シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

第7章 ボン教とゾロアスター教の密接な関係

 

4 似た修行と葬送習俗

 ゾロアスター教の太陽や光、火に対する崇拝の突出した位置は、整った修行法や崇拝の儀軌を生み出した。

 ボン教の光明や火に対する崇拝は、チベットの王族起源神話などの形成に影響を与えた。

 ゾロアスター教の教主ゾロアスターの神格化、拝火、ゾロアスター教祭司マグの出現過程について、古代の作家も記録している。たとえば1世紀から2世紀はじめのローマの哲学者ディオン・クリュソストモスは『演説集』のなかで述べる。

「ギリシア人(マグを指す)は言う、ゾロアスターは情熱的に智慧と正義を求め、彼の信者のもとを離れ、山に上り、そこに火を放つと、燃焼がやむことはなかった。国王やペルシアでもっとも高貴な人々がつどい、神を求めると、ゾロアスターは火のなかから飛び出してきて、彼らに神に向かって歓呼し、献祭するよう求めた。すでに神はここにやってきているというのだ。

それからゾロアスターは彼らのうちの何人かと面会し、真理の知識を授与する。彼らに神の意図を理解させたのだ。ペルシア人は彼らをマグと呼び、彼らが神と交流する能力を持っていると考えた。ギリシア人はそのことを理解できず、彼らを巫師と呼んだ」

 ボン教も似ている面がある。ボン教の教主シェンラブ・ミボは智慧の化身とみなされ、その弟子たちは神と交流することができると考えられている。また太陽や天、火を崇拝するのもおなじだ。

 イタリアの著名なトゥッチ教授によれば、チベットのツェンポの祖先「オデスブギェル」はボン教の信仰と密接な関係があった。「オデ」は光明を意味する。ボン教の世界観では天上は光明に満ちた場所であり、その下に穴があいていて、太陽、月、星はその光明が漏れたものである。この光明に満ちた天界が「スプ」であり、高貴な天神が居住するところである。

 チベット人は祖先が光明、すなわち太陽神から来たと考える。それがボン教教義および儀軌に与えた影響ははかりしれない。

 ボン教の修行法とゾロアスター教とは近似した特長がある。ゾロアスター教は天や火を拝し、神廟を建て天神や火神を祀る。一方ボン教は、天を拝し王族の祖先を神格化することでツェンポの天からの降臨神話を生み出してきた。チベットや中国の史書には数多くの記述があった。

 たとえばコンポ地区の摩崖石刻には、「初め、天神六兄弟の子、ニェティ・ツェンポが人間界に降り立って以来、ディグン・ツェンポまでおよそ七代なり」と記されている。

 またシェラカン石刻には「人間の守護神となるべく大地に降臨せり。のち天宮に帰還す」と書かれている。

 『唐蕃会盟碑』にも「聖神ツェンポ・オデスプギェル、天地を渾成し、人間界に入り、大蕃の首領となる。高く連なる雪山の中央、奔流する大河の源流、きよらかな高地にて、天神にして人主、勇敢で武功を成し遂げ、不朽の国の基礎を築いた」と記される。

 『通典』の「吐蕃」の条には「ツェンポは自ら天神の生まれという。オデスプギェルと号し、もって姓となす」とある。

 ボン教の葬送習俗とゾロアスター教の葬送習俗を比べれば、きわめてよく似ていることがわかる。以下、とくに鳥葬と甕葬について論じたい。

 ゾロアスター教の鳥葬はかなり古くからあった。古代ギリシアのヘロドトスもその『歴史』のなかに記している。

「ペルシア人の遺体は犬や禽獣に食われたあと埋葬される。マグス僧がこの風俗に関わっているのは疑いない。彼らは公然とこの風俗を実施しているのである」

 ペルシアの古典『アヴェスタ』中の「ウェンディダード」第3章45節にも説明されている。ゾロアスター教徒は遺体を鳥獣の出没する山上に放置し、犬が食い、鳥がついばむがままにさせる。

 ただし考古学的見地からいえば、ペルシアの鳥葬は次第に形を整えてきたものだという。実際アケメネス朝のとき、鳥葬が提唱されたが、ゾロアスター教徒の国王自身の葬送は鳥葬ではなく、防腐処理を施されたあと、埋葬された。

