シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第7章 ボン教とゾロアスター教の密接な関係

 

3 類似した創世神話

 人類起源と世界創造神話に関しては、ボン教とゾロアスター教は類似した点がたくさんある。前述のように、1017年にシェンチェン・ルガが発掘したとされる『ゾプグ』にもナムカ・トンデン・チョスムジェの五種の本源物質がティギャル・チュグパの体内に集められ、物質世界を形成したこと、また風、火、露、微細なもの、山から白く輝く卵と黒い卵が生まれたこと、すなわち世間の線善類と悪類が生まれたことが記されている。

 ほかにも同様の伝説が伝わる。原初の神ヤンダク・ギャルポ(Yang dag rgyal po)は白色人で光明人であり、黒色のニェワ・ナグポ(Myal ba nag po)と同時に誕生した。

 前者からは世界のすべての美徳が生まれた。彼は太陽、月を創造し、人々を導いて廟宇を建てさせ、経文を印刷させ、教義を理解させ、橋や道路を造らせ、文明を構築させた。後者からは世界のすべての邪悪と災難が生まれた。悪魔、雷、火災、水害、風害、四万八千の疾病などがもたらされた。

 ボン教伝説中のヤンダク・ギャルポ(清浄王)はイランの宗教の無量寿仏(アミタユス)に、黒獄の主はアフリマンに、白色人はアフラ・マズダーに相当するのではないかと多くの学者は考えている。イランのズルワニズムとマニ教の影響が顕著なのである。

 『ユンドゥン・ボン教目録』(gyung drung bon khyi bstan pai dkar chag)の第1函(Ka)に引用された「dul thabs bstan pai ring chen」の観点からタジクの王統縁起と世間人類縁起が記されている。

「自ら生み出した九種の法から思いと報恩の知識が生まれ、そこから分かれて有界と世間(yod khams srid pa)が現れた。世間のサンポ・ブムティ(Sangs po bum khri)とチュチャム・ギャルマ(Chu lcam rgyal ma)が結合し、十八兄弟(ming sring bco rgyad)が生まれた。

 その長男のシジェ・チャンカル(Srid rje byang dkar)とラサ・ンガンダク(Lha za ngang brag)が結合し、ラセ・チャム・ギャルポ(Lha sras lcam rgyal po)ら六人が生まれた。

 その長男は天神系のニェン・ドムジェ(gNyen rdum rje)で、その子はナムラ・ティシェカル(gNam lha khri shes dkar)、彼は転生して人間の保護神となった。

 その子はカエル・ムラテン(Kha yel mu la then)。

 その子はムサン・ベーラテン(Mu sangs bal la then)。

 その子はベーサン・イェンラテン(Bal sangs gyen la then)。

 その子はイェンサン・チャラテン(gYen sangs phya la then)。

 その子はチャサン・オルラテン(Phyan sangs ol la then)。

 その子はオルサン・ユムラテン(Ol sangs yum la then)。

 その子はユムサン・グーラテン(Yum sangs rgod la then)。

 その子はグンサン・ウーラテン(rGung sangs od la then)。

 その子はウーサル・ムラテン(Od gsal dmu la then)。

 このように、「九天テン」(gnam gyi then dgu)は、一柱の天神の後裔である。最後のウーサル・ムラテンはまた、ムテンジェ(dmu then rje)すなわち持天縄王とも称す。

 その子ムジェ・ツンポ(dMu rje btsun po)とロマ・ウーセルマはムリ・ムゴイツェ山頂(dmu ri smu goi tse)で同居し、六種の黄色い光を放つ卵が生まれた。それが粉砕されると、中心からセ(gsas)、チェン(chen)、リ(rigs)、ガン(gangs)、カ(mkha)、ギン(gying)の六種物質の加持を持つ幼児が現れた。

 六人の幼児はタジクに行き、伝統的な六王部(gdung rgyud kyi rgyal po sde drug)を成した。

ムリン・シェンラ神(dMu ring gshen lha)の加持を受けた幼児は名をムチュグ・ケション(dMu phyug skyes gzhon)といった。

 その子はムギャル・ラムパ・チャカル(dMu rgyal lam pa phya dkar)といった。

 その子はムギャル・ツェンパ・ギェルチェン(dMu rgyal btsan pa gyer dkar)といった。

 (……)その子はムギャル・ボントゥカル(dMu rgyal bon thod dkar)といった。

 その子ギャルワ・シェンラブ(rGyal ba gshen rab)は八人の子に化身し、そのうち七人は出家したが、伝統を受け継いだのはコンチャ・ワンデン(Kong tsha dbang ldan)だった。

