37のナッ神 マウン・ティン・アウン 訳:宮本神酒男
精霊リスト
アノーヤター王が、どのように「大いなる山の神」(マハギリ)に「36のナッ神」の首領の座を与え、さらに仏教の守護神、すなわちパーリ語でサクラ、ビルマ語でタジャと呼ばれる神を加えることによって「36のナッ神」のかわりに「37のナッ神」ができあがったか、前章で説明したとおりである。
加えて、アノーヤター王は自らが建てたシュエズィーゴン・パゴダに、37のナッ神の像を並べた。王が王位に就く前に、すでにリストは締め切られていたわけだが、王の権威と力を誇示するためにも、36を37に変更する必要があった。
しかしながら時間の経過とともにリストに挙げられた名前が変化し、新しいナッ神が古いナッ神に取って代わるようになるとともに、神の性格もいままでのものと融合するようになった。
こうしたことから誤解が生まれ、ヨーロッパの学者は37という数字を冷笑し、38番目や39番目、40番目のナッ神の存在を指摘することがあったのだ。
実際のところ、ビルマで崇拝されるナッ神の数は100に達するかもしれない。しかし37のナッ神の信仰の数字は、37以外のなにものでもないのだ。
37のナッ神のリストは、ときおり王室の権威によって発表された。そうして発表されたボードーパヤ王のリストは、大臣のミャワッディが編纂したものだった。1885年のビルマ王国の滅亡のため、ミャワッディのリストは王室による最後のリストとなった。
シェズイーゴンの参列者に認められたリストも、パガン王朝の終焉までに決定され、固定化された。パガン王朝の間でさえ、アノーヤター王がパゴダにナッ神像を設置したあとも、リストの名前が変わることがあったのだ。
ナッ神像は粗雑で素朴である。そしてそれらは国の各地のナッ神廟から集められ、パゴダのなかに置かれるのである。パゴダを造ったり飾ったりする国王専属の建築家や彫刻家でさえ、ナッ神像に触ることは許されなかった。
ナッ神の名前や実体が変わることはあっても、像そのものは何世紀も変わらず立っていた。たとえばシトゥ神は、最初にナッ神像が並べられたときは、まだ誕生していなかったが、いまや代表的なナッ神と目され、古いシトゥ神に取って代わったのである。
37の神
私はすでに「大いなる山の神」の章で、神々の王ならびに大いなる山の神、また金の顔の貴婦人についての考察については述べた。
いま、ほかの34の神々について考えていきたい。彼らは、当初はきわめて普通の人々だった。ところが彼らの奇妙な、あるいは突然の死によって、当時の人々の心に恐怖と憐みの感情を呼び起こしたのである。
金に縁取られた貴婦人
(Shwenatray/Shwenaby シュエナッレー、シュエナビ)
金に縁取られた貴婦人、3度美しい貴婦人、フルートを持つ小さな貴婦人、南の茶色い神、そして北の白い神は、プロームで崇拝されていた、またのちにパガンで崇拝されたピューの神々である。
金に縁取られた貴婦人は、彼女が着用する名誉に浴した特別な着物からその名を得た。その着物は金で縁どられていたのだ。彼女はエーヤワディー川右岸の町タイェッミョーの後ろにあるミンドンの出身だった。伝説によれば彼女は人間の夫に捨てられたナーガ王(竜王)の娘か、ナーガの恋人に捨てられた人間の娘だった。ともかく彼女は嘆きのあまり死んだという。
私の家族はプローム王朝時代から1824年の英ビルマ戦争まで、ミンドンに属していた。ミンドンはアラカンとエーヤワディー川の間に位置し、「7つの丘の地域」の都だった。金に縁取られた貴婦人は、私の家族の祖先である。
家族の伝承によれば、彼女は国王のミンドンにおける代理として夫の後継者に指定された。息子たちはプローム(ピー)にいて、国王のそばで働いていたのだ。(ビルマの国王のもとでは、官吏の世襲制はないとよく言われるが、息子や兄弟、ときには死んだ官吏の妻が、国王によって後継者として指名されることがあった)
死後、彼女はナッの女神としてミンドンの人々に崇拝された。しばらくのち、プローム王朝が倒れたとき、国王は人民とともに逃亡し、エーヤワディー川を渡っておよそ12年さまよった。そのうち3年間はミンドンで過ごしたという。
国王と家来たちはのちにパガン王朝となる地域に移り住んだ。彼らは黄金の側面の貴婦人をピューの神や女神のリストに加えた。彼女は依然としてミンドンで崇拝されている。彼女は自らの権利で、37のナッ神のひとつではなく、町の守護女神として崇拝されているのだ。
