とイランの宗教観念の結合の産物である」とホフマンは言う。

 ただし、同時にホフマンは指摘する。

「疑うべくもなく、シャンシュン・ボン教経典はかつてチベット語に訳された。ただしボン教典籍中に出てくる秘密のマントラ、万字、神聖イラン語などはどれも等しく虚構である。ボン教経典目録の名称は、それがシャンシュン語と似ていることを示している。

 シャンシュン語の研究は日進月歩である。学者たちはそれとチベット西部の言語、およびかつてペルシア帝国下にあったインド北西部、アフガニスタン、パキスタン北部の言語との比較を試みている。