結論 モンゴル人は信じ、チベット人は批判する
モンゴル・アラシャン(アラシャー)左旗内の3つの寺院と、アラシャンに隣接する1つの寺院では、ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォを「本物の六世」として扱っているが、青海省大通県の広恵寺(セルコ寺)はそうではない。
ここで注目すべきは、チベット仏教とモンゴル仏教の違いである。元の時代、皇帝はフビライ汗で、師(グル)はパスパ(パクパ)だった。これをチューユン関係という。宗教、あるいは法(chos)と俗世界のパトロン(yon)のことである。政治はモンゴル人、宗教はチベット人が中心となって国を統治しようとしたのだ。
16世紀から17世紀にかけて、モンゴル軍とダライラマ政権が手を結び、「チューユン関係をもう一度」という空気が充満していた。「偉大なるダライラマ」ことダライラマ五世とグシ汗の軍が手を結び、モンゴル・チベットの版図はかつての元の領域をも上回るようになっていた。
そして17世紀末の大事な時期にダライラマ五世は没してしまった。グシ汗の後継者ラザン汗は権力欲が強く、チベット仏教を軽んじ、自身がチベットの王になろうとしていた。宰相サンギェ・ギャツォが五世の死を隠そうとしたのも無理はなかった。しかし何とか隠しているうちに、別の問題が大きくなってしまった。
市井で育ったダライラマ六世がいわば軟弱なダライラマに育ってしまったのだ。六世の愛の詩はすばらしいが、夜な夜な下界に降りて女性と愛を交わすような男が五世の後継者になりようがなかった。実際破門され、北京へ送られることになった。北京で殺されるのか、幽閉されるのか。幽閉されれば六世は政治上のカードとして使われるだろう。
ラザン汗は最初から青海湖の近くで六世を殺すつもりだったのだろう。しかし「殺した」となればチベット人は激しく反応し、モンゴルとチベットの戦いが起こるかもしれない。清の朝廷も黙っているわけにはいかないだろう。実際は殺していながら、「病没した」と発表するのは予定通りだったろう。
しかし本当に六世は死んだのだろうか。逃げるのはそんなに難しくなかったはずだ。誰かと衣服を交換するだけで、もう誰にも分らない。
実際に逃亡した可能性はあると思う。側近の者たちも、護送する役人も、純朴な25歳の青年を殺したくなかったはずだ。もし殺害する予定だったとしても、逃げられてしまったらどんな罰を食らうかわからないので、「病気で死んだ」という偽の報告書を提出したはずだ。証拠の装飾品を添えて。
さて『秘められた生涯』が偽書の可能性はあるだろうか。これは偽書ではない。公式のナムタル(高僧伝)である。作者も高僧であり、ノムンハンという地位にある。
純粋な偽書というより、一部を改変したものかもしれない。このナムタルを執筆するにあたり、3人の高僧の名が挙げられている。つまりラブジャムパ・ロサン・ツルティム、ラブジャムパ・ソナム、ラブジャムパ・ツルティム・サンポ。彼らは異なる要素を加えることに賛成したのだろうか。
もし六世の死を悪用しようとしたのなら、動機は何だろうか。考えられるのはチベットの威光をモンゴルに取り入れようとしたことだ。チベットの影響を受けてモンゴルでもチベット仏教がさかんになった。しかしつねに影響力の大きい高僧はチベットに生まれ、モンゴルの高僧は比較すれば地位はまだまだ低い。
ダライラマ4世はモンゴル人だった。ダライラマ1号は3世であり、あとから称号が贈られた(ダライはモンゴル語)ので、最初にダライラマになったのはモンゴル人だったといえる。しかし結局そこまでで、フトゥクトゥやノムンハン以上の傑出した僧侶は現れていない。
そこでンガワン・チューダク・ペルサンポを六世とするというアイデアを誰かが思いついたのではないか。そういえば尊者は六世のような面影があると言われていたではないか、と。
もしナムタルに六世のことと、遊行僧のよもやま話をあわせたのだとすれば、ばれないわけがないし、反感も相当強いだろう。前述のように反感ゆえ殺され、作者の頭部が定遠営の南門の下に埋められたのだとしたら、またあらたな「怨」の物語が生まれそうである。
実際アラシャン旗王(3代目)のロプサン・ドルジとの間に確執があり、王に対して呪詛を行なったとして拘束され、獄中で亡くなっている。あまりいい余生ではなかったようだが、彼の死と「秘められた生涯」は直接的な関係はなかった。
なお作者は中国に対して異常なまでに気を使っている。たとえば皇帝のことを'Jam dbyangs gong ma chen po(ジャムヤン・ゴンマ・チェンポ)すなわち大文殊菩薩皇帝と呼んでいるのだ。歯が浮くような表現である。実際各寺院は清軍によって破壊されるが、そのあとの復興には清朝廷がさまざまな援助を行い、寺院やラマを認定して、建物も再建している。漢名が付けられ、それが書かれた扁額が贈られた。このアメとムチ作戦にモンゴル勢は見事にやられてしまっているのである。
ここまで述べたように、モンゴル内の六世に関連した寺院はすべて六世を本物とみなしている。清朝廷も異を唱えなかった。転生制度のことを考えれば矛盾だらけだが、清政府としてはそれほど気にする必要はなかった。
チベット人の間では悪評が高かった。たとえばダライラマ13世はこの『秘密の生涯』を呼んで猛批判している。たとえば同時にラサやコンポに現れていることを批判している。遺体もまたモンゴルのアラシャンにあるかと思えば、デプン寺にもあった。こうしたことはチベット仏教を混乱させると考えたのである。
マイケル・アリスはいろんな説を紹介しながら、ンガワン・チューダク・ギャツォと六世を混同したという説にに傾きつつも、「死んだダライラマになりすました」という自説を開陳している。多くのチベット人やモンゴル人仏教徒は同意しないだろう。この尊者もまた高僧である。高僧を「なりすまし」とは呼びたくないだろう。
このなりすまし説はありえるが、もう一つ、ナムタルの作者がたくさん改編し、付け加えたという説も成り立つのではないかと思う。尊者はごく普通の高僧だった。生前、彼が六世だとか、似ているとか言われたことはなく、あくまでそういったことを付け加えたのである。