チベットの13の戦神 

ロビン・コーンマン 宮本神酒男訳

 

 ドルジェ・ダドゥルのタンカはヴィディヤーダラ(智慧ある者)、すなわちチョギャム・トゥルンパ師を、リン・ケサル王やシャンバラのリグデン王と同様の戦士王として描く。タンカにさまざまな人物や神格が登場することからも、ドルジェ・ダドゥルが多くの教派の教えを組み合わせようとしたことがうかがえる。

 タンカの最上部には、彼の「シッダ(成就者)の体現のサーダナ(鍛錬)」つまり「マハームドラーのサーダナ」に現れるカギュ派やニンマ派のメインの3人のグルが描かれている。

 中央の人物の頭部のまわりを、肩から肩にかけて、ガンダルヴァという名で知られるダーキニーたちが、天界の演奏家として踊っている。タンカの底には3人の仏教のダルマパーラー、すなわち守護神たちが描かれている。そして彼の左、右、下に半円状に並んでいる武装した13人の戦士たちは、トゥルンパ・リンポチェの顕現である。というのも彼らは一揃いでリンポチェを成しているからだ。彼らはチベットの13人のダラ(戦神。ダブラとも発音する)である。

 キェンツェ・リンポチェとサキョン・リンポチェがタンカをデザインしたとき、ドルジェ・ダドゥの西欧における教えを表わすよう神格やモティーフを配置した。それゆえトゥルンパ・リンポチェがニンマ派とカギュ派の教えをいかに組み合わせたか、彼のもっとも有名なサーダナのグルたちによって表現した。タンカの底に並ぶ守護者たちは、ヴァジュラダート(金剛界)センターを守るために彼が呼び出した男女のダルマパーラー(護法神)である。彼のシャンバラの教えは、中央の人物の戦士スタイルと、もちろんこの13人の戦神(ダラ)たちによって代表されるのである。

 リンポチェの戦神(ダラ)の本質に関する教えは、カラパ集会ホールでおこなわれたシャンバラのテルマ(埋蔵経典)をテーマにした講演のなかでも触れられている。

 13人の戦神(ダラ)とはだれなのか? 実際、この質問にたいする答えはいくつもある。正確な答えを引き出そうとすると、あなたは混乱に陥り、当惑するばかりだろう。それにもかかわらず、これらの戦士たちには共通のテーマがあり、あなたが実践修行するとき、各自の体験のなかでそれらがどのような感覚に相当するか理解する手助けになるだろう。

 それらを読みながら、あなたは具体的なものによってあなたを洗い流し、直感的に過去から受け継いできたものを会得するだろう。ダラ、あるいはわれわれが翻訳するように戦神は、チベットの非仏教徒の土着の神々である。もしチベット人にそのことについてたずねたなら、彼あるいは彼女は、それはボン教の神々だとこたえるだろう。というのもそれは仏教徒がチベットにおける非仏教の宗教を非公式に指す言葉だからである。この答えは厳密には正確とはいいがたい。ボン教は、おそらくシャンシュンという名で西欧に知られる古代王国からチベットにもたらされた公式の宗教なのである。

 ボン教は多くの経典を擁した、定義された教義をもち、仏教のような形而上学や瞑想修行をそろえたシステマティックな宗教である。ボン教経典がダラ神や土着の神々に頻繁に言及しているのはたしかだ。しかしより正確にいうなら、チベット人類学者のR・A・スタンが述べたように、ダラ神信仰の本当の故郷は、名のない宗教なのである。それはどの家系、教派、体制に属しようと、すべてのチベット人に共通する神秘主義的な信仰なのである。スタンはこの宗教を「名無し宗教」と呼んだ。

 この名無し宗教に特徴的な儀礼のひとつは、ラサン(lhasang)、すなわち煙の浄化儀礼である。これはまちがいなく非仏教儀礼であるが、仏教徒、ボン教徒双方によっておこなわれている。というのも、チベットのだれもがラサンによって召喚される戦神を信じていて、杜松(ねず)を焚いた煙に沿ってそれらが降りてくるものと考えているからだ。もしニンマ派やカギュ派によって招請する歌がうたわれるなら、ラサン儀礼はブッダやボーディサットヴァの名を挙げることからがはじまるだろう。しかし儀礼の要となるのは、覚醒した者たちのつぎのレベルにあるダラ神を呼ぶことである。ボン教徒によって呼ばれるなら、儀礼はボン教祖師やボン教の覚醒した者たちの名からはじまるだろう。しかしボン教のラサン儀礼の核となるのは、仏教徒とおなじダラ神のリストを読み上げることである。