しかし私の家族においては、崇拝されるのではなく、彼女は記憶されている存在だ。ふたりの息子が国王によって処刑されたとき、彼女は悲しみのあまり死んでしまったという。また、ミンドンの伝承においても、家族の伝承においても、彼女はナーガの一族ではない。しかし37のナッ神と関連した古い歌はつぎのように歌っている。
黄金のナーガのために、繻子・ビロードの衣を運べ
この歌は的確に繻子・ビロードの衣を強調している。衣装は金で縁取られているのだ。しかし、彼女がどのようにナーガ崇拝と関連づけられるようになったかを理解するのはむつかしい。シュエズィーゴン・パゴダにある彼女の像はナーガと何ら関係がありそうにないのだ。
国中のナッ神廟に見られる後期の像はナーガの頭巾をかぶっているが、黄金の顔の貴婦人もまた同様の頭巾をかぶっている。しかし、彼女はナーガと何の関係もないのである。
おそらく金に縁取られた貴婦人は、ナーガ女神崇拝と混同されたのではなかろうか。というのも、エーヤワディー川上流の古都タガウンではナーガ竜崇拝がさかんだった。その痕跡は、いまもタガウンのボーボージー(曽祖父)崇拝として名残をとどめているのである。
ナーガ信仰はパガンにまで広がった。年代記によると、アノーヤター王以前にすでに国王が宮殿の庭に大きなナーガ像を建て、崇拝していたという。パガン期以前にも、プロームの創建者はナーガだったと記されている。ナーガが巡回するとき、その尾を持ち上げていたのは神々の王だった。
このときの跡は都市の周縁となった。仏教が登場する以前は、村の東門の外に、ナッ神像が村の神々や女神とともに置かれた。ミンブーの伝承によれば、火山の下にはナーガが生きているという。そして多くの村はナーガと関係した名前を持っているのだ。
たとえば、「ナーガの穴」「雄(男)のナーガ」「ナーガの降臨」「ナーガの怒り」などである。ポッパー山やシャン州では、いまもナーガ信仰の痕跡に出会うことがある。
36のナッ神のなかにナーガの神や女神が含まれているかもしれないし、タガウンの竜がそもそも36のうちのひとつかもしれない。というのもアノーヤター王が彼自身の英雄であるナッ神をタガウン竜と入れ替えたからである。
3度美しい貴婦人
(Thonbanhla トンバンラ)
ピューの2番目の女神、3度美しい貴婦人は、人が想像しうる美しさの限界を越えた美しさをもった村の乙女だった。
彼女は朝も、日中も、夜も美しかった。その評判は国王ドゥッタバウンの耳に届いた。王は貴族を使者として、彼女のもとへ送った。プロームに連れ帰って王妃とするためである。
しかしチャンシッタとペグー出身のパガンの王妃のように、貴族と彼女は都へ行く途中で恋に落ちてしまったのである。プロームの門に着いたとき、貴族はひとり市内に入り、国王に奏上した。
「大王さま、ただいま戻りました。じつは連れ帰った乙女、その顔は美しいのですが、身体はといえば怪物のように太っていて、門をくぐることができないのです」
国王ドゥッタバウンはその言葉を信じ、彼女を外に捨てるよう命じた。門の外側に小屋が建てられ、彼女はそこで暮らした。王からは忘れられ、恋人からも見捨てられた。
彼女は機織りをしてなんとか食い扶持をつないだ。彼女はしばらくして小さな娘を産んだが、悲しみのあまり死に、ナッ神になった。
小さな貴婦人
(Shun mi-hne, Ne mi シュンミネ、ネミ)
3度美しい貴婦人の娘はピューの第3番目の女神、小さな貴婦人である。彼女の名前はもともとフルートを持つ小さな貴婦人という意味だった。しかしながらバガンにある像や後期の木像はフルートを演奏していない。
ヒンドゥー教の神々、とりわけヴィシュヌの化身であるクリシュナは、しばしばフルートを持った姿で描かれる。それはつまりプロームの小さな貴婦人が初期のヒンドゥー教の女神と融合したことを物語っている。
37のナッ神のなかでも小さな貴婦人はもっともチャーミングであり、また幼い子供や学童の守護女神である。
ビルマでは、もし子供が眠っているときに微笑んだら、それは小さな貴婦人と遊んでいるとみなされる。そして学校の試験がはじまる前夜には、おもちゃや小さな上衣、スカートなどを彼女に捧げる。
金の顔の王女、金に縁取られた貴婦人、三度美しい貴婦人が後期の木像において右手を左胸にあてる伝統的なしぐさで悲しみを表現するのにたいし、小さな貴婦人はかわいらしい手を自由にさせて伝統的な喜びのしぐさをし、長いネックレスと厳かな金のブレスレットをつけた太目の女の子として描かれる。
