ダライラマ六世秘められた生涯年代記 

 

1683(水豚) モンユルのラオク・ユルスムに生まれる。

1697(火牛) ダライラマ六世としてポタラ宮入り。 

1697(火牛) パンチェンラマ・ロブサン・イェシェによって戒を授けられる。学習開始。 

1707(火豚) 中国へ護送される途中、クンガノール湖で逃走。遊行僧に化け、各地を巡る生活を始める。アリク部族やアシュル部族と会う。ギャルモロンへ。

[摂政サンギェ・ギャツォを死に追いやり、チベットの権力を握ったラザン汗はンガワン・イェシェ・ギャツォという1686年生まれの僧侶をカムに発見し(自分の息子ではないかと噂された)、「真のダライラマ六世」として即位させた。しかし康熙帝やチベットの各方面から認められることはなかった。そしてツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりとしてケルサン・ギャツォ(ダライラマ七世)が発見された]

1708(地鼠) ツァワロンのドルゲに着く。天然痘にかかるが、回復。カチュチャプという老人と知り合う。パドマサンバヴァの洞窟で三か月瞑想修行をする。ザコ、サカル、ターチエンルー(康定)を通ってリタン(理塘)、バタン(巴塘)へ。

1709(地牛) アッサムに到達。そのあと西蔵に戻り、カツェル僧院を経てラサ、デプン僧院、セラ僧院へ。セラ僧院の修道所でジェ・ゲレク・ギャツォによってダライラマであることを見破られる。一か月、隠棲して過ごす。ガンデン僧院でツァンドク・ポワという僧と親しくなる。ダクソク僧院で約一年、隠棲して過ごす。この僧院のラマは以前の弟子だった。サムエー寺、タンドゥク寺、オルカ寺へ向かう。

1710(鉄虎) チベット東南の聖山ツァリへの巡礼。ツァリ・チクチャルでマルポという名のカギュ派のラマと瞑想を学ぶ。数か月ここに隠棲する。ダーキニーの幻影。オルカ・ガンナンの修道所で11か月、ラサーヤナを実践する。ツォンカパとチャクラサンヴァラの幻影。

1711(鉄兎) オデ・クンギャル聖山の山頂から杜松(ねず)の香煙を捧げる。サムテリンに到着。ラザン汗が派遣した人々(兵士)に捕えられる。ウールァ・タクツェ・ゾンの牢獄に入れられる。護衛兵付きでラサへ送られる。しかしグカラ峠で逃げ出し、コンポへ。ギャラ・センドンで隠棲生活を送る。番犬に追われ、襲われる。何年も彼に仕えてきたロジャと会う。インドへ向けて出発。途中で「人熊」に追われる。モンユルの自宅を訪ねる。そこからネパールへ。

1712(水竜) カトマンドゥ谷の仏教聖地を訪ねたあと、インドへ巡礼の旅に出ようとしているバドガオン(バクタプール)王の巡礼団に加わる。インドで2匹のキョンシー(ゾンビ)を制圧する。

1713(水蛇) グリドラクータに到達。プラハリ訪問。神秘的な六本の牙を持つ象と遭遇。ネパールに戻り、数か月、瞑想生活を送る。

1714(木馬) ニャナムやディンリなどを通ってモンユルの故郷に戻る。そこからバンリム・チューデ僧院を経てダクポへ。オルのダクポ・ダツァン僧院を訪ねたあと、ロンチャカルを含むエ地方のすべての寺院を巡る。デューコギャルを訪ねたあと、ラサにふたたび戻った。

1715(木羊) デプン僧院の託宣(チューキョン)によってダライラマであると認定される。

1716(火猿) メル僧院とシデ僧院の献品収集の一行に加わってラサを出発。黄河に流された僧侶を救う。そのとき「仏骨」を失う。秋にココノール(青海湖)に到達。西寧からセルコ寺へ。そこでメー・ドゥブチェンともうひとりの僧侶によってダライラマであると気づかれる。二人ともラサで会ったことがあった。

1716(火猿) 西寧から移動し、アラシャン砂漠のツァプロスにさしかかったところでバズラチャップ・タイジと会う。作者の父親である。

1716(火猿) 新しいパトロンのために精神的な歌を歌う。言葉に隠されているが、過去の生活を思い起こさせるよう。

1717(火鳥) アラシャンで新しいパトロンとともに新年を祝う。尊者自身が馬に乗ってアラシャンの支配者アボーの衙門の前まで行った。彼の外衣が燃えていたが。奇跡的に消すことができた。馬を預けていた牧人が勝手に馬に乗っていることを千里眼的に知る。アボー王に招待される。地域の最高位のラマとしてふるまうよう求められる。アボー王の妻、満州族のケケ(王妃)と会う。のちのパトロンである。宗教儀式を行いながら2か月そこで過ごす。そしてバズラチャップの土地に戻り数か月滞在する。

1717(火鳥) パトロンであるケケ(王妃)とともに北京へ。王爺府(wang gi phu)に滞在した。高官(阿老爺)がやってきて、(ポタラ宮の)宝座にふたたびついてはどうかと提案した。タムカラマ(認定ラマ)が空位になっているという。しかし尊者は断る。役人は我が家(作者の家の)ラマであるデモ・フトクトゥからの贈り物を渡す。エプ・ゴンポキャプとトゥパケン・フトクトゥに教えを授ける。番犬に正体がばれる。犬は、流刑になったサンギェ・ギャツォの息子たちや娘たちといっしょにチベットからやってきたのである。皇帝の前のかかりつけの医師だったメンランパ・クンサンを治療する。医師は尊者が前のダライラマであることを認識した。