 サーサーン朝になると、「ゾロアスター教徒はアケメネス朝と同様一般には鳥葬を取り入れた。ただ王族だけは例外だった。彼らは遺体に防腐剤処理を施し、陵墓に安置した」

 学者によっては、サーサーン朝時期の鳥葬とアケメネス朝時期のマグス僧の葬式とは同一ではないと見る。すなわち野獣に食わせることはせず、専用の建物のなかに遺体を置き、自然の風化に任せ、鷹やはやぶさがついばむ音を聴くだけである。

 中央アジアとペルシアの関係も密接である。

「安息(パルティア)人にはゾロアスター教を復興させた功がある。彼らは古代ペルシアの神々を復活させただけでなく、火壇を建設し、ゾロアスター教の規律を厳格に守り、王族の遺体を投げ捨て、ハゲワシや犬に食わせた。これはアケメネス朝でもできなかったことである。彼らは古代のゾロアスターやその門徒の言論などを集めた。これに注釈を加え、聖典『アヴェスタ』を成していった。ただし古代の聖なることばを収集、編纂する仕事は安息朝のつづく間に完成することはなかった」

 また『西蕃記』はつぎのように述べる。

「康国人(注:ソグド人)……俗に天神(注:ゾロアスター)に事(つか)え、はなはだ篤く崇拝し敬う。神子(注:殺された建国の英雄)は七日間死ぬという。(神子の)骨は失われた。神につかえる祭司は、毎年この月になると黒の綿衣をきて、はだしで、胸をかきむしりながら号泣し、涙を流す。丈夫と婦女三、五百人、草原に散在して天子の骨を捜す。七日にして(宗教祭礼が)終わる。

都の郊外には二百余戸の村があり、葬送(儀礼)を知らない。一院の建物を建て、なかに犬を飼う。人が死ぬと院内に置き、犬に屍骸を食わせる。肉が食い尽くされると、骨を埋葬した。棺桶はなかった」

 ペルシアのサーサーン朝期、鳥葬の習俗を堅固なものとし、統治者はこの葬法を行政手法として利用した。シャプール2世(309−380)のとき、聖典アヴェスタが編纂された。そのなかの『ウェンディダード』第3章35−39節に、犬や人の遺骸を埋めたら半年後に掘り出さなくてはいけない、違反すれば鞭一千回、一年で掘り出さなければ鞭二千回、二年でもはや賠償しきれない(ほど罪が重い)、という規定があった。

 このことは、この習俗が統治者の採用した葬送ではないことを物語っている。またペルシア全体の習俗でないこともわかる。ゾロアスター教の信仰から推奨された習俗だということを示しているのだ。

 『アヴェスタ』の『ウェンディダード』は、魔を駆逐する法という意味である。その第6章に死体処理の方法が問答形式で述べられている。

問:「どのように遺体を安置するのか?」

答(アフラ・マズダー):「もっとも高いところに安置し、鳥や獣に食わせるのだ。また金属や石、角などを用いて死者の頭髪と両足をしばる。鳥や獣はそれを水中や植物のなかに運ぶだろう」

問:「それからどうやって骨を安置するのか?」

答:「獣との接触を避けるため、容器のなかに入れる。それによって雨水に濡れることもない。もし容器に入れることができないなら、地面に放置し、日光が照らすようにするといい」

 普通の人は遺体に触れることができず、専門の人だけが運搬することができた。彼らは「不浄人」と呼ばれた。

 『魏書』の「波斯国」にはつぎのように記される。

「逝去した者の(遺体の)多くは山に遺棄される。一ヶ月は服を着たままである。町の郊外に住む人があり、ただ葬送のことを知る。不浄人と号す」

 チベット・ボン教の儀軌や葬送制度のなかに、これらの葬俗と対応するものを、容易に探し出すことができる。

 吐蕃朝期に目を転じると、天ティ七王の時期にもっともボン教が隆盛を迎えていたが、ツェンポたちの葬送法は、鳥葬であったと考えられる。

 中央アジアの考古学調査によると、もとチベットに属していたインド・ラダックのザンスカールやパキスタンのラフルなどで(注:ラフルはインドに属する)ゾロアスター教と関連する岩絵が多数見つかっている。1985年9月、チベット自治区の文管会文物調査隊は阿里地区西端のルトクで大量の岩絵を発見した。そのなかには太陽や火の崇拝と関連ある図案がたくさんあった。それらは中央アジアのゾロアスター教の習俗の影響だろう。