 実際この儀礼によって呼ばれるメインの神々には分類上の特別な名がある。それらは8つの神々の階級に分けられ、ラデギェ(lha degye)と呼ばれる。この8つの階級は、すべてのチベット人が信じる非仏教の、すなわち土着の神々のリストである。リストに挙げられる神々は、伝承によってわずかに異なるが、ほとんどの場合、ダラ神は8つのうちのひとつとして含まれる。それにはほかにラ(lha 空の神々)、ニェン(nyen 山の神々)、ル(lu ナーガ、竜)なども入っている。それには奇妙な土着神も見られる。たとえば一本足の神テウラン(teurang)や竜巻に乗る博奕の神々など。

 これら8つの階級はたんにダラと呼ばれることがある。ダラという名前自体がチベットの土着の神々すべてを指すようになったからだ。しかし名前が示すように、それが正確に使われるならば、特別な役割を持っていることを表わしている。つまり実際的な個人の保護である。ダラがこのように考えられると、つまり守護者と考えられると、彼らは武器をもって馬に乗る武装した男女として描かれる。すなわちわれわれの守護者であり、聖なるボディガードなのである。これが一般的にダラ神として描かれる神像である。

 ウォルター・スコットはかつて「立派な勝者、勇敢に馬に乗り、たくましく武装した者」と表現したが、特別なダラ神について、またその性質について言及するとき、描かれる神像は異なってくる。それぞれのダラがふさわしい名前をもち、戦神の二次的なカテゴリーの名が、特別でユニークな像として与えられる。しかしまず、その名がどういう意味を持つか見ていこう。

 

ダラ神とそのグループ 

 われわれがダラ神として知っているもののほとんどは、さまざまなラサン儀礼の経典とケサル王物語からきている。そこではあとで見るように、重要な役割を占めている。しかし資料によってそのリストは劇的に変化する。おそらく二つか三つのダラ神のグループがあり(一族と呼ばれる)、それぞれ13人のメンバーをもつ。典型的なラサンの祈祷書から神々の体系的なリストを得ることができ、お香の煙に沿ってそれらを呼び出すことができる。グループによってはメンバーが3人であることもあれば、9人、13人、あるいは36人の場合がある。

 ラサン儀礼は通常もっとも高位で聖なるもの、すなわち諸ブッダやイダム、大ボーディサットヴァ、グルなどの呼び出しからはじまる。つぎに土着の神々、すなわちダラ神、ウェルマ神などを呼び出す。これらが呼び出されるとき、われわれはダラ神の体系や仲間のことを知ることになる。ダラという言葉自体、神々の階級のことを言っているのであり、こうした一族のひとつを指している。

 しかしダラという言葉は、敵の攻撃にたいし守護しようとする戦士の右肩にいる特別なチベットの神をも指す。じつはこのダラとは、「敵に対する神」という意味なのである。ダラ(dgra)は敵を意味しているのだ。ラ(lha)という語はふたつの意味を持つ。この綴りの場合は「神」を意味する。このようにダラは「敵の神」を意味する、つまり敵にたいし守護する神ということなのである。

 しかしラの綴りがbla(上方の意味)のとき、発音はhのないlaであり、「敵の上方」を意味する。『シャンバラ 聖なる勇者の道』のなかでは「いかなる敵、あるいは軋轢の上方……攻撃を越えた智慧」と説明されている。blaという綴りにbがあるため、チベット人によってはダブラと発音することがある。

 特別な神の名としてのダラは、『風馬を呼び起こす祈祷』のなかで言及された「5つの守護神」と呼ばれる個々の力である。5つの守護神は戦士の身体の各部位を占め、人生において成功を必要とするときに本領を発揮する。

これらは風馬(ルンタ)とほぼ同意語であり、しばしば「真正の存在の5柱の守護神」と呼ばれる。真正の存在とは、チベット語のワンタン(dbang thang)を訳したものであり、文字通りには、「力の領域」という意味である。それは戦士や聖人の身体を取り囲む見えない光やエネルギーの球体と考えられてきた。チベットのタンカは両肩の上に架かる虹としてそれを表現している。5人の守護神が戦士の身体に付与されると、彼あるいは彼女の風馬が呼び起こされ、ワンタンはエネルギーの場のように身体に広がっていく。