 その子は光王(Od kyi rgyal po)、雷王(Thog gi rgyal po)、竜王(Brug gi rgyal po)の三人だった。光王の後裔は分かれて天上に上がっていった。雷王の系統は人間のなかに分散した。竜王のトゥンヤル・ムコ(rTung yar mu khod)の子はギェンパ・ナムカ(rGyan pa na mkha)だった。その子はナムカ・ドンセ(Na mkha sgron gsas)とユンドゥン・トンロル(gYung drung mthong grol)だった。

 長男は非人を大量に出したため、家系は絶たれてしまった。末子はロポ夜叉を鎮圧しようとしてやはり断絶の憂き目にあってしまった。竜王の子はタジクで分散した。

長子の名をムボン・トンロル(dMu bon mthong rol)といった。

 その子はムボン・ギェレク(dMu bon sgye legs)といった。

 その子はトルワ(Khrol ba)といった。

 その子はカヨ・ムポ(Kha yo dmu po)といった。

 その子はムジェ・ヨンギャル(dMu rje yongs rgyal)といった。

 その子はラチョ(bLa mchod)といった。そのとき彼は「王の持明者」(dbang bai rig dzin)と呼ばれた。

 このように系譜は37代に及んだ。

 以上のことをまとめるとつぎのようになる。

 一。九の法から人類が生まれた。これは善である。

 二。タジクの王族は天からやってきた。これは天神の降臨であり、彼らは縄を伝って人間界に降り立った。

 三。天界から人間界に至る間に卵生の過程があった。各種に分化した。天上、世間、地下の三界で構成される。まずタジクからはじまった。

 四。タジクの氏族はム氏やツェン氏などである。

 ボン教史書の人類縁起やタジク王統記などに関する記述は、疑いなく、後世のボン教徒の偽造であり、根拠に欠けるものだ。しかしわれわれはこれらのなかに論ずべき点があると考える。

 一。ボン教はまずタジクに生まれ、シャンシュンを含む各地に伝わったのかどうか。

 二。天を崇拝し、光を崇拝するのを宗旨とするタジク・ボン教、そしてタジクの王族が天界からやってきたこと(それらの信憑性)。

 三。ボン教開祖シェンラブの出自がム氏族であること、および天神の後裔に属すること(の信憑性)。

 ボン教の発祥の地はタジクである。その伝播した領域は広大だが、チベットの史書によればその主要伝播地域はタジクの東部と東南部、すなわちインド、勃律(バルチスタンとギルギット)、シャンシュン、スムパ、チベット、中国である。

 タジク・ボン教とシャンシュンの関係については、『ユンドゥン・ボン教目録』の記述が詳しい。

「リシュ(Li shu)誕生の土・鼠の年から約550年経過した木・鼠の年、大ケンポ・ズトゥル・イェシェ(Dzu phrul ye shes)がタジクから大変幻の力によってシャンシュンにやってきた。

その60年後の木・鼠の年、ニェティ・ツェンポがチベットの王となった。 この60年後の木の鼠の年、中国五台山(rgya nag ri bo rtse lnga)で自ら獅子の形を成した。そして『暦算経』(rtsis rgyud)を講じ、教えを広めた。

 この52年後の火・虎の年、ニェティ・ツェンポの子ムティ・ツェンポ(Mu khri btsan po)が生まれた。この王の時期、シャンシュンのケンポ・ツグプ・ツシム(gTsug phud rgyal ba)は円満法(khrims zhus)について講じた。

 その弟子はヤゴン・イェシェ・ギャルワ(Ya gong ye shes rgyal ba)とパムシ・ペーギ・ワンプグ(Pham shi dpal gyi dbang phug)だった。

 ヤゴンの弟子はデツン・ラブセ(lDen btsun rab gsal)だった。この四人の伝承をシャンシュン・ツグプル・ツシム(gTsug phur tshus sim)と呼んだ。あるいはチベット四尊者(bod tsum)ともいう。この四尊者のとき、ケンポ・ズトゥル・イェシェがやってきて、シェンラブの五百の舎利をもたらし、それを塔内に安置した」

「トン(sTong)、ギュン(rGyung)両氏が誕生して9年ののち、水・牛年、ムティ(Mu khri)の子ディンティ・ツェンポ(Ding khri btsan po)が生まれた。彼の師(sku gshen)はチェウ・ウーカル(Ceu od dkar)だった。そしてセマル・ホマヤン・ツェツェ寺(gsas mar kho ma yang rtse brtse)を建てた。

 ディンティ・ツェンポの子はナムティ・ツェンポ(gNam khri btsan po)で、師はチェウ・ウーカル、そしてセマル・グラ・グキュ寺(gsas mar dgu ra dgu khyud)を建てた。

