十八蛇神の秘密   宮本神酒男

クルのナーガ神はシャンシュンから来たのか


クル地方のカクナル寺院のナーガ(左)とジビリ寺院のナーガ(右)。

 八百万(やおよろず)の神、という言葉は日本よりもインドにこそふさわしいと思う。 ヒマチャル・プラデシュ州ひとつをとっても、2001年の統計によれば、州内の参拝する場所(すなわち寺院)は27000ヶ所にも及ぶという。重複する神様もたくさんあるだろうが、数百、数千種の祀られる神様の名が挙げられるだろう。そしてそのなかの数百の神様はナーガ、すなわち蛇神なのである。

 インドの神話では、ナーガは悪の化身とみなされることが多い。しかし神様を助ける善玉としてもしばしば描かれる。たとえばナーガ王シェシュは天地創造のとき、筏となってヴィシュヌを乗せたほか、天を支えるという重要な役目を負った。乳海攪拌のときにヴァスキ・ナーガは縄として使われ、毒を吸い取るが、その毒を吐き出して純潔な身となった。またシヴァに帯として着用されたナーガは、シヴァの悪魔退治の助けをする。

 神話のナーガはいわば全国区の神的存在だが、各地のナーガは民間神といえる。たとえばヴァラナシの蛇神はナーギースワル(Nagiswar)といい、天候を支配する神だ。法顕も見たというサンカーシャのカーレワル・ナーガは現存するが、これも天候の神だ。ナーガは泉や池に住むとされ、雨を降らせるなどとかく水に関連している。

 ヒマチャル・プラデシュのキナウル地方にも水と関連したルの伝説が分布するが、このルはチベット語であり、ナーガに対応する。この伝説の主人公は10世紀頃のチベット仏教の立役者、リンチェン・サンポである。

 ナーガ以外で、インド各地でもっともポピュラーな蛇神は蛇女神マナサーだ。マナサーを祀る祭りは各地で行なわれている。人々は人や家畜が毒蛇にかまれないように祈る。
 

もうひとつの蛇神グッガ


ビラスプールのグッガ(中央)とゴーラクナート(右)などの像。

 ヒマチャル・プラデシュのナーガについて述べる前に、もうひとつの蛇神グッガ(あるいはグーガ)について説明すべきだろう。グッガはパンジャブで絶大な人気を誇り、崇拝されているが、パンジャブと隣接するヒマチャル・プラデシュのビラスプール地方(Bilaspur)でも40近くの村で信仰されている。ほかにもハミルプール地方(Hamirpur)の十数村、シルモール地方(Sirmaur)の数村で信仰されている。グッガが信仰される地域ではナーガはあまりポピュラーではない。

 一方ナーガが信仰されているのは、クル地方(Kullu)をはじめ、チャンバ地方(Chamba)、キナウル地方(Kinnaur)など。ナーガについてはあとで詳しく述べたい。

 ビラスプール地方のグッガ信仰の中心はゲフルウィン村(Gehrwin)のグゲフリ寺院(Gugehri)である。ここにつぎのような伝説がある。

 グッガ(Gugga Jaharpeer)はラジャ・ジェワル(Raja Jewar)と母バーチャル(Baachhal)のあいだの一子である。バーチャルは子宝に恵まれなかったので、12年間聖者ゴーラクナートのもとに仕えた。ゴーラクナートがバーチャルに祝福を与えようとしたとき、バーチャルの妹カーチャル(Kaachhal)がちゃっかりとかわりに祝福をもらってしまった。ゴーラクナートはいつも瞑想していて目を瞑っていたため、見分けることができなかったのだ。それによって妹はふたりの息子をもうけた。アルジャンとスルジャンである。のちバーチャルが祝福をもらおうとやってきたとき、ゴーラクナートははじめておのれの間違いに気づいた。聖者は彼女の果物を与え、それを食べれば勇敢な男の子が生まれるだろうと言った。そうして生まれたのがグッガ・チャウハンだった。彼はとても勇敢で、毒蛇を好きなように操ることのできる若者になった。彼は蛇神だと考えられた。