 5柱の守護神にはどういう特徴があるのだろうか。リストにはつぎのように説明されている。

 

頭頂 ユラ(土地の神)

右肩 ダラ(敵の神)

右腋 ポラ(男の神)

左腋 モラ(女の神)

心臓 ソクラ(生命力の神)

 

 ユラ(yul lha)は古代の神で、しばしば狩猟と関連づけられる。それは追跡の神とも訳されることがある。またときにはある特定の地域を総べる神とみなされる。

ソクラ(sok lha)のソクはよく知られたチベットの生命力を表わす言葉である。生命力は人の心臓に宿る。それはチベットの伝説のなかで、3つの力、ソク、ツェ、ラ(soktsela 生命力、寿命力、魂)といわれるもののひとつである。ソクはときにはソク・マルポ、赤い生命と呼ばれることがある。それなしに人の身体は活性化しない。

 ツェは人が生まれたときに受け取る力である。ツェを使い切ったとき、人は老齢で死ぬという。

 ラは複合的な力であり、人のアイデンティティーのもととなるものである。学者によっては中国の「複数の魂」という概念の影響を指摘する。憂鬱になったり、忘れっぽくなったり、極端に病気がちであるのは、そのことと関係がある。ラがさまよい出ると、その人は死んでしまうかもしれない。ラを連れ戻すための儀礼は重要だ。そのために「身代わり」が必要となる。実際、よく知られたカギュ派の白ターラーの実践においては、人の寿命を伸ばすため、「ラを取り戻すための身代わり」儀礼をおこなう。

*訳注 最近興味深い記事(スポニチ)を見つけた。2015年大相撲夏場所11日目、白鵬との大一番を控え土俵に向って花道を歩く照ノ富士の右肩を観客の男性が叩いた。すると照ノ富士は眉間にしわを寄せて、男性をにらみつけた。「俺の肩には神様がいる。触られたくない」と思ったという。これはあきらかに右肩の神ダラ(モンゴル語でDayisud Tngri)のことである。モンゴルの宗教や信仰、文化がチベットの影響を強く受けているのは周知の事実。戦士ケサル王の右肩に神が宿るように、戦士ゲセル・ハーンの右肩にも神が宿っているのだ。戦士照ノ富士が縁担ぎをするには、こういう文化的背景があった。

 

ダラ神とトラウマ 

 これまで述べた力や神々は、チベット人のトラウマ理論と呼ぶべきものである。人が突然ショックを受けたとき、それは身体からこれらの力を追い出すことにつながるかもしれない。もし人が極度の屈辱を味わわされたら、守護神は、そしておそらくラ自体が身体を捨ててしまうかもしれない。2004年はじめ、アブグライブ収容所でアメリカ兵が用いた囚人を「軟化させる」尋問テクニックは、これを使って人から生命力や守護神を奪うという方法だった。

このような例は枚挙にいとまがない。たとえば、人が国王を暗殺したいと願うなら、国王であるかぎり相当に強いはずの守護神を駆逐する必要がある。古代チベットの王チグム・ツェンポが大臣のロン・ンガムに殺されたとき、その前に大臣は国王のダラとポラを国王の肩と腋から奪い去っていた。

 英雄ケサル王物語のなかで、若いケサルはアニ・ゴムパ・ラージャという名のボン教シャーマンから攻撃される。アニの攻撃は、ケサルのテントから離れた場所から「パウ」と3回叫ぶことからはじまる。3回叫ぶのは、ケサルの身体のまわりに住む守護神たちを脅して追い払うことを意図している。ケサルがケサルであるということは、通常以上に守護神と力を所持しているということだ。彼は4柱の親縁の神を擁し、それぞれが神々の軍隊を指揮している。ケサルはここではジョルという名で呼ばれている。その名の呼称をやめるのは競馬に勝ったときだった。

ジョルはゴムパ・ラージャが彼のダラ神を襲い、4兄弟4姉妹のダラ神によって石化させようとしていることに気づいた。石化されるとそれはのちに武器として使われるのだ。物語のなかで彼は甲冑と馬を獲得する。これらの神々は彼の武器や甲冑、馬の身体の各部位に住んでいた。これらの物や場所、すなわち実在するものは、ダラ神がその存在を誇示するための一助(rten)となった。