 吐蕃の鳥葬とペルシアの鳥葬に関し、学界は三つの点に注意を払っている。その一。専門の鳥葬の場を作った。ペルシアにはダフメ(dakhme 沈黙の塔)が建てられた。チベットには、鳥葬場、鳥葬台などと呼ばれる場所があった。その地点は鷲や鷹が食べやすいように山の中腹や丘の上が選ばれる。その二。専用の鷹や鷲が飼われることもある。その三。これを行なう専門職は鳥葬師と呼ばれる。

 ロシアの中央アジア研究家バルトルド(Barthold)は、中央アジアとペルシアのゾロアスター教のもっとも異なる点は、甕葬だと考えている。すなわちペルシアでは鳥葬がさかんで、死体は野外で鷹や鷲、猛獣に食べさせた。いっぽうの中央アジアでは、火葬が流行し、盛骨甕に骨灰を容れた。この甕は多くは陶質でできていて、石膏製のものもあった。盛骨甕が現れたのは前2世紀頃で、月氏のクシャーナ朝の頃とくに流行した。この種の習俗は、イラン東部で鳥葬と火葬がまじわったことの結果である。

 吐蕃地区にはこの種の葬俗が残っていた。中国の史書にはつぎのような記載がある。

 女国では「貴人が死ぬとその皮をはぎ、金屑と骨肉を瓶につめ、埋めた」。(『隋書』女国)

 羊同国では「首領が死ぬとその脳漿をえぐりとり、珠玉を入れた。また五臓を取り出し、黄金にかえた。金の鼻、銀の歯をつめた。人をもって殉死させた。卜占でもって吉日を占い、岩穴に遺骸を納めた。他人がその場所を知ることはない。牛、羊、馬を殺して祭祀をおこない、喪を終えた」。(『通典』巻190)

 伝説によれば大臣ガルは『目録』を撰し、つぎのように記した。

「天ティ七王の遺体は天上に安置した。その聖体は人の目にとまることなく、虹のように天空に消えていく。早期二王(注:ディグム・ツェンポとプデ・グンギャル)の遺体は陶製の壷に入れられ、上面は吉祥の絹布で覆われた」

 早期二王時のツェンポの葬送儀礼には甕葬が取り入れられ、チベットにはボン教が伝来していたこと、ならびにボン教の葬送儀軌との関連性がよみとれる。

 チベットの史書によれば、ディグム・ツェンポのとき、カシミール、勃律、シャンシュンから三人のボン教徒がやってきた。彼らは葬送儀礼の鎮魂駆邪儀式について教えた。この三人のうちひとりは、

「災厄を除く儀礼をおこない、休火神法を駆使し、太鼓に乗り、虚空を飛び回り、秘密の宝を開き、鳥羽で鉄を切り、各種法力を見せた。

 これらはディグム・ツェンポの葬送官が処理した。

 ゾロアスター教世界には「判別の橋」(chinvat)がある。この橋は狭いが、死後魂はかならずこの橋を渡らなければならない。善なる者は平地を歩くように楽々とわたることができる。悪い者は、刀山火海を渡り、深遠に墜落する。

一部のチベット文献は「死者よみがえり」('das log)について述べるが、その川を「死者の黒川」(gshin chu nag po nga ro can)、すなわち地下界川、橋を「閻王橋」()とする。閻王橋は毛髪のように細いという。善なる者にとっては簡単だが、悪人は地獄の奔流に落ちる。

 ペルシアの原始宗教には動物犠牲の祭祀があった。ボン教にも犠牲祭祀の習俗があったにちがいない。

「ボン教には毎年秋になると牡鹿の角を伸ばす祭礼をおこない、鹿千頭を殺し、その血肉を神に捧げた。ヤク、ヤギ、綿羊三千頭の喉を切り、血肉を神に捧げた。春には大腿部を切って捧げた。夏には各種の樹木、桑をつみ、犠牲を殺して血肉を捧げた」(トンガル・ロサン・ティンレー)

 これは原始宗教の特性だが、ゾロアスター教の影響も無視することはできない。