真南の神と真北の神
(Shin nyu, Shin phyu シンニュ、シンピュ)
(Taung magyi, Maung min shin タウンマジ、マウン・ミン・シン)
真南の神と真北の神は兄弟であり、プロームのダッタバウン王の高官だった。彼らは北と南に分かれた徴税地区をそれぞれ担当する徴税官だった。
「真南」と呼ばれるのは、「大いなる山の神」と区別するためだった。ビルマ語では南と山がおなじ語で表わされるからである。
彼らはまた「茶色の神」「白色の神」とも呼ばれたが、それは公式の衣の色に基づいている。兄弟は民衆の人気が高く、勢力を得たので、国王は彼らが謀反を起こすのではないかと恐れた。
年代記には彼らが死刑に処せられたと記されているが、それは国王の悪巧みにはまったものだとナッ神崇拝者は信じている。兄弟はボクサーとしても強く、国王はどちらかが死ぬまでボクシングやレスリングをするよう強要したというのである。
古い伝承のなかには、彼らを「金に縁取られた貴婦人」の息子たちであるとするものがあるが、ミンドンでもわれわれの家族にもそのような伝承はない。貴婦人の息子たちがプロームの王のもとに出仕したことはたしかであるが。彼らも処刑されたのであるが、詳細は残っていない。
金に縁取られた貴婦人が37のナッ神の一柱としてではなく、単独で、ミンドンで崇拝されるように、茶色の神と白色の神もプロームで、近年まで他の神と区別され崇拝されていた。
プローム地区では、彼らは通常の名前以外にも「王室の洞窟の神」という呼称も持っていた。おそらく洞窟に兄弟の神像が置かれ、崇拝されていたからだろう。
この兄弟の神は37のナッ神のなかでも異色を放っていた。というのも、普通の肉体を持った他の神々と比べ、彼らの像はそれぞれ6本の手を持っているからだ。6本の手のうち2本は合わせて祈りのポーズを示し、ほかの4本はさまざまな武器を持っていた。
彼らは古代ビルマ軍の司令官の制服を身にまとい、頭には軍用のヘルメットを戴いていた。プロームのピュー人にとって、6本の手を持つヒンドゥー教の神々とごっちゃになっていたのはあきらかである。
ピュー人の5柱の神と女神の信仰は、大いなる山の神の信仰がはじまる頃にはすでに存在していた。これらの5神を大いなる山の神と妹の金に縁取られた貴婦人に関連づけようとする傾向も、その当時からあった。
聖霊信仰崇拝者のなかには、彼女がタガウンからミンドンに逃れていた逃亡者であるハンサム大師の愛人であると主張する者があった。茶色と白色の兄弟神は、金に縁取られた貴婦人とハンサム大師の子だというのである。
ポゥパー山地区では、ハンサム大師の妹であり、「美しい一番下の妹」として知られる「金の顔の王妃」が崇拝されている。彼女はしかし37のナッ神の一柱として数えられることはなかった。そのためか「美しい一番下の妹」は、娘である「小さな貴婦人」を連れた「三度美しい貴婦人」とごっちゃにされ、大いなる山の神の家族に入れられることが多いのである。
白い傘をもつ神
(Hti byu-saung ティ・ビュサウン)
白い傘をもつ神、その母、そしてプレインマ(Preimma)の唯一の神は、アノーヤター王にとって、それぞれ父、祖母、義理の兄弟だった。
西暦906年、侵略者がパガンに入り、国王を殺したとき、王妃のひとりは死んだ王の子を宿したまま逃げた。彼女は小さな村に隠れ住み、クンソーを産んだ。
子供がおとなになる前に侵略者は死に、王位はその子に受け継がれた。しかし彼はニャウン・ウ・ソーヤハンに殺された。
のちにクンソーは国王になり、ニャウン・ウ・ソーヤハンを殺した。3人の王妃が残されたが、そのうち2人はすでに子を孕んでいた。クンソーは3人の王妃を自分の王妃として迎え、前王の子チゾーとソッカテが生まれた。
第3王妃からはクンソーの子であるアノーヤターが生まれた。クンソーはチゾーとソッカテを自分の本当の子のように扱った。チゾーには唯一の神という称号を与え、プレインマ村の領主に封じた。
しかし兄弟は一定の年齢に達すると、共謀してクンソーを追い落とし、僧侶となるよう圧力をかけた。
新しく王となったチゾーはポゥパー山に出かけたとき、鹿狩りをしていた狩猟者にあやまって射殺された。弟のソッカテが後を継いで王位に就いた。