つぎはゴムパ・ラージャが神秘的な攻撃を仕掛けるときの一節である。

 

ジョルは言った。

「お母さん、アニ・ゴムパ・ラージャを退治するときがやってきました。4つの小石をもってきてもらえますか」

 母は4つの小石をジョルの手の中に置いた。ひとつは手前に、ひとつは後ろに、残るふたつは左右に置いた。

[それから彼は呼んだ] 一番上のお兄さん、白い法螺貝のガルダ、つぎのお兄さん、小さな光のナーガ、姉妹の輝ききらめく光、そして兄弟の9柱を伴ったニェン・ゲゾ神、戦神のなかで至上の者。その時点で戦神のための実際の助けを得ていなかった。すなわち甲冑、かぶと、そして武器(まだ集められていなかった)。それゆえ戦神と家臣たちは、瞑想の一助となるものとして小石が与えられたのである。

 アニ・ゴムパ・ラージャは修行小屋からやってきて、3つの祭壇に近づいた。彼が最初に「パウ!」と叫んだとき、空のすべての神が姿を消した。しかし900人の法螺貝で武装した者たちに囲まれた長兄の白い法螺貝のガルダは傷つけられることなく小石とひとつになった。

 彼はふたたび祭壇のひとつに近づき、「パウ!」と叫ぶと、下方のすべてのナーガの姿が消えた。しかし二男の小さな光のナーガが900の家臣とともに残った。テントを見ながらアニがふたたび「パウ!」と叫ぶと、中空のすべてのニェンの姿が消えた。しかしゲゾは360人の家臣たちとともに残った。

 そのときジョルは心を集中し、神々を呼んだ。するとすべての戦神は激しい雪のように戻ってきた。あちこちで稲光が閃く雪嵐のように、ダルマパーラ(護法神)やウェルマ(戦神)がやってきた。

そのとき異教徒のゴムパ・ラージャが戸口にやってくると、ジョルは走って小石をすくいとって投げつけた。アニが見たところでは、900人の法螺貝で武装した者を連れた白い男と、900人のトルコ石で武装した者を連れた青い男、360人の黄金で武装した者を連れた黄色い男、900人の強い者を連れたダーキニーの軍隊がいた。後ろを振り返ることなく彼は逃げ出した。

 

 この一節が示すように、ダラは自在に形を変えることができるし、さまざまなものに宿ることができた。ジョルが彼らを石に押し込め、アニに向って投げつけると、このシャーマンにはダラが図像そのままの姿で襲いかかってくるように見えた。

 特別な、卓越した存在であるために、ケサルは特別なダラをもつ必要があった。ここに挙げた4つのダラは守護神のようにふるまったが、たんなる守護神ではなく、よりパワフルで特別だった。

 また彼らは兄弟、姉妹と呼ばれることがあった。というのも彼らはケサルといっしょに天界から降りてきて、ともに子宮に入り、ともに生まれたからである。その他の者たちも生まれる前に引き寄せられたのであり、彼のまわりに残った。

 のちに彼は埋められていたマギャム・ポムラやまから聖なる甲冑を得た。そして魔法のような馬をだれもいない土地で得た。その馬は彼が生まれたときからそこに住んでいたのだ。これらは物に宿る神々である。

 彼らはそれぞれ同様に現れる他のダラの軍隊を伴っていた。アニが彼らを脅して駆逐しようとしたとき、身体にいる、あるいは身体のまわりを富んでいるたくさんのダラに効果はあったものの、もっとも力強い者たちはしっかりと残った。

 普通は、3つの恐ろしい「パウ!」によって、アニの攻撃を受けた者は制圧された。しかしそこは完全なる力と威厳をもった、風馬を帯びた、真正の存在であるケサルである。ダラたちは瞬時に現れ、体制を作り直し、雪嵐のような勢いで戦神としてもどの状態にもどった。

 こうしたことがチベットの魔術において戦士がおこなうべきことだった。ショックやトラウマを受けたあと、彼は心を集中して風馬を呼び起こし、心理状態を立て直し、守護神を呼び戻すのである。

 チベットの守護神に関する本のなかで、ネベスキー・ウォジュコウィッツは5つの守護神の図像について描いている。モラ(mo lha)は若くて美しい少女で、白と青の絹の衣を着て、宝石で飾った王冠をかぶっている。彼女は白い鹿に乗り、占いの矢と鏡を持っている。名はマチク・パルギ・ラモ。唯一の母なる輝かしい女神という意味である。彼女は自身の身体から自分と同様の女神を発している。

