シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第7章 ボン教とゾロアスター教の密接な関係

 

1 共通する聖地

 ゾロアスター教の起源に関してはいまのところ定説はないが、イラン西北の高原地帯、すなわちメディア人によってはじまったとする説が有力である。ほかの有力な説には、イラン東北の大夏とする説がある。近年、後者の説を支持する声が高まっている。

 その根拠となるのは、『ガーサー』の頌と『アヴェスタ』の後半に出てくる山や川、部落戦争、宗教活動の位置などの範囲がほとんどイラン東部、とりわけシースターン一帯なのである。教主ゾロアスターが誕生した地もシースターンのフラズダヌ湖(Frazdanu)付近といわれる。

「イラン東部のアヴェスタ語(『ガーサー』と『ヤシュト』の用語を含む)とインド・ヴェーダのサンスクリット語の関係は、イラン西部の古代ペルシア語との関係よりも密接といえる。かつ『ガーサー』と『アヴェスタ』後半の内容もイラン東部と関係があり、『ガーサー』の頌を吟唱するゾロアスターの出生地もイラン東部とするのが妥当である。

 では東部のどこかといえば、多くの学者はシースターンと考えるのだが、ソグディアナやフェルガナ、バルフも完全に排除することはできない」

 聖典『アヴェスタ』の『ヤシュト』第10篇、ミトラ神への賛歌中、ミトラ神がイラン人の居住地域を俯瞰する場面がある。これにはPurutian IstakaHarairian MarguSogdian GavaChorasmiaなどの地名が現れる。

 ゲルシェヴィッチの考証によると、イスタカはアフガニスタン東部ヒンドゥクシ山脈で、パルタス人(Parutas)がこの地区の一部を占めていた。マルグ(いまのMerv)はハライヴァ(いまのHeart)の一地区だった。ガヴァは居留地の意味で、ソグディアン・ガヴァはソグド人居留区を意味する。コラズミアはホラーサーンのこと。

 これにより古代イラン人の居住地はイラン東部であり、ゾロアスター教を含むイラン文化は東部発祥であることがわかる。イラン神話中のアリヤナ・ヴァエジャ(Aryana Vaejah)すなわちアーリア人地区(イラン北東だが、のちソグディアナや大夏、ガンダーラなどを含むようになる)である。

 『ウェンディダード』(vendidad)第1章はアフラ・マズダーが創建した地域として、Aryana VaejahDaityana(いまAmu Daria)、Gava(ソグド人居留区)、MouruBakhdi(いまバルフ)、NisaimMervBalkhの間)、Haroyum(いまヘラート)、Vaek Ereta(いまのカブール)、Urva(不詳)、ホラーサーンなどを含む。これらはイラン西部ではなく、東部に位置する。ゾロアスター教の起源地はイラン東部とみるべきだろう。

 ゾロアスター誕生の地をイラン西部、あるいはアゼルバイジャンとみた場合、東部に伝播した、または東部で発展したと考える。アフラ・マズダーの啓示によってゾロアスターはイラン東部のバルフにやってきて、42歳のとき国王カウィ・ウィシュタースパ(Kavi Vishtaspa)を帰依させ、名声を高めた。しかし77歳のとき、バルフの火神廟でトゥル・ブラートーローシュ(Tur Bratorosh)によって殺害された。

 『史記』「大宛列伝」は記す。

「大夏は大宛の西南二千余里にあり、ギ水(ギは女ヘンに為)の南、民多く百万余なり」

 このギ水はオクサス河、すなわちいまのアム・ダリア河。この大夏は西方の史書がいうバクトリアである。大夏の領域にはソグディアナやサマルカンドも含まれる。大夏はかつてペルシアのアケメネス朝の行省だったが、アレクサンドロス東征とセレウコス朝統治期に大勢のギリシア人が移住し、ギリシア化が進んだ。ただし大多数はペルシア人だった。

 紀元前256年、セレウコス朝東方総督ディオドトス1世が反旗を翻し、前246年―230年にかけて独立国家を形成した。彼はペルシア人だったのでその国家は「ギリシア大夏国」と呼ばれた。「その王国は紀元前140年頃、大月氏によって滅ぼされた。大月氏は吐火羅人とされ、インド史書上のトサラ人である」。

 この時期、ゾロアスター教が特殊な位置を占めていたのはまちがいない。

 大夏では古代よりゾロアスター教の活動が中心だった。その信仰は早くに広がり、イラン西部より数百年先行していた。伝説によれば大夏はゾロアスター教開祖の生誕地であり、紀元前4世紀のギリシア人作家(クテサス)は、ゾロアスターは大夏の国王であったと述べた。のちギリシア化が進んでも、依然としてゾロアスター教の信仰は下火になることはなかった。

 チベットの史書によれば、ボン教はシャンシュンの西方のタジクから来た、あるいはタジクはシャンシュンのなかにあったという。またそれは現在の阿里より西の中央アジアのペルシア人統治地域にあったというが、ボン教の聖地「タジクのオルモルンリン」の具体的な位置がどこであったかは、諸説あり、結論を得ていない。

 ボン教史書『吉祥言』によれば、オルモルンリンにはふたつあり、ひとつはタジクのオルモルンリン、もうひとつはシャンシュンのオルモルンリンだった。前者は文明の中心であり、後者は地域の中心地だった。これらは関係はあるものの、区別することができたという。

 シャンシュンのオルモルンリンに関しては学者の認識がまとまりつつあり、阿里地区ツァダ県内の曲竜(キュンルン)と確定されようとしている。ホフマンは著書のなかでつぎのように述べる。

「われわれはサトレジ川上流に、祈祷経中に記されるキュンルン白銀城を発見した。ここは聖地であり、シェンラブが生まれ、暮らした場所である。初期のボン教支持者はインド、ネパール境界に多く、また新疆にもボン教徒がいた」

 実際ボン教の伝統によれば、その初期の伝播はもっと広く、その聖地はタジクだった。ゾロアスター教の起源地も大夏境内であり、それがボン教のいうタジクであった可能性がある。ボン教とゾロアスター教の聖地は極度に接近していて、それは同一であったかもしれない。

 中央アジアは太古の昔、アーリア人が南下する際にかならず通過する地点だった。ふたつのペルシア帝国が統治する時期、ゾロアスター教を創立し、またアーリア人の後裔であるペルシア人は、中央アジアで活動したあと、宗教文化とともにチベット高原西北部にやってきた。後世の文化交流の中心となったはずである。