その後アノーヤターが反乱を起こすまで、およそ25年の月日が必要だった。彼は一度の戦いでソッカテを殺し、老いた僧侶となっていた父親を呼んで王位につけようとした。しかし父親が拒んだため、アノーヤターは1044年、自ら王位に就いた。
クンソーの母親は後世、木製の像に悲しみの表情が表わされるようになるが、金に縁取られる貴婦人や三度美しい貴婦人のように悲しみのあまり死ぬということはなかった。
しかし彼女は夫である王が王位を奪われたり、殺されたりする場面を目撃したのである。そして困窮と不安のなかで長い年月を過ごさなければならなかった。
白い傘をもった神、クンソーは国王としてではなく、僧侶として崇拝される。彼の像は黄色い僧衣をまとっているのである。僧侶になった国王は、王であることを示す勲章を失うことになるが、アノーヤターは父親に王制の5つのシンボルを与えた。
白い傘は5つのシンボルのなかでももっとも重要なものだった。チゾーは国王としてではなく、プレインマ村の人気領主として崇拝された。その像は盛装した国王として描かれるのだが。特筆すべきことは、アノーヤターが王位に就いたとき、父親は生きていたが、仏教が国教となったときには死んでいて、すでに神として崇められていたことである。
*王位を示す5種の神器(ミン・ミャウ・ダザ)は、白傘、金環紋章、両刃の剣、金靴、ヤクの尾製の払子。
不純金兄弟
(Shwe phyin gyi, Shwe phyin galay シュエピンジー、シュエピンガレー)
不純金の兄、不純金の弟、マンダレーの王室の祖父、がにまた貴婦人、孤高としたバンヤン樹のそばの老人、それにせむし貴婦人は、アノーヤター王とだいたい同時代を生きていた。
不純金兄弟は有名なビャッタの子どもたちである。ビャッタは処刑され、残された妻は傷心のあまり死んでしまった。
後悔の念にさいなまれたアノーヤター王はふたりの子どもに使者を送り、金を贈った。国王が金を贈るという行為は、子どもたちに特別目をかけているという印ではあったが、純金の贈呈が許されるのは、王室の血が流れる者だけだった。
そのため金にはすこしばかりの不純物が混ぜられたのである。不純金兄弟はマンダレーに連れていかれ、大臣でもある個人教師のもとに置かれた。
彼らは15歳になると、軍隊に入った。アノーヤター王率いる軍が中国に侵攻したとき、彼らは際立った功績をあげた。
しかしながら軍が凱旋するとき、ささいな規律違反があったという理由で、マンダレー近郊のタウンビョン村で兄弟は処刑されてしまったのである。
アノーヤター王は厳格な統治者であらねばならなかった。反乱や謀反の可能性があるとき、その芽は無慈悲に刈り取らねばならなかったのだ。
彼らの不服従は危険とみなされた。というのも、彼らのまわりには超人伝説のようなものがあらわれていたからだ。なんといっても彼らは「不屈の男」と「花食べ鬼女」のあいだに生まれた子供であり、中国への侵攻のときにあげた功績は超人的な力をもつという噂を広めることになったのだ。
しかしながら若い二人の英雄を処刑したことによって、人々のあいだに不満が高まることになった。結果的にアノーヤター王は兄弟が神となり、タウンビョン神に任命されたと発表せざるをえなくなった。
ポゥパー村が大いなる山の神の領地に封ぜられたように、タウンビョン村が兄弟の領地とされたのである。彼らの教師(大臣)も処刑されたが、威厳をもって「指の関節ほども罪はない」と宣言しながら、死に臨んだという。このしぐさと「指の関節ほどもない」というフレーズは、現在もなお日常の会話に用いられている。悲しみのあまり死んだ鬼女の母は、タウンビョンやポゥパー山でアノーヤター王の時代以来ずっと崇拝されているが、37のナッ神のなかには含まれていない。
がにまた貴婦人とせむし貴婦人
(Shingwa, Shingoun シングワ、シンゴン)
家庭教師(大臣)の妹であるがにまた貴婦人は、兄とともに処刑された。アヴァ時代の神々・女神の一柱であるせむし貴婦人は、混同され、パガン時代に生きていたと考えられている。
その原因のひとつは、シュエズィゴン・パヤでリストアップされた37のナッ神のなかに含まれていたからであり、もうひとつは、王室の教師に関連した儀礼歌が存在したからである。
ふたりの姉妹、がにまた貴婦人とせむし貴婦人
わたしはこの姉妹の兄である
孤高としたバンヤン樹の老神
(Nyaun gyi o ニャウン・ジオ)