 ソクラ(sok lha)は、白い蹄をもつ黒い馬に乗った、強靭な身体の白い人として描かれる。黄金のかぶとと胸当てをつけ、白旗がついた槍と罠をもっている。身体からは無数の「男の神々」が発せられる。

 ポラ(po lha)は白と青の絹の衣を着た若い男である。如意宝と宝石満載の器を持ち、身体から「真正の存在の33の神々」を出した。

 人が想像するように、ユラ(yul lha)は追跡のための服装をした男として描かれる。白い馬に乗り、弓矢を手に持つ。彼は土着の神々、城の神々、羊、白ヤクを送りだした。

 混乱しやすいのは、5柱の神すべてがダラと呼ばれ、同時にそのうちのひとつがダラと呼ばれる点である。おそらくもともとは戦争の神だけがそう呼ばれていたはずだが、次第に守護する役割をもつ神々の一般的な名称になっていったのだろう。前述のように、この名は善悪にかぎらず土着の神々一般にたいして使われるようになった。

 ダラと呼ばれる守護神は、白い上着を着た、高い靴をはき、白い絹のターバンをかぶった笑みを浮かべた若い男の姿で描かれる。彼は槍と罠をもち、ラサン儀礼のなかで、すべての仏教の師を送り出す。図像の細かい点、すなわち歌によって、あるいは伝承によっておおいに変わってきたが、一般的な概念はおなじである。守護神は武装した戦士として描かれることもあれば、猟師として、あるいは見目麗しい馬上の人として描かれることもあった。彼らは異なる軍備をもち、多くのより小さな神々を率いているが、一様に好戦的である。見た目は優雅である。男であろうと女であろうと、戦士は見た目が優雅であるべきだと考えているのだ。つまり彼らは人の身体に降臨し、異なる箇所を占めたとき、その降り立った服がきれいで、整い、身体は清潔でよく手入れされるべきだと考える。そして精神は威厳を保ち、勇猛であることを望むのだ。

 反対に、態度に問題がある者、落ち込んだりトラウマをかかえたりした者は、衣服をただしたり外見を整えたりすることによって、これら戦神を惹きつけることができるとも考えられる。要請にこたえて彼らが身体に降り立てば、心理学的にいっても、それによって奮い立つのは自然なことであり、簡単なことなのだ。

 このように、チベットの伝説のなかに、トラウマをいかに扱ったらいいかについての心理学のこたえがある。この心理学はダラと守護神という概念と結びついている。さらに、もしあなたがラサン儀礼の仕方、風馬の歌に通じ、人の「身体・精神複合体」にこれらの力や神々をもどす儀礼にたけていたら、いままで述べてきたこと以上に直接的に、風馬を呼び起こすことができるだろう。

 われわれはこのようにチベットの13のダラ神の一部とみなされる5柱の神々について論じてきた。つぎにこのリストに名を連ねることがあるほかの戦神について考えてみよう。英雄ケサル王物語のなかに、ケサル王の身体を飾るダラ神がリストアップされている一節がある。

 それを以下に引用しよう。

 

すべての有情の利益のために

彼の身体は9回、ねじまがった悪魔の攻撃を受ける 

しかし火の神「赤い虎」を 

そして彼の化身、雌虎のウェルマ神を擁するので 

火の要素は彼を傷つけることができない 

水の要素にたいしては、水の要素の風の神がいる 

トルコ石の竜がいる 

そして彼の化身黄金の魚のウェルマ神がいる 

木の要素にたいしては、木の要素の風の神がいる 

鳥の王、ガルダがいる 

そして彼の化身、白い胸の鷲のウェルマ神がいる 

鉄の要素にたいしては、鉄の風の神、大いなる獅子がいる 

そして彼の化身、白獅子のウェルマ神がいる 

火の平原や渡れない川を進むとき 

そして悪魔がつぎつぎと武器を産みだして攻撃してきたとき 

これらによって王が守られますように 

これら8つの風の神やウェルマ神が力をあわせて 

偉大なる者の身体を守りますように 

そして至福の喜びが閻浮提(Jumbudvipa この世界)を満たしますように 

 

