(4)荒唐無稽なエピソードの数々は、何を意味するのか
このナムタル『ダライラマ六世の秘められた生涯』を読んでとまどってしまうのは、荒唐無稽なエピソードがあまりにも多いことである。一般的な高僧伝の「出生のときに空から花の雨が降ってきた」といった英雄譚にありがちなエピソードではなく、「首を切られて三か月たったが、男はまだ生きていた」といった類の奇譚である。以下に列挙してみる。
●無頭男
度肝を抜かれるのは、リンパ腺の病気のため、首を切り落としたが、三年も生きている男の話。胸を叩くのは「お腹が減った」という意志表示だった。首には二つの穴(たぶん気管支と食道)があいていて、家族が流動食(麦焦がしを水で溶かしたもの)を穴の一つに流し込むのである。これは、見ることも、聞くことも、話すこともできないとき、人間はどうなってしまうかという一種のたとえ話なのだろうが、情景があまりにすさまじすぎて、肝心の伝えたいことが伝わってこない。しかし尊者(主人公)が実際に講話として好んだエピソードだったのかもしれない。
●メス猿は姉の生まれ変わり
訪れた家の主人がメス猿を飼っていて、そのメス猿を見た瞬間、仲の悪かった姉の生まれ変わりだとわかったというのは、いささか唐突ではある。いじめっ子の姉が弟を投げ飛ばすと、弟は岩にぶつかって怪我をし、岩の表面に体の痕が残った。じつはチベット文化圏各地に聖者の「痕」がついた岩が存在する。尊者は観音菩薩の生まれ変わりなので、岩についた手足の痕だけでなく、顔や体の痕もまた聖なるものなのである。
ダーウィンの進化論に慣れ切った我々は、人間の先祖は猿であるという考え方に対し、疑問を持つどころか、当然だとみなす傾向がある。しかし先祖が猿だという伝説を持つ民族となると、そんなに多くはない。チベット人はその意味で世界でもまれな民族なのである。
チベット族ではないが、チベット・ビルマ語族に属するナムイ族などは、野人(ミゴ)伝説を持つ。類人猿であるミゴは彼らの先祖なのである。実際、ときおり全身毛におおわれた先祖返り的な人が生まれることがあり、彼らはミゴと呼ばれる。
このメス猿の挙措は、本当に姉を偲ばせるものがあったのだろう。
●イエティ
もしかすると、世界で最初のイエティ(雪男)の記述かもしれない。ロジャという少年と旅をする尊者は、山道を上り下りしているときに、類人猿に見える恐ろしげな二匹の生き物と遭遇する。尊者はそれが羅刹ではないかと思うが、ミデ(mi dred)、すなわち人熊(ヒグマ)だった。クマ(dred)と悪霊('dre)は音が似ているので、クマを悪霊の一種と勘違いする人も多かった。
ただしクマとは別に、大型の類人猿、すなわちミゴ(野人)がいた。シェルパ族(チベット人)はそれをイェーティ(g-ya’ dred)と呼んだ。イェーは石の多い山(具体的には氷河によってできたモレーン)のこと。イエティはモレーンの岩の合間に生える塩分を含んだ苔を食べるのが好きだった。
またボン教の呪術師は、イエティの皮を着て儀礼をおこない、その際、犬の血、有毒の根、イエティの骨髄と血を使用したという。この場合のイエティは、クマではなく、類人猿だろう。
このイエティの話も、尊者が好んで講話に入れたエピソードかもしれない。チュンビ谷など、チベットとネパール・インドの間のヒマラヤには、昔からイエティ(ミデ、ミゴ)はよく知られていた。現代的な話題のように思えるが、実際はチベット人の誰もが知っていた。
●ゾンビ
厳密には、チベットのロランはゾンビよりも、中国のキョンシー(僵屍)に近いだろう。キョンシー映画を見ればわかるとおり、キョンシーは体が柔軟でなく、膝を曲げることができない。チベット人の家屋には小さな勝手口が作られている場合があるが、これはロランを入れないためである。敷居板が高く、ロランは跨ぐことができないのである。また死者の脛を砕く処置を施すことがある。それはキョンシーのようなジャンプ力のあるロランが敷居板を越えることがないようにするためである。
このロラン伝説はチベット全体に広がっているが、とくにブータン東部で好まれる伝説である。
●ラサで飼っていた犬と北京で再会し、モンゴルに連れて帰る
荒唐無稽な話ではないが、伝記(偉人伝)のエピソードとしてはきわめて異例。尊者が北京に行ったとき、たまたまラサから来た一団の「警護」をしていた犬と再会した。当然、気性の荒い黒い大型のチベット犬だろう。ネット上のこぼれネタのようなエピソードは、なぜナムタルに組み込まれたのだろうか。おそらく実際にあった話であり、尊者はよくこのエピソードを講話の中で話したにちがいない。犬でさえ友情や慈しみの心を持つのに、人間が持てないことがありえるだろうか、と尊者は問いかけただろう。
ここに列挙したエピソードのなかで、無頭男だけがトンデモ話である。イエティやゾンビは(伝説として)実在し、生まれ変わりのメス猿や犬との再会は、実際にあった話である。ただこれらのエピソードのどれも、標準的で伝統的なナムタル(伝記)にはフィットしないのである。
そして最大のミステリーは、尊者はたまたまツァンヤン・ギャツォと似ていたか、自ら本当はツァンヤン・ギャツォであるかのように振る舞ったか、あるいは、作者が主張するようにツァンヤン・ギャツォは死なず、のちにモンゴルの僧院の座主になったか、である。私自身の感触では、もともとこの書は出来の悪いフィクションとみなしてきたが、話を盛りすぎただけのツァンヤン・ギャツォの伝記であっても不思議ではないと考えるようになってきた。
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