孤高としたバンヤン樹の老神は、国王とともに捕虜となり、タトンからパガンに連れてこられたモンの王子だった。のちに彼はライ病で死亡したという。
この神もまた、バンヤン樹の古い神と混同された。仏教が到来する以前からビルマ人は樹神を信じ、大きな樹木を神が宿る場として崇拝した。バンヤン樹はとくに崇拝され、夏の焦げるように暑い時期には水が捧げものとして注がれた。
仏教がやってくると、バンヤン樹に水を捧げる儀礼は仏教儀礼となった。というのも、バンヤン樹がブッダを連想させるからである。バンヤン樹、がにまた貴婦人、せむし貴婦人といった神々は、おそらく身体の奇形をもつ古い神々と混合したものだった。原始的な人々が奇形を罪悪や邪悪と結びつけるように、彼らはそういった神々を神秘的で聖なるものとみなした。
シトゥ神
(Min sithu ミン・シトゥ)
シトゥ神、若いブランコの神、異なる神チョーズワ、主力軍の将軍アウンスワ、王室陸軍士官、金言貴婦人、これらの神々は後期パガン朝時代に生きた。
シトゥ神とは、祖父のチャンシッタ王から王位を継承した偉大なる王アラウンシトゥ(在位1112−1167)のことである。彼はきわめて高齢で、しかも病気で伏せていたので、息子のナヤトゥ(在位1167−1170)に殺されてしまった。
しかし彼の名は、パガン朝初期の王テインスン(在位734−744)の息子のシトゥと混同されている。北の女王の息子たちであるこの最初のシトゥと兄弟のチョーズワは、南の女王の息子を王位継承争いから排除する謀略を練ったという嫌疑をかけられた。
彼らは都を脱出し、国中をさ迷い歩き、最終的にミャウン・トゥ村に落ち着いた。彼らはここで運河を掘りはじめた。しかし兄弟はしだいに互いの裏切りを疑いだし、素手で殴り合って双方とも死んでしまった。
アノーヤター王がシトゥ神の像を建てるとき、それは最初のシトゥのことだった。アラウンシトゥ王はその名の由来を消し去ろうと躍起になった。
若いブランコの神(Minta maung shin)はアラウンシトゥ王の孫である。父親はアラウンシトゥ王暗殺後の王位にわずか数日間のみあったミンシンソー王子だった。王子はアラウンシトゥ王を暗殺した兄弟によって毒殺された。
若いブランコの神は一般のビルマ人の少年とおなじように新米僧侶として僧院にいたが、中庭でブランコをしているとき落下し、そのケガがもとで死んでしまった。
勇壮な神チョーズワ
(Min kyawswa)
勇壮な神チョーズワは元来最初のシトゥの兄弟であり、シュエズィゴン・パヤの神像はこのチョーズワだった。しかしこの神格も後世の3柱のチョーズワと混同されることになる。
アラウンシトゥ王の大臣のひとりには4人の息子があり、全員が国王のもとに出仕していた。上の3人はまじめで、品行方正だったが、下の弟は粗暴だった。彼はポゥパー山にあったヤシ酒作りの家のたいそう美しい娘を娶っていた。娘の父親はヤシ酒作りの名人だった。
チョーズワは鶏闘に熱中し、花火が大好きで、大酒飲みだった。酒の飲みすぎでついには死んでしまった。これが2番目のチョーズワである。
パガン朝最後の王ナラティハパテ(在位1254−1287)には3人の息子があった。すなわちバセイン知事ウザナ、プローム知事ティハトゥ、ダッラ知事チョーズワである。
パガン朝がタルタル人(モンゴル)に征服されると、ティハトゥはプロームに難を逃れていた父親である国王に剣で脅して毒をあおるよう強要した。ティハトゥはそのあとバセインに行くと、ウザナは病床にあった。
彼は即座にウザナを切り殺した。ティハトゥのつぎのターゲットはチョーズワだったが、そこへ向かう前に、彼はあやまって石弓を自らに引いてしまった。
ティハトゥが死んだため、唯一の国王の継承者としてチョーズワはパガンに戻った。しかしほどなく彼は王位に野心をいだいた知事によって殺されてしまった。これが3番目のチョーズワである。
パガンが陥落したあと、王国はいくつもの小邦に分裂し、最終的にふたつの国、すなわちビルマ上部のアヴァ、下部のペグーが成立した。アヴァのミンカウン王(在位1401−1422)とペグーのラザダリ王(在位1385−1423)とのあいだにはいつも紛争があった。
ミンカウン王の息子ミンイェ・チョーズワ(1391〜?)は輝かしい兵士であり、13歳にして戦闘に参加した。彼はプロフェッショナルな軍人だったが、大酒飲みだった。
