シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第6章 古代語新釈

 

1 シェン(gshen)とサナヴィー(sanavee

 古代の東西文化の流通経路であった絹の道を通って、ペルシアのゾロアスター教は中国に入ってきた。漢文史書はそれをネ教(けんきょう)、火ネ教、拝火教などと呼んだ。

 1923年、陳垣先生は『火ネ教入中国考』という論文を発表した。のちの研究の土台となるものだった。

「火ネ教の名を中国にて聞くのは北魏南梁以降のことである。はじめ天神という。晋宋以前は聞いたことがない」

「中国、胡天神を祀る。北魏がそのはじめである」

 この論文から80年以上が過ぎ、学者たちは多方面にわたり研究を重ね、一歩進むことができた。ゾロアスター教が中国に入ったのは、北魏南梁より前であったことがわかったのである。

 ただしこういったジャンルの性質上、長足の進歩は望めない。ゾロアスター教伝来の時期を特定するには、流伝の状況はいまだに不明な点が多いのである。その根本的原因は文献の極度の不足だった。

 以上のことから、つぎのようなことが言える。第一に、ゾロアスター教伝来時期の問題は、堅固な砦のようなもので、短期で攻め落とすのは困難であること。第二に、われわれはその他の直接的でない資料や情報にも注意深くあたりながら、迂回してゴールをめざさなければならないこと。

 本章では漢文中の「ネ」という字の音と起源、およびチベット文中のシェンやペルシア語のサナヴィーとの問題について探索しながら、ゾロアスター教の伝来についての考察を進めていきたい。

 ゾロアスター教伝来後、火を拝し天神に事(つか)える儀式のことはたびたび記されてきた。

「高昌国、俗に天神に事える」(『魏書』巻101)

「焉耆国、俗に天神に事える」(『魏書』巻102)

「波斯国、俗に火神天神に事える。神亀年間(518−519)その国王居和多(訳注:カワード1世。Kavadh1)使節を送り、上書と貢物を納める。(同上)

「滑国(訳注:白匈奴が建てた国。すなわちエフテル)は魏晋以来中国に通じていない。天監十五年(516年)、その王、使節を送り献上物を捧げる。(……)その国、天神火神に事える」(『梁書』)

 陳垣先生はつぎのように述べる。

「天神というもの、天を拝することなり。その実、天を拝するにあらずして、日月星辰を拝することなり。日月星の三光、どれも天を輝かす。日月星を拝するは、天を拝すると変わるところなし。ゆえに中国での名を天神という」

 仏教にも天神(Deva)崇拝があったので、初期の史書中、ゾロアスター教の呼び方が統一されていなかった。そのためトルファン文書中の高昌国の天神に関しても、学者の解釈が分かれたのである。

 ただし「」という文字が登場し、それによってゾロアスター教をさすようになってから、状況は一変した。「」「火」はゾロアスター教をさす専門語となり、歴史家も採用するようになった。「」という文字の起源や意味については、もっと深く研究していかねばならない。

 「」という字が辞書にはじめて見えるのは、梁大同九年(543年)の顧野王選『玉篇』に「阿怜切、胡神なり」という釈詞である。陳垣先生はしかし、この年代に疑義を呈する。

「『玉篇』の「字、唐の上元元年甲戌(674年)以降に孫強らが付け加えたものだろう。顧野王の原書にはなかったものだ。『玉篇』には145字の用例が載っているが、明の永楽本では「」は最後の16字中にある。沢存堂本では最後の8字にあり、のちに付け足したと考えられる。近年敦煌で発見された唐人の書写による陸法言の『切韻』にも、唐以前の辞書にもこの「」は見当たらない。

 明代の方以智の『通雅』巻11には「この語は唐代に起こり、西域に通じたので、ネという字を作った」と記されている。この説は学者たちに支持されている。この字は唐人によって作られた新語といえる。

 「」の音と意味は、辞書によって異なる。たちえば『玉篇』(新附字)では「阿怜切」とする。宋代徐鉉『説文』(新附字)では「火千切」とする。遼代希麟の『続一切経音義』巻9や遼代行均の『竜龕手鑑』巻1では「呼煙反」とする。元代楊桓の『六書統』巻7では「呼煙切」、司馬光『類篇』巻1では「他年切」や「馨煙切」、清武英殿本『通典』巻40では「呼朝反」となる。これと古くからあった?(yao)とはまったく異なるのだ。「呼煙切」はたとえば、xianと読む。

 「ネ」の意味は、『玉篇』や『説文』は「胡神」とし、行均『竜龕手鑑』は「胡神官名」とする。

司馬光『類篇』は記す、「、他年切、俗に神を示天という。また馨煙切、唐官に正あり」

 希麟の『続一切経音義』に記す、「、呼煙反、胡神官名。方言に言う、もと胡の地、天に事える者多し。天をといい、よって字となす」

元代楊桓の『六書統』に記す、「、呼煙反、胡神なり。また胡、神を示天とし、関中において天を示天という」

 明代方以智の『通雅』に言う、「神、すなわち天神なり。つくりは天だが、しばしば夭と間違われた。この文字は唐代にはじまり、西域にも通じたのは、ネという文字が造られたからである。漢代に仏法が西からやってきたが、ネの字はまだ造られていなかった。唐玄奘の『西域記』がそのはじめを詳しく書き、徐鉉がこれを補足した」

 清代の『康煕字典』のネ字の項でも『説文』を引用し、天をネというと記されているが、これも後世の補足である。

 以上の引用からも、ネ天という字は、さまざまな解釈がされてきたことがわかる。第一に、胡神。第二に胡神官名。第三に、天。第四に胡いわく神をネとなす。第五に、関中語で天をとなす。

 が胡神を指すことについては、どの書も一致している。「胡神官名」や「胡神官品」は、唐代に設置された「正」や「ネ祝」のことを言う。ゾロアスター教の主要な点は拝火、拝日月星辰(すなわち拝天)であり、「」はすでに古くから胡天神を指していた。以上のことから、各書の記述はいろいろと細かい点は異なるが、総じて矛盾はないといえるだろう。

 しかし「」という文字は唐人の造語である。それは何を根拠とするのだろうか。「胡いわく神をとなす」とはどういうことなのか? 「関中語の天」とは? 「」とは外来語なのか、関中方言なのか?

