シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第5章 ユンドゥン(卍)と吉祥の数値

 

2 ボンはペルシア語起源か

 チベット文献におけるボンは土語なのか、それとも外来語なのか。古代において、それはどういう意味を持っていたのか。学者たちはこういった問題を注視している。上述のようにこの語の意味を探り、語源問題に取り組みたい。

 一部の学者は外来説をとり、伝説中ボン教の起源地とされるペルシアからボンという語もやってきたと考える。この説は次第に広く認められるようになってきている。

 ロシアの学者スタニミル・カロヤノフは述べる。

「現代ペルシア語では、ボンは根、基礎、根底、底部といった意味を持つ。語源からいえば、イラン語のbanu、すなわち光、古インド語のbhanu、すなわち光線、光明である。またbunは完全にペルシア語で、bonとまったくおなじ意味で、根、基礎、根底、底部を意味する」

 9世紀以降のゾロアスター教の教義と関係するパラウィ語文献では、Bunは基本経典という意味で使われるという。

 チベット文献のボンがペルシア語のbumから来たのではないかという説の根拠として、スタニミル・カロヤノフはふたつ挙げる。

 その一。もっとも古いチベットの宗教教義がボンと呼ばれること。このボンと、光、基本経典、基礎、根本、根を意味するイラン語のbonbunとは矛盾せず、それどころか早期のボン教の基本要素が光、教義、教義の基礎であったことを表明しているように見えるのである。

 その二。学者たちは早くからボンの創立者シェンラブの伝記のなかで、チベットに来る前、シェンラブがシャンシュンとタジクにのみいたことに注意を促していた。現代の学者は文献などを根拠に、タジクはイランを指し、大雑把にいえばチベット以西のイラン諸民族を指すと考える。シャンシュンはチベット西北部であり、イランを起源とし、サカ人と関係のある遊牧民族の居住地だった。このように、この地域はボンの起源地のひとつだった。それはまた、チベット諸部落とインド・イラン文化圏が接触する地帯だったことを意味している。

 旧ソ連の学者クズニェツォフとグミリエフは多くの論文を書き、ボン教がペルシア起源であることを証明しようとした。彼らはボン教文献『セルミク』とターラナータの『インド仏教史』を材料とし、ボンとペルシアの一致する崇拝の仕方や、類似した神像のほか、太陽神崇拝とボンの間の共通点などについて論考を進めた。

 ボン教発展史に関していえば、トゥカン・チューキ・ニマの『善説水晶鏡』のボン教の章がよく知られ、広く引用されてきた。ホフマンも、この書のボン教の発展段階の設定を肯定的に見ている。一部の学者は、この書の成立が近年のことなので、根拠が十分でないと見ている。

 しかしスタンが指摘したように、これらのボン教に関する章は、ディグンパ・ジクテン・ゴンポ(Bri gung pa Jig rten mgon po 1143−1207)の『ディグン派教派史』からの引き写しなのである。

 つまりボン教史を三段階に分けたその根拠は、12世紀の重要な学者に帰せられたのである。

 11世紀、ひとつの宗教が現れ、それをボンと呼び、信徒はボンポを自称した。それは古代宗教とは一線を画すものだった。実際この新しい宗教とインドに源を発するカギュ派やサキャ派など各仏教宗派は同時に出現しただけでなく、比較宗教の観点から言っても、教義や活動にして、ボンとチュー(chos 仏法)の間にさほどの差異があるわけではなかった。

 だれかが唱えていたように、古代宗教がボン教と呼ばれていたわけではない。後年のボン教と古代宗教を混同してはいけないのだ。

 伝承やボン教文献をもとに考えると、ボン教はタジクから伝来した。この種の話は、火にないところに煙は立たないと考えるべきである。であるから、ペルシア語のなかにボンの語源を求める心理は当然なのである。

 ボン教に与えた外来の影響のなかで、もっとも大きかったのがペルシアの影響であることは、ほとんどの学者が認めている。もっともその中身となると意見は分かれるのであるが。

 ある学者はインド・イラン境界の異国のボン教徒が影響をもたらしたと言い、ほかの学者はシヴァ教とゾクチェン思想の哲学体系に加えてイランの影響が大きかったと言う。

 またある学者は、吐蕃人がインドから取り入れた仏教と区別するために、シャンシュンや中央アジアから吸収した仏教(これにマニ教を加えてもいいかもしれない)をボン教として捉えた。

 ボン教がペルシアから来たことを、具体的にはゾロアスター教の影響があったことを、だれも否定することはできない。ペルシア帝国の統治の及ぶ範囲内にこれらの地域は入っていたのだから。