彼は1409年にビルマ軍の将軍となり、数々の勝利をものにしたが、1417年に捕虜となり、そのときに負傷し、最後まであらがって叫びながら死んだという。これが4番目のチョーズワである。
他を圧倒してチョーズワの性格をよく体現しているのは、2番目のチョーズワである。つぎの儀礼歌はこのチョーズワと結びついているのである。
おれ様を知らないだって? 闘鶏でおれの姿を見かけたことはないのかい? 花火に興じているのを見たことはないのかい? 女房んちのヤシ酒を浴びるように飲んで、溝でのたうちまわっているのを見たことはないのかい? そんなときゃ村の乙女たちがおれさまを引き上げてくれるんだがね。
おれ様を知らないだって? 酒瓶をもった神とはおれのこと。その名も轟くチョーズワ様だ。おれが嫌いなら、避ければいいさ。なんたって酔っ払いだからな。近隣のやつらはおれを蔑むが、かまわないさ。嫌いなら、避ければいいのさ。
こんな調子である。チョーズワ神がヤクザやならず者の守護神であるのは当然のことであろう。
主力軍の将軍アウンスワ
(Aungswa magyi アウンスワ・マジ)
王国第一部隊のアウンスワ将軍の上司にあたる司令官は、のちにナラパティシトゥ(在位1173−1200)となる王子だった。
王子の兄、ナラテインカ王(在位1170−1173)は弟ナラパティシトゥの妻に懸想し、反乱が勃発したと偽りの発表をして、弟とその軍隊を最前線に送り込んだ。彼は何か腑に落ちないものを感じてはいたが、命令にそむくわけにはいかなかった。
彼は愛馬とともに、信頼する部下の大臣ンガ・アウン・ピをパガンに残し、様子をうかがうよう命じた。数日後、国王は弟の妻を捕え、強制的に4番目の王妃とした。
大臣ンガ・アウン・ピは大急ぎで軍を追ったが、川に到達したとき、月明かりで岸辺の砂洲が光って水のように見え、夜のあいだはこの大河は渡れないと判断した。彼は睡眠をとって夜が明けるのを待った。王子は川の反対側のすこしだけ離れたところにいたのだが、愛馬のいななきを聞いたとき、いやな予感がした。
明け方になり、ンガ・アウン・ピは迅速に川を渡り、軍隊に追いつくと、王子に報告をした。王子は感謝の念でいっぱいだったが、あとで大臣にたずねた。「おまえは昨晩どこにいたのか」「川の向こう側です」
王子は不必要に遅れたことを知り、後悔の気持ちでいっぱいになり、大臣を職務怠慢として処刑した。大臣の遺体が川を流れていくのを見ると、ふたたび後悔の念に捉われ、ンガ・アウン・ピの霊を既成の神とかえ、37のナッ神のひとつとして崇めよとお触れをだした。アウン・ピ神はシュエズィゴン・パヤの37のナッ神像に入っているが、のちにリストからはずされてしまった。
王子はあらたな将軍にアウンスワを抜擢し、パガンへの進撃を率いるよう命じた。
「もしおまえが国王を殺したなら、王妃のひとりを進ぜよう」と王子は約束した。軍は結集し、パガンへ向けて進軍していった。アウンスワ将軍と兵士たちはパガンの宮殿に入り、国王を[殺した。ちょうどそのとき王子も宮殿に到着した。約束通り王妃を選ぶ段になって、3人の女たちは泣いて王子に懇願した。
「われわれはあなたの従姉妹です。王妃なのです。王族ではない一般の将軍にわれわれを与えようというのですか」
新国王は心を動かされ、アウンスワに言った。「おまえに王妃のひとりを与えると約束したが、大臣の娘では満足できないだろうか」
「へえっ」とアウンスワ将軍は軽蔑をこめて言い放った。しかしこの不従順な態度は新国王を激怒させ、将軍は処刑されることになった。のちにアウンスワ将軍の功績がかんがみられ、神の地位にまで押し上げられ、それまでの神のひとつと替わって37のナッ神に加えられた。
王室士官見習い神と金言貴婦人
(Shwe sit thin or Shwe sit pin, Shwe saga
medaw シュエシッティン)
王室士官見習い(シュエ・シッティン)はチョーズワの息子ソームン・ニッの息子である。ソームン・ニッは、チョーズワを殺した侵略者によって名目上のパガン王に立てられた。
しかしこの頃にはパガンはひとつの州にすぎなくなっていた。つまりソームン・ニッは国王というよりパガンの知事だったのだが、アノーヤターのパガン朝の直系の子孫だったので、王がもつことのできる神器と王という称号は与えられたのだ。
若い王室士官見習いは、軍隊と行進するかわりに、ほとんどの時間、闘鶏に興じていた。そのため父親は彼を倉庫に閉じ込めた。しかし罰が厳しすぎたため、彼は死んでしまったのである。