 陳垣先生はつぎのように述べた。

「関中では天をネということは、楊桓の『六書統』にも見える。しかし『康煕字典』の引用する『説文』は誤謬である。いま、粤では天を「呼煙切」という。わが故郷の新会や西江でも同様である。唐人は「」でもって西域の天神を表そうとした。楊桓は、胡はネという、と言った。しかしそれは憶測の域を出なかった。

 唐の関中語および粤語では天を「」と読む。この説は推定以上のものではない。あるいは「胡、神をネと呼ぶ」もさほどの根拠がない。まして楊桓が羅列したような説は、証明されたとはいえない。

 われわれはいま、この「」は外来語ではないかと考えている。具体的には、ペルシア語の訳音ではないかと思う。その理由を述べよう。

 その一。「」という字が生まれたことの意義は大きい。ここも陳垣先生の言を引用させていただこう。

「この字ができる以前、あらゆる書は天神という二文字を使って代用していた。この字ができてからは、すべてがこの字を用いるようになり、天神と呼ぶことはなくなった。もしなお天神と呼ぶものがあったとしても、それは拝火教ではない。旧唐書・新唐書の大食国伝の天神がそれである」

 以上の文が主張しているのは、「」という字でゾロアスター教を表していることは、長年にわたって吟味したもので、科学的な結論であり、まちがいない。それは広い支持を得るにいたった、ということである。

 しかしその寺が建てられ、広く民衆の間に伝播したとき、かならず人の批判を浴びたはずだし、正されたはずである。実際は、そんなことはなかった。新造語がどんな条件にあえば科学的だというのか。どんな根拠があるというのか。われわれはただ「」という字が漢字によって胡天神の特性をうまく表わし、音と意味がペルシア原語に依拠していると考えるにすぎない。この仮説がまちがっていなければ、この語はペルシア語の借詞ということになるだろう。ペルシア語の原語が探し出せるかどうかが鍵となる。

 その二。前人の記録や研究から、「」という字が唐代はじめに造られたことがわかった。この造字と唐代高僧の西域への取経の旅とは深い関係があった。前述の明代方以智『通雅』巻11はつぎのように述べる。

「唐玄奘の『西域記』がはじめその法を詳しく書き、徐鉉がこれを補足した」

 玄奘と弟子弁機は『大唐西域記』を撰したが、「」という文字は収録しなかった。同署はゾロアスター教の活動場所を天祠と呼んでいたが、その法を詳しく書くためには、新しい名が必要だった。

玄奘が西域へ行ったとき、「」という文字は造られていないか、まだ普及していなかった。唐代の僧が西域に行くとともに、中央アジアの商人が東へ来るようになったことが、ゾロアスター教を「」と呼ぶようになったことに、直接影響を与えている。

 その証拠に、敦煌石窟から発見された8世紀の僧慧超も『往五天竺国伝』につぎのような一節がある。

「大食国(訳注:原文は食のところをウ冠に是)から東は胡国。すなわち、安国、曹国、史国、石騾国、米国、康国などで、どれも王があり、大食国の管轄下にある。また六国は火につかえ、仏法を知らず」

 唐代の僧侶らがこれらの地域を通過したとき、ゾロアスター教徒のことを完全に理解することができた。具体的に、ペルシア語からもっとも適切な用語を取り出し、「」という新しいことばを生み出したのだ。

 その三。上に引用した字書のなかでも、元代楊桓の『六書統』の「胡、神をという。関中に天をという」のほか、遼希麟の『続一切経音義』に「方言にいう、胡地多く天につかえ、天をという、よって字を作る」とある。

 だれが天をと呼んでいるのかはっきりしないが、上文からすると胡地人である。つまり胡人(ペルシア人)が天をと呼び、唐人が字を造ったのである。方以智は明言する。

「この字は唐に発し、西域に通じ、よってその言からの字を造った」

 このことは胡言から、つまりペルシア語から字ができたことを物語っている。

 その四。ゾロアスター教はペルシアの古い宗教であり、他の民族や社会からはいろんな名前で呼ばれている。ただしその理にかなった名称はペルシア語や民族のことばから来るものであり、漢語ではない。別の角度から見れば関中の「天をという」、そして「の字を造る」は憶測にすぎない。

 ゾロアスター教は関中の民間信仰ではなく、関中で天をというのは、偶然にすぎない。これによりゾロアスター教をと呼ぶと主張するのは、科学的な態度ではないだろう。それと高僧が西域に行き、その教法からという字を造り、最終的にその字でもってゾロアスター教を指すようになることとは関係がないのである。

 われわれは漢文における「」の字の音と源について考え、それが外来語であり、ペルシア語であること、関中語の天からつくった新造語ではないことを理解した。しかしその原語と意味はわかっていない。

 漢文資料を見ても、それが十分だとはいえない。われわれは視線を中央アジアに移し、さらに隣接するチベットに注目しなければならない。一部のチベット語資料はわれわれに手がかりを与えてくれる。ペルシアのゾロアスター教とチベット古代文化の関係は非常に魅惑的なジャンルなのである。われわれはチベットの古代宗教、ボン教と向かい合う必要がある。

 

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