1718(地犬) 満州族王妃(ケケ)とともにアラシャンに戻り、バズラチャップ・タイジの土地に二年間滞在する。

1720年、ジュンガル軍がチベット軍と清軍によって西蔵から追放され、ダライラマ七世がポタラ宮に迎え入れられた]

1720(鉄鼠) セルコ寺(現在の広恵寺)へ。そこでチュサン・リンポチェ、メー・ドゥブチェンに教える。アラシャンに戻る。

1721(鉄牛) ふたたびセルコ寺へ。セルコ寺の支寺であるジャクルン寺の長老たちが尊者に自分たちのラマになるよう懇願する。ジャクルン寺の13の瞑想センターを受け持つナンソ・サンポ・ギェルツェンに歓迎される、女神ラモの絵に献酒。しかしこの絵はタシルンポ僧院から盗まれたものだった。それがジャクルン寺にあることを、尊者は千里眼でもって知っていた。新しいジャクルン寺としてダガクに建てられる僧院のロブチュンとしてチュクツィサンに指名されることを予言する。弟子のジャモ・カチュパを奇跡的に救う。モンゴルへ行き、その後アラシャンに戻る。

1723(水兎) テンジンの乱。清の軍隊によって多くの寺院が破壊され、セルコ寺のチュサン・リンポチェを含む多くの僧侶が殺された。この攻撃はテンジン王(ロブサン・テンジン親王。グシ汗の孫)の反乱を鎮めたものである。ジャクルン寺も焼け落ちたが、ジャモ・カチュパは奇跡的に生き延びた。

1723(水兎) 夏、(外モンゴル・ハルハの)ウルガのジェツン・ダンパ・フトゥクトゥからインド人のアツァラ(遊行僧)が使者として送られてくる。尊者に彼のあとを継ぐよう要望したメッセージを托されていた。尊者は断ったが、その直後にジェツン・ダンパ・フトゥクトゥは逝去した。

1724(木竜) パトロンのアラシャンのアボーによってウルガへ案内される。ジェツンダンパの葬送儀礼を行ない、当地で教えを授けるためである。ツェチェンの家へ行く。そこに一か月滞在し、教えを授けた。

1725(木蛇) (雍正3年)清朝皇帝がアラシャン人にココノール(青海湖)地方への移住を命じる。尊者は一時的にポロチュガに滞在。

1727(火羊) (雍正5年)新ジャクルン寺(ジャクルン・トサム・ダルギェリン)の建設が始まる。(1743年完成)現在の石門寺、塔布寺か。

1730(鉄犬) 蘭州で開かれた満州族と漢族の軍隊のジュンガルに対する勝利を祝う儀礼に参加。儀礼を執り行う。岳鍾琪将軍から贈り物をもらう。

1731(鉄豚) (雍正9年)アボーは仕える者たちと一緒にアラシャンに戻る。彼らはココノール(青海湖)地区に7年間滞在した。ココノール地区の北の黄色いウイグル(ユグール)の地区を訪ねる。十三の寺院の代表としてふるまう。代脱(タイトゥ)寺を訪ね、寺主ロウキャ・シャブドゥンからダライラマとして認定される。寺主の弟ロウシバンとその家来の庇護を受ける。ゴンチェン、ダゴン、ドルジェチャン・グルゴンの寺院を訪ねる。ジュラク川で溺れる漢族の男を助ける。タイトゥ(タイタン おそらく今の昭化寺)の法座に就く。そしてラサと同じ新年儀礼(モンラム)を導入する。

1735(木兎) 将来の伝記作家ダルギェ・ノムンカンを中央チベットに送る。勉学と、ジャクルンの新しい僧院に必要なものをそろえるためである。

1736(火竜) ジュンガルのシシ・ナムギェル・ドルジェによってオルドスのタシチューリン僧院に招待される。夏の隠棲とシスムの儀礼を実践した。

1738(地馬) 作者、ラサから戻ってくる。

1739(地羊) ラサで行われているのと同じ新年の儀礼がもたらされる。

1741(鉄鳥) エルケ・チュージェを筆頭とする檀越らが尊者のオルドスへの招請を強く願った。オルドス・ツルゲン・ザサクの家族はみなそれを願った。招かれた尊者は教えを授け、贈り物を受け取った。施主が一挙に増えた。

1743(水豚) 占星術が不吉なことを示したので、より多くの儀礼が開かれた。

1743(水豚) (乾隆8年)新しいジャクルン寺、トサム・ダルギェリンが完成。ダクポ寺、あるいは中国語で石門寺とも。寺院は朝廷から認証と特権を与えられた。宗教儀礼の暦が導入され、パンチェンラマから規律規範が与えられた。

1745(木鼠) タイトゥ(タイタン)寺の法座から退き、25年守ったジャクルン寺の法座からも降りようとしたが、認められなかった。

1746(火虎) 病状が悪化しているにもかかわらずジャクルン寺の新年の祭礼(モンラム)に参加する。

1746(火虎) ジャクルン寺にて円寂。(現在の承慶寺?)

1757(火牛) アラシャンのペンデ・ギャムツォリン寺(たぶん広宗寺)でダルギェ・ノムンハン、秘密の伝記を完成させる。