彼の母親である王妃、金言貴婦人(シュエ・ザガ・メドー)は息子が死んだことを聞いて、悲しみのあまり死んでしまった。
シュエズィゴン・パヤの37のナッ神にこの母子が含まれていないのは、パガン王朝がチョーズワの死とともに終わったのであり、ソームン・ニッは名目上の王にすぎず、年代記もチョーズワを末代国王とみなしているからである。
小さなブランコ神も含まれないのは、アウン・ピが取って代わったからだという。しかしこの交代は広くは認められていない。ンガ・アウン・ピが崇拝されるのは、彼が処刑された地方でのみのことなのであり、しかも37のナッ神とはみなされていないのである。
その他11柱の神々
残る11のナッ神はシュエズィゴン・パヤのリストにのみ見出されるのだが、そのなかで白象神(シンビュ・シン)は王である。また白馬神(ミンビュ・シン)は官吏か兵士だった。
ときには他の神と混同されることがあった。王室士官見習い神とアウン・ピ将軍神はしばしば白馬神と同一視された。いずれにせよ白馬神はビルマ軍と関連づけられた。暗黒の日々がつづいた1824年、ビルマ軍は立ちはだかる英国軍の前になす手がなく、後退を余儀なくされたが、それでも部隊の結束を強め、精一杯抵抗した。そのとき多くの人が、白馬に乗った神が敵と戦う姿を目撃している。
パガンは19の村の連合体として始まった。4つの島の神(Le kyun shin)、5つの村の神、10の村の神はみなもともと王国の建設に携わった王の家来だった。9つの町の神(コー・ミョウ・シン)は、9つの地区として知られるチャウセあたりの灌漑された地域の守護神である。コー・ミョウ・シンは現在もその地域で崇拝されているが、37のナッ神には入っていない。大医師神はおそらく国王専属の医師であり、シャン99州の神はシャン州担当の国王直属の大臣である。というのもシャン州は彼ら自身の首領を擁しているからだ。シャン州の土地の水は3つに区分される。「おとなしい水」、すなわち内陸の河川や湖の水。「しょっぱい水」、すなわちデルタや潮の水。そして「開かれた水」、すなわち海の水である。おそらく塩水の神(ウー・シン・ジー)、開かれた海の神、おとなしい水の貴婦人は、さまざまな水の上を航行するための国王直属の官吏だろう。おとなしい水の貴婦人はいまもエーヤワディー川にそそぐ最大支流のチンドウィン川流域では崇拝されている。「もっとも偉大なる神」(ウー・シン・ジー)という称号をもつ塩水の神(イェ・ンガン・パイン)は、デルタ地帯でポピュラーになり、独立した信仰集団ができたほどである。下ビルマではウー・シン・ジー崇拝は、37のナッ神より重要だと考えられているのだ。アノーヤター王やアラウンシトゥ王はピュー人の伝統を受け継ぎ、近くの陸地への航行を試みていた。パガンの商人や僧侶はベンガルやセイロンへ旅をしたのである。この時期、開かれた海の神はもっとも重要な神だった。しかしパガン朝が滅亡すると海洋の旅の伝統はなくなり、開かれた海の神の信仰も消滅することになった。
パガン朝滅亡後勃興したピンヤ朝(1298−1364 都はアヴァ)で、数ある神のなかでも王の地位にあったのは五元素の神(ンガ・ズィ・シン)だった。彼は、パガン朝最後の国王チョーズワを殺した侵略者の三人兄弟のうちのひとりの息子だった。
彼は1340年から1350年まで国を統治したが、突然の高熱に倒れて死んだ。
おそらく白象神にかわってシュエズィゴン・パヤの36のナッ神リストに入れられた。王神、あるいは正義の主(ミンタヤー)とは、1401年にわずか7か月だけアヴァの王だったタヤービャ(Tarabya)のことである。
彼は錬金術師や女神と森へ狩猟に行った。そこで彼は正気を失い、参加者によって殺された。マウン・ポ・トゥはピンヤ地区出身の商人だった。彼は車いっぱいに載せた茶葉をもってシャン州からもどるとき、シャン高原の麓で虎に殺された。このあわれな商人は威厳のある37人の王や大臣らのなかにあってひとりで立っている。
彼がこの地位を得たのはパガン朝以降であろう。というのも彼の出身地ピンヤはパガンが滅んだあと都となった町だからだ。しかし実際はパガン朝時代に属していたかもしれない。彼の故郷は都ピンヤではなく、のちに都となるピンヤ村であった可能性がある。というのも彼が虎に乗った像がシュエズィゴン・パヤにあるからだ。