 ナムティ・ツェンポの子はダルティ・ツェンポ(Dar khri btsan po)。師はチェウシャン・カル(Ceu shangs dkar)。セマル・ゾウォ・キュンラグ寺(gsas mar zo bo khyung lag)を建てた。

 ダルティ・ツェンポの子はメティ・ツェンポ(Me khri btsan po)。師はチェウ・ミチェン(Ceu mi chen)。セマル・ユンドゥン・ラツェ(gsas mar gyung drung lha rtse)を建てた。

 メティ・ツェンポの子はセンティ・ツェンポ(Seng khri btsan po)。師はチェウ・シェカル(Ceu zhal dkar)。セマル・コマ・ギュリン(gsas mar khod ma rgyu ring)を建てた。

 この七王は頭頂に光の縄があり、それによって百歳に達すると王位を子に譲った。そして天の縄をよじ登って天に上がった。彼らは天ティ七王と呼ばれる」

「ディグン以降プデまで、ボン教は発展し、この二王をとくに中ディン二王()と称するようになった。

 このとき水・牛の年、プデはボン教政権を確立し、115年後の土・猿の年、ニェンチェン・リシュ・タグリン(sNyan chen li shu rtag ring)はタジクのオルモルンリンからボン教経典を請来し、鶴、鷺、鷲、赤い野鴨に載せ、神変の力でチベットに持ってきた。ボン教徒はそれを大雨が降ったと表現する。

 また『白黒花標題』(kha byang dkar nag khra)に記されているのは、鷺がインドに落ちると、神主ンガクド(lha bdag sngags grol)は喧伝し、教義を広めたことである。鷲鷹がシャンシュンに至ると、四学者は喧伝し、広めた。鶴が中国に飛ぶと、レグタン・マンポ(legs tang rmang po)は喧伝し、広めた。食屍鳥はチベットに至ると諸学者は喧伝し、広めた。インド、中国、シャンシュンのボン教はこのようなものである」

 ホフマンの研究によると、ボン教経典『十万竜経』は世界の起源を竜母(klu mo)と説いているという。竜母は、竜のあと世界秩序が形成されたことを表わしている。

 その頭の上部は天空となり、右目は月、左目は太陽になった。上あごの四つの歯は四つの星になった。それが目を開くと昼間で、閉じると夜だった。その上下の歯の間に現れる月の形が黄道帯だった。その声が雷になり、舌が稲妻、呼気が気流となり、涙が雨となった。その鼻腔から風が生まれ、血液が変成してボン教宇宙の五大洋となり、血管は川、肉体は大地、骨は山脈となった。

 ボン教のこの宇宙開闢神話とメソポタミアのティアマト神話はよく似ている。両者とも世界の起源は水怪の身体としているのだ。相当長い間メソポタミアはイラン帝国(アケメネス朝、パルティア朝、サーサーン朝)の一部だったので、あきらかにイラン人はこの種の神話を熟知していたにちがいなく、その影響はイランを通ってシャンシュンの宗教の中心部に達したはずである。

 このほかにも、ティセ(カイラス山)とマパムユムツォ湖の古い伝説にもイランの影響が見られる。こんな神話である。

 シャンシュンの国王がいた。彼は子宝に恵まれなかった。ある日遊牧民がやってきて国王に言った。ある岩のなかから妙な音がきこえるという。国王がその岩を見に行くと、岩の洞窟から8歳の男の子が現れた。この男の子は国王の精神的な息子と考えられた。彼の身体は光輝く虹でできていた。

 この神話は古代イラン人の太陽神ミトラの誕生神話の模倣である。ミトラは通常「岩生」といわれる。ローマ帝国の皇帝でさえミトラ神話のことはよく知っていたという。

 一部の後期仏教経典には、イラン北部のパルティア人が称したウマチトラ(vmacitra)という神に触れたものがある。この名も「岩生」という意味だという。このようにボン教のなかにペルシア的な要素があるという主張は十分に根拠があるといえるだろう。

 卵生説に関して言えば、ニャンロ・ニマ・ウーセル(1136−1204)が認めるように、タジクから来た非仏教徒のもたらした理論だった。ボン教徒の作者シェラブ・キュンナ(1187−1241)も認めるように、卵生説はヒンドゥイズム、とくにシヴァ教の教理と関係が深い。

 ボン教史書は、ボン教がタジクから来たことを強調するだけでなく、完全な伝播の系統を持っていることを認識する。その源流がタジクにあるだけでなく、つねにタジクからボン教経典や理論がもたらされてきたのだという。

 ボン教の伝説・神話が真実でなければならない、ということはない。とくにタジクの王統に関する記載は客観的な根拠が不足している。しかし疑いなく、ボン教とタジクの宗教との間には一脈通じるものがある。