 ここにはシャンバラで「4柱の威厳あるもの」と呼ぶ親しみのあるグループがある。中国道教の伝説にもそれらは風馬として現れる。実際、南伝道教が4柱の威厳あるものの起源なのだろう。2世紀の文献にわれわれはわずかなバリエーションを見出すことができる。叙事詩のなかでそれらは「4つの風の神」と呼ばれているが、しれは「4つの風馬神」を縮めたものと考えられる。上記の一節の4つの要素が中国の5つの要素(五元)のうちの4つと一致するのは特記すべき点である。

 これら4つの現れたものは、「ウェルマの顕現」と呼ばれる。一般的に、ウェルマ神とダラ神とのあいだに大きな相違はない。図像的にも差異はなく、ここに見るように、その役割も戦神とほとんどおなじである。もともとウェルマは矢尻の神だった。つまり矢が放たれたとき、これらは武器(矢)の上に乗り、的に当たることを確実にするということなのだ。

 つぎに挙げるのは、ケサル王の身体を守る9柱のウェルマ神である。

 

有毒の害から守ってくれるウェルマ 

トグロを巻いた黄色い友愛的な黄金の蛇 

食べ物の神、青いオオカミ 

速く飛翔する白い鷹 

夜も昼も暗闇を除く神々 

昼の羊飼い、白いハゲワシ 

夜の羊飼い、黄色いフクロウ 

心を清澄に保つ小さな白いウサギ 

戦士に勇気を与える白い熊 

治療するウェルマ、暗褐色の麝香鹿 

風馬の力で悪魔の輪投げをしくじらせるウェルマ 

白い口のキャン 

これら9柱のウェルマが

毒、黒魔術、巻きつく投げ輪から王を守る 

どうか偉大なるお方の身を守りたまえ 

そして閻浮提が至福の喜びに満たされますように 

 

 ケサルのタンカには、これらの動物がケサル王のまわりのオーラのなかに、光り輝く輪として描かれている。すなわち蛇、オオカミ、鷹、ハゲワシ、フクロウ、ウサギ、熊、麝香鹿、見事な青いキャン(チベット高原の野生のロバ)という9種の動物だ。これらは武具をつけた戦士のかわりに動物の姿をとったダラ神である。

彼らはまた、特殊な精霊を表わしている。たとえば青いオオカミは、食べ物の神(セラ zas lha)である。その力によって食べ物が薬に変えられる。フクロウは、道の神(ラムラ lam lha)である。それは軍の偵察隊の安全を守り、旅行者が悪路や危険な道を行く時も導いてくれるのだ。それは夜の羊飼いと呼ばれることもある。夜間の旅行者を守護してくれるからだ。

 

 キェンツェ・トゥルクであり、ケサル王物語の辞書の編集者でもあるセンカル・リンポチェによると、13のダラ神は、これら9つの動物神と4つの威厳ある者から成っている。歌のなかでは、彼らはウェルマと呼ばれる。しかし上述のように、これらの神々の境界はあいまいである。

 

 13の戦神のもうひとつのリストを示したい。これらはカギュ派のラサン儀礼経典から引用されたものである。

1 貴人・岩神(skyes bu brag lha 法螺貝の甲冑を着て、勝利の旗をもち、ガルダに乗る白い男 

2 戦神・保育の女神(dgra lha ma lha bu rdzi 紡錘と糸をもった黄金の女。保育の女神 

3 戦神・炉床の神・トルコ石の女(dgra lha than lha g.yu mo 3つの石(鼎)に住む炉床の女神。彼女は火の上で融けるバターを監視する。これはリベットの家庭では重要な家事とされる。白い絹の衣を着る。

4 戦神・家神・喉飲(dgra lha kyim lha ske thung 法螺貝の柱を手にもつ女神。彼女は家を守り、柱が倒れないように気を配っている。

5 戦神・ヴァイシュラヴァナ(vaishravana ヒンドゥー教の偉大なる富の神2柱のうちのひとつ 

6 富の神・アーリヤ・ジャンバラ(nor lha arya jambhala もうひとつのインドの富の神。チベット仏教には、ヴァイシュラヴァナとこのジャンバラのための儀礼がたくさんある。彼は宝石を吐き出すムングースをもった肥えた黄金の男である。

