シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第6章 古代語新釈

 

2 ム(rmu)とマグ(magh)、モグ(mogh

 古代チベット文献中、つねに現れる特殊な語彙があり、それは当時の人々の崇拝物や神聖な観念と関係がある場合がある。これらの語彙はとくに、ツェンポの名のなかに見られる。それはよきものとしての願望であり、神を求めての加持であったりする。これらを探索することによって、われわれは有意義なものを発見することがある。以下にそれらの代表的なものを挙げていきたい。

 ム(rmu)は古代チベットの名高い氏族である。ム神はリユル(ホータン)やネパール、クロム、タジクなどでは人類の祖先と見られ、また同時に畜類の祖先とも見られた。ボン教の伝説や文献中はとくに、ム氏族の地位はたかく、研究に値する。

 ボン教の史書によると、開祖シェンラブ・ミボの出自はム氏族だという。彼の父ム王(rmu rgyal)の前5代のツェンポはみなム氏から妻を娶った。

 ム神はチャ神と同様、第13天に住み、大神に属した。彼らは光の縄や梯子を使って人間界に降臨した。

 伝説によると吐蕃の初代ツェンポ、ニェティ・ツェンポはム神の国に生まれ、ム神の梯子あるいは光の縄によってコンポのジャムド神山上に降臨した。のちまたおなじものを使って天界に戻った。

 このように見ると、ボン教の開祖はム族で、吐蕃王室初代ツェンポもまたム族である。これだけでなく、ニェティ・ツェンポが娶ったのはム族に属するナム・ムグムグ(gNam mug mug)であり、生まれた子はムティ・ツェンポ(Mu khri btsan po)だった。

 ム族の王の神統は光明神からはじまっている。その初代はイェム・ラテン(Ye mu la then)、2代目はムサン・ラテン(Mu sangs la then)、3代目はバラサンギェン・ラテン(Ba la sangs gyen la then)、4代目はギェンサンチャ・ラテン(Gyen sangs phya la then)、5代目はチャサンオル・ラテン(Phya sangs ol la then)、6代目はオルサンユム・ラテン(Ol sangs yum la then)、7代目はユムサン・ラテン(Yum sangs la then)、8代目はユムサンウー・ラテン(Yum sangs od la then)、9代目はルンサンウー・ラテン(rLung sangs od la then)、10代目はウーサルム・ラテン(Od gsal dmu la then)である。

 言語学研究に話を移そう。

チベット語と同属の羌(チャン)語中のmo-topm-to-peimu-piam-piaなどはどれも天空を意味する。●川県ルォプ村の羌族は天をma-pia、あるいはmuと呼ぶ。(●はサンズイに文)

 R・A・スタンは羌族のさまざまな方言のなかで、天はmamo?pima-pam-piamu-piaなどと呼ばれることを示し、天は氏族、人の意味があると指摘した。

 このほかギャロン語のmonmu、ミニャク語のmumah、タングート語(党項語)のmomu、モソ語のmua(n)あるいはmwなど、どれも天の意味を持つ。

 これらはチベット語のム(dmusmurmu)やマ(marmasma)と対応しているのである。ムが天を指すのは、チベット文献のなかに証拠を探すことができる。たとえば『敦煌文献』P・T・1287には、天梯が「dmu skas」と表されている。

 以上のことから、古代において、神々と古代部族のムとマは天空、あるいは天の意味を持つことがわかる。すると古代チベットの「マサン九翼」(ma sangs ru dgu)は、ムサン九翼と言い換えることもできるだろう。

 『デウ宗教源流』によれば、「マサン九翼」は「マサン八翼」にヤンドゥム・シレマ(g-yang brum si le ma)を加えたものだという。

 その「マサン八翼」の内訳はつぎのとおり。

 

ニェンマ・サンギャ・パンキェ(bnyan ma sangs gya spang skyes

カルマ・サンツォ・カルキェキ・ディグナムツェ(gar ma sangs gtso gar skyes kyi sdig nam tsad

ニェンマ・サンンガン・ラムツァンキェ(gnyan ma sangs ngan lam rtsang tsad

トゥブマ・サント・カルキェ(tub ma sangs tho gar skyes

シェマサン・トカル・ナムツァン(she ma sangs thod dkar nam tshang

メマサン・ペマキェキ・ニンナムツァ(me ma sangs pad ma skyes kyi snying nam tsha

ミマサン・ギャツォキェキ・ダンガグル(mi ma sangs rgya mtshoskyes kyi dra nga gur

ウーマサン・トンナムツァ(od ma sangs ston nam tsha

 

 これらの名前をもとに考えると、9人のマサンは9人の専門の祭司が担当する神のように思われ、当時の社会を反映している。たとえばヤン(gyang)は福、宝の意味がある。ニェン(gnyan)は古代チベットの専門語で、意味は盤羊、妖魔、また氏族の名称。ガル(gar)は舞踏の意味で、原始シャーマニズムの舞と関係あるかもしれない。シェ(she)は賃貸の牛の意味で、牧畜業の生産管理と関係する。ミマサン(mi ma sangs)は、人自身と相関的に関係がある。メマサン(me ma sangs)とウーマサン(od ma sangs)は、火種の保存管理と関係がある。また火、天、太陽の崇拝と関係がある。

 ム(rmu)はまた、天の縄によじ登り、天の王を敬う行事を行なう人と関係があるかもしれない。トゥッチも認めるように、ム族の墳墓の建造方式を見ると、ムは実際伝道師やシャーマンのようであり、ボン教徒にかぎりなく近く、「彼らは葬送儀礼の専門家」なのである。