 グッガの信仰者たちはラクシャ・バンダン(Raksha Bandhan)からグッガ・ナヴミ(Gugga Navmi)まで、九日間かけてグッガの賛歌を歌いながら歩いていく。演奏者たちは家一軒一軒を訪ねるが、そのあいだ裸足で、ベッドの上に寝ることもない。食事も一日一回だけだ。機会があれば彼らは「勇敢なるグッガ・ジャハルピールの物語」を歌う。

 グッガの寺院はゲフルウィン村だけでなく、シヴァリク山脈地方にたくさんある。堂内には青い馬に乗ったグッガの像(写真では赤い馬)があり、かたわらには兄を助ける妹のグガリ(Gugari)の像が置かれる。

 シヴァリク山脈には昔から毒蛇にかまれて命を落とす人が多かった。毒蛇にかまれた場合、グッガのマントラを唱え、特殊な薬草から抽出したアユルヴェーダの薬を塗るのだという。このことから考えると、天然痘の恐怖を神格化した女神シータラ(Sitala)のようにグッガは毒蛇の恐怖が神様になったものなのかもしれない。

 グッガにはロート(roat)という甘いパンやグッガル・ドゥープというお香を供える。

 なお奇妙なことだが、グッガはイスラム教を受け入れたということである。イスラム教徒もヒンドゥー教徒も等しくグッガを信仰できるということなのだろうか。

 

十八蛇神はカイラス山から来たのか

 クル地方の山中の隔絶した谷にあるマラナ村には謎が多い。謎のひとつは、彼らが文化だけでなく人種も周辺と違うのではないかというものだ。かつて、世界最古の共和制をもつということからも、アレクサンダー大王の末裔ではないかと、学者でさえ真顔に論じていた。現在それは俗説として学界ではまじめに取り扱われることはない。

 諸説あるなかで、シャンシュン国末裔説はもはやマイナー説ではない。マラナの言語には少なからずチベット系の言語が入っているからだ。とはいえ、彼らの顔をみるかぎりチベット系主体だったシャンシュン国と関係があるようには思えない。外見だけなら、O・C・ハンダ氏らのカシャ人説がもっとも妥当のようである。

私は折衷説を唱えている。西ネパールの大半を版図におさめたカシャ王国の人々は、カイラス山を崇拝しただけでなく、おそらくカイラス山のごく近くまで領土に加えた。カシャ人がシャンシュン国のなかに住んでいた可能性もあるのだ。マラナの人々の祖先はシャンシュン国のカシャ人だったのではなかろうか。

その根拠となるかもしれないのが十八蛇神(アッタラ・カルドゥ Atthara Kardu)の伝説である。ラル・チャンド・プラルティ(Lal Chand Prarthi)によると、聖仙ジャムダガニ(Jamdagani)はカイラス巡礼をしたあと、スピティからハマタ峠(Hamata)を越えてクル谷に入り、チャンダルカニ峠を越え、マラナに到達した。聖仙は竹篭(カルドゥ)を携帯し、そのなかには18のナーガ神の像が入っていた。

興味深いのは、チャンダルカニ峠で強い風が吹き、竹篭が飛ばされ、なかの18のナーガ神像が吹き飛ばされ散乱したのだった。クル谷のあちらこちらにナーガ信仰が広がったのはそのためである。


チャンダルカニ峠近く(3700m)の霊気が流れる不思議なエリア。

チャンダルカニ峠近くのドリン(巨石)群があるあたりはパワー・プレース(霊場)である。太古のエネルギーのようなものがここには流れている。この長方形の石を建てたのがだれなのかわからないが、チベット高原で見かけるドリンとよく似ている以上、それらがおなじ人々の文化である可能性は少なくない。

 この伝説にはなにか過去の秘密が隠されているように思える。聖仙ジャムダガニはいまもマラナでは重要な神だ。大火のあと唯一残った寺院の主神はこのジャムダガニなのだ。この神がカイラス巡礼をして戻ってきたというのは本当だろうか。私はむしろカイラスから、つまりシャンシュン国の中心地から人々がやってきたということを反映した伝説なのではないかと考えている。偶然かもしれないが、シャンシュン国は18の部落の連邦国家だったと言われ、18の蛇と数において一致するのだ。

 ツェリン・ドルジェ氏によると、この聖仙ジャムダガニのカイラス巡礼伝説とはべつに、祖先がおなじルートをたどってカイラスからマラナへやってきたという伝承があるという。詳細は不明だが、