彼は貿易商と商人の守護神である。西宮殿の女王(アナウッ・ミバヤ)は、1401年から1422年まで王位にあったミンカウン1世の王妃だった。綿畑で女官たちと遊んでいると、勇敢なる神チョーズワの亡霊が現れた。その姿を見た彼女は気を失い、そのまま死んでしまった。彼女はもっと前のシトゥ神の母と考えられる西方宮殿の女王と混同されることが多い。彼女は西方宮殿の女王と入れ替わってシュエズィゴンの37神におさまったのである。
アウンピンレー(Aungpinle)すなわち勝利の海は、アヴァ近くの天然の湖だった。古代においては灌漑のための貯水池の役割をはたしていた。アウンピンレーの神は古代の神で、もともとの37のナッ神に含まれていた。
アウンピンレーにかわって名を連ねたのは、ミンカウン1世の息子で1422年に王となったアヴァ・ティハトゥだった。彼はかつてのお気に入りの王妃をないがしろにしていた。
1426年、象に乗ってアウンピンレー湖で運河の建設を監督しているとき、シャン州の首領にひとりに弓で射殺されてしまった。彼は象に乗っているときアウンピンレー湖で殺されたので、アウンピンレーの神、あるいは白象の主として知られるようになった。アウンピンレーの神の妾のひとり、せむし貴婦人(シンゴン)は悲嘆に暮れてしんだが、やはりせむし貴婦人と呼ばれる不純金兄弟とともに処刑された家庭教師(大臣)の姉妹のひとりと混同されている。
金のノーヤター(シュエノーヤター)は、ミンカウン2世(在位1481−1502)の孫であり、叔父の新国王シュエナンチョーシンにたいして謀反を企てたとして、1502年に処刑され、溺死した。
勇敢なアウン・ディン神は、アノーペルン王(Anaukpetlun 在位1605−1628)の息子だった。彼はアヘンとヤシ酒が大好きで、両者の摂取過多で死亡した。若い白神(マウン・ミンビュ)はアヴァの未確認の王の息子である。
彼もまたアヘンとヤシ酒の摂取過多で死んだ。王室新参僧(シン・ドー)はやはり未確認のアヴァの王の息子である。初期の神である若いブランコの神ミンタ・マウン・シンのように、彼は一般のビルマの少年とおなじくに加入儀礼を受けたあと、しばらく僧院で過ごした。
僧院はアヴァ朝の時代に有名だった鳥撃ちの丘(ンゲ・ピッ・タウン)僧院である。若い新参僧は庭で遊んでいるとき毒蛇にかまれ、死んでしまった。
タビンシュエティ(在位1531−1550)はビルマの英雄王のひとりである。彼はパガン朝時代のようにビルマを統一したのだ。
15歳のときにタウングーという小王国の王に就くと、すぐさま司令官として、王としての能力を示した。しかし成功が早すぎたのか、あらたに征服すべき領土もなく、酒に溺れてしまった。
34歳のとき、彼は警備兵のひとりに暗殺されてしまった。
北から来た貴婦人(ミャウッペ・シンマ)は、タビンシュエティ王の家庭教師の妻である。彼女は出産が近づいたので、母がいる故郷の村にもどることにした。しかし村に到達する前に早産で子供が生まれ、彼女は死んでしまった。
彼女はパガン朝時代の北の貴婦人と混同されることが多い。彼女の子どもは母の死にもかかわらず生きのび、タウングーのミンカウン神となった。国王の地位が与えられたが、実際はタウングーの知事だった。
タウングーは都だったが、タビンシュエティ王は統一ビルマの都としてあらたにペグーを選んだのである。
ミンカウン神は赤痢にかかり、療養のため町を去り、田舎に引きこもろうとした。しかし玉ネギ畑を横切っているとき、玉ネギの香りに包みこまれ、彼は死んでしまった。王の秘書の神(タン・ドー・ガン)は、タウングーのミンカウン神の秘書だった。ある伝承によると彼はミンカウン神に森へ行って珍しい花を採ってくるよう命じられたが、マラリアにかかって死んだ。別の伝承によれば、夜、彼はミンカウン神に宮殿の庭に花を採ってくるよう命じられたが、庭で毒蛇に襲われ、死んでしまった。彼はパガン朝時代の国王の秘書と混同されることが多い。
チェンマイ王(ユン・バイン)は戦争捕虜として、義兄タビンシュエティ王を継いだ偉大なる王バインナウン(在位1551−1581)によってペグーに連れてこられた。捕虜ではあるが、彼は丁重な、敬意をもった待遇を受けた。しかしまもなくして赤痢にかかり、死んでしまった。彼は最後に37のナッ神に加えられた。
シュエズィゴン・パヤの37のナッ神
マウン・ポ・トゥと37のナッ神 (シュエズィゴン)