 スタンはム族が墳墓建造の専門家というトゥッチの見解に不賛成だが、「彼らは天に登り、自ら消滅することで天寿を全うし、絶対に遺体を残さない。ム族の墳墓建造方式は、天の子宮に戻ることだ」という。ただし彼はシャーマンのような存在、ボン教徒のムの存在は否定しない。こん点は留意しておく必要がある。

 チベットの史書にはまた、四人種(部族)、あるいは六人種(部族)ということばがある。すなわちム(dmumusmusmra)、セ(se)、トン(stonggtong)、ドン(ldonggdong)の四つに、ウェー(dbas)とダ(da)を加えた六人種(部族)である。

 最近はやりの論法は、ムをシャンシュンに、セを吐谷渾(a zha)に、トンをスムパ(sum pa)に、ドンを党項(mi nyag)に結びつけるというものである。

 ムとシャンシュンとの間に密接な関係があるという見方にだれも異存はないが、シャンシュンがどこにあったかという点に関しては、学界でも定説がない。

 有力な説は、ふたつある。ひとつは、シャンシュンは現在の阿里地区であり、グゲを中心とするというもの。もうひとつは、チベットの東部とする説。

 スタンによれば、シャンシュンはグゲ地区を指すか、あるいはチベット西部を中心とし、周辺地域をあわせた広大な王国を指すという。四人の小人集団があり、それはマ(sMra)あるいはム・シャンシュン(sMu zhang zhung)と呼ばれるという。

 さて、どうしたら東部へ移動することができるだろうか。スタンはふたつの状況を考える。ひとつは、ことばの混乱である。東部のダ族(sBra)とマ族(sMra)を混同したというのだ。もうひとつは、資料の読み違えである。シャンシュンはボン教徒の国だという決めつけから、(ボン教徒の多い)チベット東部をシャンシュンとみなした。現在にいたるまで、金川(ギャロン)とチベット東部はボン教徒の避難所である。

 スタンは『ミニャクと西夏』のなかで、ムを含むチベット東部の地名を列挙している。たとえば金川(ギャルモロン rgyal mo rong)のムルゲ(dMu dge)、四川タンパ(Tan pa)のムルド神山(Mur doMurdoMur rdo)、西寧江下流のムリ川(dMu ri chu)、西寧付近ツォンカのムス家族(Mu zuMu zisMa zarMu zi)などだ。

 ただしスタン自身あとで断り書きするように、これらは氏族を指すとはかぎらない。

 いくらシャンシュン東部説の証拠を挙げようとも、シャンシュンが西部にないことの証明にはなっていない。チベット文献の厖大な記述が西部を示していることを否定することなどできないのだ。これにより、われわれはシャンシュンがチベット西部の阿里地区にあったと断言できるだろう。チベット東部は古代民族の揺籃の地であり、豊かな文化が育まれてきた。スタンも述べるように、チベットの多くの部落はこの東部から勃興した。しかしシャンシュンがここに発する必然性はないのだ。

 ボン教文献でよくこういう言い方がされる。ボン教の開祖シェンラブ・ミボはタジクのオルモルンリンに誕生した。ボン教はタジクから剣の道を通ってシャンシュンに伝えられた。

 ボン教の歴史家サムテン・カルメイは言う。「みな一般にタジクということばを用い、それはチベットの西を指すが、とくにイランのことをいう。しかしその地域のオルモルンリンという伝説のなかでシェンラブ・ミボの系譜はム神に属するのだ」

 われわれはチベットのシャンシュンのム部族と、タジクにも存在する同種族との関係を、どうとらえるべきなのだろうか。具体的にいえば、シャーマンやボン教徒のムは、タジクの歴史のなかに手がかりを見つけることができるだろうか。これは十分に注意を払うべき問題である。

 われわれは古代ペルシアのゾロアスター教の祭司がモグ(mogh)とかマグ(magh)と呼ばれていることに注目する。古代ペルシア文ではそれはマグス(magus)である。神から恩恵を受ける人、あるいは施しを受ける人、という意味だ。

 この名称はゾロアスター教徒が踏襲してきた。アケメネス朝やパルティア王国の時期、モグは独占的な神権代表として宗教祭祀を掌った。サーサーン朝期には国教に認定され、モグの位階制度が確立された。

 それは大祭司長(Magutan Magupat)、祭司長(Magupat)、祭司(Magu)、助理、あるいは火祭司(Ehrpat)である。一般に父から子に継ぐ。

 タジクのオルモルンリンから来たシェンラブ・ミボがシャンシュンで布教したとき、そお位階制度を導入したか、あるいはシェンラブ・ミボのボン教がゾロアスター教そのもので、それが現地化したのではなかろうか。チベットの史書に、ボン教がタジク(ペルシア)から来た、ボン教経典はタジク語からシャンシュン語に翻訳された、などと記されるのは、源流のない水、根のない木がないのと同様である。

 このように、チベット史上のムとペルシアのモグ、マグ(Magus)とは、同一か、似たものである。彼らは宗教儀式に従事する専門家であり、天を敬い、火を拝し、神に事(つか)え、吉凶を卜占し、福を招き、邪気を祓う、そういった活動を行なった。政治活動にも参与し、王室の重要な役割を担った。とくに死や葬送に関することでは欠かさざる存在だった。