カイラス→キュンルン・グゲ→スピティ→ハマタ峠→クル谷→マラナ

という道程と思われる。カシャ人にしろ、そうでないにしろ、彼らの祖先がなぜ移動してきたのか、外部者を受け入れないで厳格な共和制をなぜ敷いてきたか、不明な点だらけだ。隠れ里のような立地から、落ち武者部落のような雰囲気すら漂うのだ。

 彼らがシャンシュン国から来たとするなら、シャンシュン国には蛇信仰のようなものがあったはずだ。

 シャンシュン国にはガルダ(khyung)信仰とナーガ(klu)信仰がいわばセットで存在した。キュンという地名はいまもシャンシュンの故地やボン教徒が多い地域におびただしく残っている。シャンシュン国の都キュンルン・ングルカルもガルダ銀城という意味である。私はカイラス山の南、ネパール西部のフムラ地方はガルダ・ナーガ崇拝のいい見本ではないかと思っている。フムラ地方のニンバ族の二大氏族のひとつはキュン・パであり、彼らの踊りはガルダの飛翔を舞いながらナーガを表わすスティックでリズムをとるというものだった。また彼らの三階建て家屋の一階は家畜の部屋だが、奥にはナーガのための祭壇がしつらえてあった。西チベットにはこのようにナーガ信仰が広まっていたのだ。

 さて風に飛ばされ、クル谷各地に落ち着いた18のナーガの名前と場所を以下に示したい。

1 シルガン・ナーガ(Shirgan Naga) ジャガットスーク近くのバナーラ村(Bhanara

2 パハル・ナーガ(Phahar Naga) プリーニ村(Prini

3 ゴーシャリ・ナーガ(Ghoshali Naga) マナリ郊外のゴーシャル村(Ghoshal

4 カーリー・ナーガ(Kali Naga) シラド村(Shiradh

5 ピウーリ・ナーガ(Piuli Naga) バタハル村(Batahar

6 ソグ・ナーガ(Sogu Naga) ソグコル村(Sogu Khol

7 ドゥンバル・ナーガ(Dhumbal Naga) マルジャン村(Marjan

8 クマラ・ナーガ(Kumara Naga) ベアーサル村(Beasar

9 バハドゥ・ナーガ(Bahadu) ナガル村(Nagar

10 バル・ナーガ(Balu Naga) 内セラジ(Seraj)のチェタル村(Chethar

11 マフティ・ナーガ(Mahuti Naga) カイス村(Kais

12 ルドラ・ナーガ(Rudra Naga) マニカランから30キロの地点

13 チャムブ・ナーガ(Chambhu Naga) 外セラジ(Deraj)のデウギ村(Deigi

14 カッテリ・ナーガ(Kattheri Naga)ダラシュ村(Dalash

15 チャマフ・ナーガ(Chhamahu) ゴーパルプール村(Gopalpur

16 カンダ・ナーガ(Kandha Naga) シュリガル村(Shrigarh

17 ライ・ナガ(Rai Naga) デトゥア村(Dethua

18 ナトリ・ナーガ(Natri Naga) ラムガル・カンディ(Ramgarh Kandi

 

三輪山伝説を彷彿とさせる十八蛇神

 十八蛇神伝説(アッタラ・カルドゥ)はいくつものヴァリエーションがあるが、大きく分けて聖者ジャムダガニがもたらしたという上述の伝説と、ヴァスキ・ナーガの18匹の蛇の子とする伝説の二系統がある。

 後者の伝説は三輪山伝説に代表される中国や日本の異類婚姻譚とよく似ている。古事記ではイクタマヨリビメのもとに夜の間だけ「うるわしき男」が通い、妊娠する。心配した両親のアイデアで男の衣のはしに糸をつけて男がどこから来るのかを探る。男が三輪山の神、すなわち大物主であることが判明する。大物主は蛇神だった。