7 商業の神・饗宴の象の牙、ガネーシャ(tsong lha tsogs bdag glang sna ガネーシャはもっとも人気のあるヒンドゥー教の神。彼は象の頭をもった赤ん坊。名前は集会を意味するガナと、神を意味するイーシャから成っている。チベット密教においても地方の神として人気がある。チベットの土着宗教において、彼は戦神の軍隊のリーダーと目されている。

8−13 6柱の守護神(mgon po 

宴会の神(mgron lha) 

道の神(lam lha) 

盗賊の神(jag lha) 

戦争の神(dgra lha) 

食べ物の神(zas lha) 

生命力の神(srog lha) 

 

 ヴァイシュラヴァナ、ジャンバラ、ガネーシャは、おそらくインド密教を通じてチベットの宗教に入ってきたヒンドゥー教の神々である。それらはリストの最初の4神とかなり雰囲気が異なっている。その4神は非インド的で、チベット色が濃い。

 別のリストによってこれらの神の特性がわかる。

 

1 人を守る岩の神 

2 家族を守る母の神 

3 人の家畜の群れと富を守る炉床の神 

4 家を守る家の神 

5 金と銀を守るヴァイシュラヴァナ 

6 人の宝石を守るジャンバラ 

7 大いなる利益を保証する商業の神 

8 宴会を守る宴会の神 

9 岩棚と川の危険から守る道の神 

10 敵の富を壊す盗賊の神 

11 敵を降伏させる戦神 

12 食べ物を薬に変える食べ物の神 

13 生命力を守る生命力の神 

 

 もうひとつ関連のあるリストがある。5つの守護神の2番目のリストである。

 

1 炉床の神(thabs lha)は栄養のあるおいしい食べ物を供給する 

2 倉庫の神(bang lha)は食べ物と財産を増やす 

3 幸福の神(dge lha)はよい収穫を供給する 

4 柱の神(ka lha)は幸運と繁栄をもたらす 

5 戸の神(sgo lha)は富を増やす 

 

 タンカに話をもどすが、13の戦神がなぜそこに描かれているか、われわれは理解できる。実際のところ、それらは実践者の身体に付属した広い領域のさまざまな神々や力を、あるいは個々の意識がどこにあり、どういうふうにあるかを表わしている。

 タンカの上では、それらはドルジェ・ダドゥルの現れとされ、みな外見は彼(ダドゥル)と似ていると考えられる。これはそのとおりだろう。彼は西側にそれらをもたらした当のチベット人ラマなのである。ただし仏教経典にそれらを見出すことはできなかった。

 守護神を異国の地に移動させるのは興味深い考えであり、欧州の古典文学にも見られるものである。ウェルギリウスの『アエネーイス』のなかで、ローマの建設者は彼の地方の家族の神をアジアからイタリアにもたらしている。『アエネーイス』は故郷がギリシア人の軍隊に侵略されたあとのトロイ人の運命について書かれたものである。トロイ人貴族のアエネーイスは小さな家族集団とともに燃え上がるトロイから脱出した。彼は老いた父親を背負い、手にはいわばダラ神の神像をもって逃げ出した。彼らのダラ神はラレス(lares)またはペナテス(penates)と呼ばれた。

 彼はまた、トロイを見下ろしていた巨大な、恐ろしげな、すばらしいイダ山の女神キュベレの像を持ち出した。この憤怒の女神像は、アエネーイスの子孫によってローマが建てられたとき、市の中心部に置かれた。

 ローマの貴族は家の中で、ラレス像やペナテス像、そしてほかの家族神、ヌミナの像に捧げものをした。これらのすべての神はトロイの家族神であり、破壊された故郷から運び込まれたダラ神である。それらはローマの国の内なる力と強さを体現するものだった。これらのうちいくつかは家族のジェニイ(ジーニアス、天才)と呼ばれたが、彼らが知的で、現代のジーニアスが意味する天才というわけではなかった。もともとそれは家族の支配的神、ダラ神ということだった。それは世代から世代へ、家族、部族、共同体の真髄として生きてきたのである。

 これがおそらくわれわれにとって13の戦神が意味するものである。そしてドルジェ・ダドゥルのタンカにおいて、それらが激しい顔つきをしているかの理由である。彼らはチベット文明の内なるジーニアスであり、日々の生活の力の秘められた真髄である。アエネーイスのようにドルジェ・ダドゥルは彼らを西欧の岸辺にもたらした。そして生命力、威厳、実践的力の真髄の上に、われわれは覚醒した社会を築くことになる。