ダライラマ六世の秘められた生涯
謎の過去をもつ高僧
ジグメ・ドルジェ・シェチャ・クンケン(’Jigs med rdo rje shes bya kun mkhyen)、またの名をンガワン・チューダク・ギャツォ・ペーサンポ(Ngag dbang chos grags rgya mtsho dpal bzang po)、じつはロサン・リンチェン・ツァンヤン・ギャツォ(bLo bzang rin chen tshangs dbyang rgya mtsho)のことである。
数えられぬほどの劫の昔に、色界究極天において涅槃の境地を得、アミターバ仏の第一弟子である観世音菩薩などあまたの菩薩に化身して、衆生を教化された。その聖なる行いは広大無辺にして、われら蒙昧なる者には叙述しがたく、想像すら難しく、いわんや究極を知ることはできない。
尊者は生まれた場所や家族のことも瓶にふたをしたように、明かさなかったが、その功徳は隠しても隠しきれるものではなかった。日頃左右に侍る者たちでさえ、推測するしかなかった。尊者はいつもなにか深くものごとを考えているご様子で、だれかが「師の故郷は何処でしょうか? いかなるご家族なのでしょうか? お年はおいくつであられましょうか?」と伺ったところで「私は幼い頃から流浪の生活を送ってまいりました。あまりにも長い年月ゆえ、故郷のことはすべて忘れてしまいました」とお答えになる。
もし尊者の名を伺っても「私に名などない」とお答えになる。位が高く内情を知っていそうな人に問われると、尊者は気分を害したそぶりを見せ、「おのれでさえ知らないのに、どうして貴方がご存知なのだろうか」と仰せられる。
あるとき中央チベットからタントラ僧がやって来ると、尊者をよく知っている風で、「このお方はもしや」と言いかけたところで、尊者はマントラを唱える。「そんなことをおっしゃると天罰がくだるかもしれません」と言うと、その僧は脳卒中に倒れ、本当にしゃべれなくなってしまった。
ある人は仏の子にしておおいなる宝の化身(すなわちダライラマ)にちがいないと言い、別の人は偉大なるダライラマ五世の化身だろうと言った。そんな話が出てくると尊者は止め、「いいかげんになさい。そんなことありえないですよ」とおっしゃるのである。
ウー(中央チベット)やツァン、アムドから来た老僧らはかつて尊者を見慣れていたものだから(すぐ尊者がだれかわかるのだが)尊者はとくとくと「しばらくはだれにも(秘密を)もらしてはいけない」と言って聞かせるのだった。こうしてしばらくはだれもがその話題を避けるようになった。
尊者は自らこうおっしゃった。「私の肩書きがどうとか、けっして言わないように。水中の魚のようなものなのだから(肩書きなどなくても、そのままでいい)。ただし尊師、つまりグルにたいしては心をこめて祈りなさい。かならず加持が得られます。グルを尊び、祈祷すれば、聖なる観音の加持が得られましょう」。
とはいえ、そばに仕える侍従や信仰心の篤い人々は、漏れ聞く話から、尊者がひそかにカム、ウー(dbus 中央チベット)、インド、ネパールなどの聖地をめぐり、修行、苦行を重ね、さまざまなことを聞いてきたことを知っていた。尊者もその話が広まっていることは知っていて、外部にはけっして漏らさぬよう彼らには釘を刺していた。
しかし尊者もだいぶお年を召したので、セルコ寺(gSer khogs)の高僧シャルワ・ロサン・パンデン(Zhva lu pa blo bzang dpal ldan)やタンリン・ゴンワ・シャプドゥン(Thang ring bla ma gong ba zhabs drung)ら多くの人びとは師に懇願した。「お隠しになるのにはそれなりの事情があるからでしょうが、差し支えないものなら、あきらかにされてもよろしいのではないでしょうか。それをもとにナムタル(rnam thar 伝記)を編むこともできましょう」と。
あまたいる敬虔な弟子のなかには、私(筆者)にナムタルを書くよう要望する声が高まっていた。そのひとり、座主ドルジェチャン・ギャナク(rDo rje ’chang rgya nag)は、「貴下は聖僧の生涯を記録するのがつとめである。いま、書かなければならない」とおっしゃった。さらに「私はこの尊者をほんとうに尊敬しています。尊者のナムタルを書くことは、恩恵を蒙るということでもあります」と付け加えた。
当時門弟のなかには自分の師匠の業績をことさら飾り立て、大きく言う風潮があった。位の高い僧のなかにもあることないこと織り交ぜ、混乱をきたすことがあった。私はといえば、あさはかなる者とはいえ、飾り立てるのは無益と考え、慧眼なる人びとから笑われるだけなので、そんなことはしない。そもそも尊者ご自身がそのようなことを許すはずがない。このような事情があり、高僧の指図にもかかわらず、伝記を書き上げるのに多少の時間を要してしまった。しかしこうして道理をもとめたので、尊者を傷つけることはなく、聖なる教えにもとるものもなく、文殊菩薩にさからうものもなく、まったくもって利他の心で成し遂げたのである。
筆者はここに天の理にしたがい、真心をこめて、尊者の伝記を謹呈さしあげる。資料は尊者御身からお聞きしたものもあれば、筆者が見聞したものもある。尊者の仰せられたことはわが記憶に収めていたものである。
伝記は以下の3章にまとめられる。
一、尊者の誕生、出家、座主につくまで。
二、衆生の利益のための苦行、修行など。
三、ドメ地区(mDo smad アムドの一部)に光臨して衆生を教化したこと、および入滅。
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