 ヴァスキ・ナーガ(VasukiBasakiなど)はつまり大物主である。

 ヴァスキはもともとカシミールのバダルワー(Bhadarwah)にいたのだが、移動し、クルのナガルのすこし上のハラン(Halan)に落ち着いた。ヴァスキはハンサムな若者に化けて歩き回っていたが、あるときマナーリ近くのゴーシャル(Ghoshal)の市で美しい少女を見かけた。その日若者に扮したヴァスキは少女の家にゲストとして泊まることになった。この地域では旅人をもてなす習慣があったのだ。何日もしないうちに彼らは懇意になり、少女は妊娠した。その後ヴァスキは自分の家に戻らなくてはならなかったが、出発する前、生まれてくる18匹の蛇にお香を欠かさず供えれば、一族は繁栄するだろうと少女の両親に告げた。生まれた蛇の子たちは18の小さな孔のあいたバンダル(Bhandal)という壷の中に入れられた。蛇の子たちは孔から顔を出して母親の胸からお乳を飲んだ。

 ある日蛇の母親は外出しなければならなかったので、義妹に蛇の世話を頼んだ。彼女がダンギアラという如雨露のような形のお香差しを差し出すと、母親のお乳だと思って蛇の子たちは顔を出した。義妹は驚き、ダンギアラを壷の上に落としてしまう。火の粉がふりかかった蛇の子たちは脱出しようと騒ぎ出す。最初に飛び出した蛇はバナーラ村に逃げ、シルガン・ナーガ(バンダルの蓋を破った者の意)と呼ばれるようになった。一匹の蛇の子は騒ぎのなかで目をひとつ失い、カーナー・ナーガ(一つ目の意)と呼ばれるようになった。一匹の蛇は火傷を負ったため、ドゥンバル・ナーガ(火傷を負った者)と呼ばれるようになった。このように18匹すべてのナーガの名前と住むようになった場所の由来が語られるのだった。


ナーガの故郷カシミール

 上述にように、バサキ(ヴァスキ)ナーガや他のナーガの本拠地はカシミールだった。カシミールの全盛期ともいえるカルコータ王朝(600−853年)の出発点はナーガだった。カルコータという名自体、ヴィシュヌプラーナに記される12のナーガのうちのひとつカルコータ・ナーガに由来するのだ。王朝を開いたドゥルラバヴァルダナ(Durlabhavardhana)の母はカルコータ・ナーガを崇拝し、その祝福を望んだ。母が沐浴したあと(ナーガの力で)懐妊したという。

 その数百年後、ジャンムー・カシミールのドーダにバデルワー(Bhaderwah)という小国があった。ナグ・パル(Nag Pal 1620年没)の母はビシャンバル・パル(Bishambhar Pal)と結婚したが、6ヶ月で夫を亡くした。後継者が必要だったので彼女はバサキ・ナーガの寺院に行き、寺院のなかでナグ・パルを産んだ。ナグ・デウタの験力でナグ・パルの背中には蛇の覆いが生えていたという。ムガール朝の皇帝アクバルは難敵であるナグ・パルのナグ・デウタとバサキ・ナーガの奇跡的なパワーに一目置いていた。

 バデルワー地区にはいまもいくつかのバサキ・ナーガ寺院が残っている。その代表的な存在がガンドー(Gandoh)にある寺院である。バサキが来る前は女神バドラカリ(Bhadrakali)がこの地を治めていた。バサキ・ナーガはしかしその後ヴィシュヌとガルダに追い出されることになったという。19世紀には隣のチャンバに引っ越すことになったのだった。

 少し煩瑣になってしまったが、要はナーガが発達したのはカシミールということである。仏教がナーガを取り入れたのもここカシミールだったと思われる。そのおかげでたとえば八大竜王などは我々の身近にいるのだ。日本では八大竜王は神社に祀られていることが多く、雨乞いの神様である。

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<蛇の夫婦>
  
擬人化した蛇(ナーガ)の夫婦の原型は太古に遡るのだろうか。左はインドの7世紀のナーガとナーギ、右は唐代の伏羲と女か(女へんに咼)。左はカルカッタ博物館所蔵、右はウルムチ博物館所蔵。

<宇宙蛇とDNA>
 なぜ世界中の神話に蛇が出てくるのか? 上の二枚の写真を見ればわかるとおり、つがいの蛇はDNAの二重らせん構造とじつに似ている。『宇宙蛇』の作者ジェレミー・ナービー博士は、学者らしく断定は避けているが、シャーマンやアヤワスカ(南米の幻覚植物)を取った人が蛇を見るのは、まさに宇宙の知恵を見ているのだ。

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